『先ずはガクくんで』
『がっくんを呼びます』
『こういうとき伏見なら、』
『ガクくんってさ、』
『がっくんはね、』
『伏見さんに、』
『伏見ガク』
『僕の相方の』
「とやさん、無理してくれなくていいよ」
思わず零れた言葉に、あれぇ……? と一拍遅れて首を傾げた。自分は何を言ったんだろう。ぐるん、刀也さんの視線がこっちを向くのが分かる。あ、やべ、おこられる。
ふしみがあたふたと顔を逸らそうとしたとき、しかしとやさんは「おぉ?」と、……こちらの予測に反して、なんだか興味深そうに目を見開いた。
「おいおい……、おいおいオイオイオイオイ!!」
あれよあれよという間に距離を詰められて――元々二人掛けソファにきちんと並んで座っていたのだから、距離という距離はないんだった――とやさんの方から大胆に肩を組まれる。無遠慮と形容するには柔らかすぎたし、柄が悪いと揶揄するには、その声に乗る喜色があまりにも甘かった。
とやさんは、確かにうきうきとして――わけの分からないことを申したふしみに、己の発言を御せなかったふしみに、二人きりの部屋で、長年の友人に対して突然、益体ない言葉を投げ掛けてしまったふしみに――絡み付いてきていた。
「あのー……剣持くん? ぼくお金持ってないよう……」
「百歩譲って喝上げだとしても、今の僕にはお金よりももっと欲しいものがあるんですよね!」
「それって……オレの心……ってコト?」
「んあははははは!」
とやさんは、ふしみの苦し紛れの台詞にめちゃくちゃウケてくれた。いや、ウケた、のかな、ひょっとしたら、彼だって照れていてそれを自分で誤魔化そうとしたのかもしれなかった。
「そ、ですよ。あなたの心だよ」
笑い声の合間に薄紙を挟み込みでもするかのように、ほそぼそとぺらぺらと、とやさんは紡いだ。ほそぼそとぺらぺらと、見えるように細工しているだけだ。その手つきは器用なのかもしれないけれど、彼を相方とするふしみの目には、そんなはったりに隠してまで何かを伝えようとする仕草はとっても、不器用に見える。愛に見える。
「そんなん、もうとっくに、オレはとっくにとやさんに――」
見えてしまったものがほんとうに嬉しかったから、ふしみはもう素直にぼろぼろとそういうことを吐き出した。これらはうっかり零れてしまったのではなくて、敢えて蓋を開けておいて、中身の噴き出すのに任せたのだ。だのに、ふしみの横合いから手を伸ばして、とやさんはその蓋をばちんと閉めてしまった。
「いーや! ――だったら先の発言は何だって話でしょ」
沸き立つ液体が、蓋の下でしゅんと温度を下げる。
「まるで信用してないみたいなさ。僕がガクくんのこと、その都度好意を持って話題にするのを、実際のところ僕の本意なのかって不審がってるみたいな。一応確認だけど、そういうことでいいんだよね? さっきのあなたの言葉って。……うわー、やだなー! 今更こんなことを疑われるのってさあー!」
おどけた声音に、思わずごめんと返しそうになってしまって慌てて唇を結んだ。ちがう違う。今、ごめんなんて言ったら、まるで刀也さんを信用してないっていう部分に対して肯定する返事みたいになってしまう。そんなわけがない。そんなわけは。
「疑ってるわけじゃあ、ほんとにないんだよ……」
しょんぼりとそう返したけれど、ならば何なのかはふしみにも本当に分からない。分からない。さっきの自分は一体、何を思ってあんな言葉を零したというんだろう。
(――……ただの構われたがりで、やだな)
蓋をする、蓋をする。このまま撹拌してしまうか、沈澱するのを待つか、迷いどころだが、……はて、一体何に迷うというのだろう。何せふしみは分からないのだ、正体の分からないものの処遇については何の裁定も下せはしまい。
「ガクくん、じゃあさ……〝自信がないの?〟って聞き直した方がいい?」
「……ぇえ?」
絡めてくれていた腕を外しながら、とやさんはふしみの目を掬い見た。
「僕からしたら全然、なんで君が君自身に対してそんなふうに思うのか納得はできないけどさ――僕が信用ならないっていうより、自分のことを信頼しきれないの? まあ、ガクくんそういうところありますからね。なんだろな、謙虚さ? みたいな、なんていうかまあ、そういうところ全然、長所の裏返しというか、長所の一端が場合によってそういう現れ方をするんであって、だからそれはそもそもが美点であるとも言えるし、……だから、まあ、……まあ……僕だってあなたのそれは別に悪くもないと思うし好きですけど」
とんでもない管の巻き方をされた。さしものふしみもちょっとは呆れて、けれどもそこに見るのはやはり愛以外になかったから、しようがなく唇をふにゅふにゅさせながら喉の奥でくふんと笑った。
「だぁーれが自信ないですってえ?」
「おめーだよおめー、このドお人好しが。さては僕がしつこく相方相方と言及する毎に、果たして自分は真に相方たり得ているのか? みたいな途方もないことをいちいち愚直に省みすぎてんじゃねーのかって言ってんの」
「ほー……?」
笑い飛ばすことは咄嗟にはできなかった。現況とはおよそ異なる推論ではあったけれど、ただ、とやさんの口からそんな内容が出力されることに意外性があって、それがちょっと面白かったのだ。
「たははは、オレがけんもちとーやの相方であることに自信がないわけないじゃないすか」
「そう? ……まあ、じゃなきゃ困るけどね」
さも傲岸そうな字面の裏にやわい心配を潜めたまま、刀也さんは目を伏せた。
「そだよ。これに関してはね、とやさん、オレ自信しかないよ」
ふしみは、そんな彼にそっと身を寄せると、その心配ごとどっぷりと浸してしまうような甘い音を惜しみなく舌に乗せた。
「――だって、とやさん、オレのこと大っっ好きでしょ?」
次の瞬間、とやさんはあまりにもぽかんとした表情で顔を上げた。ふしみはぎりぎり自覚しきれていないくらいの惚けた笑みで、剣持を見つめていて、けんもちはそれを至近距離のド真正面で食らいながら、いかにも伏見がずれているとでも言いたげな戸惑った声色で呟いた。
「相手から好かれてることと良い相方であるかどうかは別じゃん……」
「そぉ? でもオレがとやさんのこと大好きで、そんなオレの日頃の接し方に触れた上で、キミもオレのこと大好きって思ってくれてるんならさ、これってめちゃくちゃ相方として上手くいってるってことなんじゃないんですか? ……ちがうの?」
ふしみは、あいかたのかおをじっとみつめた。自分の口許がごきげんに弛んでいるだろうことはなんとなく分かっているけれど、それが相手から見てどれだけ甘えたものであるのかはあんまり分かっていなかった。
一方、とやさんは、ふしみの顔を自分がされているのとおんなじだけ見つめ返しながら「うーん……? あー、まぁ、……いや……それはそう、だけど……?」と、いたいけな仕草で頻りに首を捻っている。
でしょ、と軽々しく返しながら、ふしみは目の前のなまっちろい頬骨にぺたんと触れた。とやさんの睫毛が震えて、まばたきのために一瞬だけ閉じられる。それがふしみの指に一瞬だけ触れる。なにか鱗粉みたいな、光の粒がきっとふしみの肌に移った。引き寄せられるように、もっと顔を寄せて。
「……ね、とゃさん。とゃさん、オレんことだいすきらよね?」
ぐずぐずに煮詰めた果物みたいに、滑舌ごととろけた。
覗き込んでも、視線は合わない。蜜の中を揺蕩うようにとやさんの視線は泳いだまま、
「……ん、……ぁたりめぇだろ」
小さく、ぶっきらぼうな声だけが返ってきた。
ふしみは、――今の今までこれだけ強気に自信に満ち満ちていたふしみは、しかしどうしたことか、たった今、好きとは言ってもらえなかったことになぜだかとても泣きそうになってしまった。いいや、間違いなく、好きと言ってくれたに等しい返事なのだから嬉しいのに。本当に、嬉しくて、嬉しいのは事実なのに。
淋しさに泣きそうで、でも心から嬉しくて、笑みが滲む。そのままぼうっと刀也さんに見惚れていた。
「なん、……で、そんな、かお……」
沈黙を訝しんだとやさんの、ひどく掠れた声で我に返る。未だに頬を撫でていた指先をおろおろと離すと、なぜか、とやさんの指に引き留められた。そうしてまた元のように、いや、さっきよりもぴったりと、てのひらを頬に添わせるようにしてくっつけられる。
無意識のように、手の甲側から指のあわいをぎゅうと握られて、同じくらいかそれよりももっと強いくらいの力で、胸が締め付けられる。締め付けられた分、脈が大きく打って、鼓動がうるさい。速い。
「ぁ、……相方って、こん、な、っ……こういうことじゃ、ないぃ……」
啜り泣くような声で落とされたほんとうに小さな囁きに、ふしみの心はがくんと揺れた。
「……嫌です?」
慇懃な語尾で問うてしまったのは、たとえ冗談でも首を縦に振られたくなかったからだ。こちらの怯えを、少しでも匂わせて、同情すらも引きたかった、引いて、それによってたとえ仮初のものでも構わないから、今だけは色よい返事を耳にしたくて。
そんな打算が功を奏したのだとしたらあまりにも情けない話だけれど、とやさんはふしみの声を聞いた途端、目をまんまるく見開いて首をぶんぶんと何度も、横に振ってくれた。その歓喜に浸る間もなく、握り締められていた筈の指がするすると離れていく。胸の底が冷えてく。ふしみが諦めるためにたった一度、さりげなく瞬きをした瞬間、とやさんの顔が目の前から消えた。
左肩に衝撃。濃くなる髪の匂い。あたたかい。……やわらかい、泣きそう、え、……これって。
「……すき」
くぐもったとやさんの声が、そんな言葉で返事をくれた瞬間、きゅう、と伏見の喉からはとても情けない音が漏れた。本当に情けない鳴き声だったのに、とやさんは真っ赤になった首をぴくっと竦めただけで、ちっとも嗤ってきたりはしなかった。
それが却って恥ずかしくて、ふしみは今までにないほど顔に熱が溜まるのを感じる。
左肩に押し付けられている、まあるい頭を、両手でそうっと抱き締める。背中に回されているこの人の両手が、居た堪れなさそうにぎゅーっと、闇雲に拙い力を込めてくる。どくどくと心臓がかさなる。上った熱が、目に集まって、茹って、茹るようなのに、これはいくら経っても蒸気になって知らぬ間に散ってはくれないんだって。どうしよう。零れてしまう。
「とやさん、……とうやさん、刀也さん、……愛してます」
きみの髪、濡らしてしま、う。
*
――んは、あは、いじらしいわらいごえが腕の中で芽吹く。「天気雨だぁ」とやさんがくふくふしたまま言う。
なにぃ? と問い返すとひどく濁った声になってしまった、のに、とやさんはそれを「涙声だ」って、あんまりにも澄んだ言い方をしてくれて、
「太陽が泣きやがる」
不慣れな指先でふしみの心を擽るついでみたいに、冷たくなっていたほっぺたを拭ってくれた。