一次創作

「バター」と「バテる」って
同じ語源らしい(大嘘)

「暑いねえ……」
 力ない笑顔で燐を出迎えたのは、自分とそう変わらない若年の人間に見える男。跳ね上がった造形の眦は大抵人懐こそうに和らいでいるのだが、梅雨の晴れ間を縫って太陽がじりじりと地を焼く今日、その眼差しが緩いのは、果たして単に旧知を迎える喜びのためだろうか。
 毎夏の例に漏れず白地の小袖に、細い腰を締める紺のベルト、絡げた裾の下は黒いクロップドパンツ。ローファーを履くときはショートソックスを合わせていたと思うけれど、今、ぺたぺたと板敷を踏んで出てきた彼は素足だった。
 別にどこから邪魔をしてもいいのだろうとは思うが、なんとなく、燐はこうして玄関からこの家に踏み入ることが多い。それで、彼――ソウが、今のように顔を見せて、招き入れる言動をしてくれてから初めて靴を脱ぎ始める。
 それを分かっているから、今日も彼は律儀に玄関まで出てきたのだろうけれど……どうぞと部屋から叫んでくれれば、別に勝手に上がるくらいには遠慮をしないし、叫ぶ元気もないと言うなら、いっそ何か派手な物音でも立ててくれれば、きちんと心配して駆け付けるくらいはするのにな。明らかにふらふらしている背中について家へ上がりながら、燐は黙々と思う。
 やや汗の浮いたように見える肌は、いつ見ても抜けるように白い。首筋までを覆う薄茶色の髪は、湿気には左右されないようだが常に癖を纏ってふわふわしている。それが今日は、もたげておくのも大儀なのか緩慢に傾いでいる頭の動きにつれて、いっそうふわふわと揺らいで見えた。
 着物の裾は絡げているくせ、袖は捲らない。腕貫の類も着けていない。暑さに弱いのなら、家にいるときくらいもっと涼しい格好をすればよさそうなものだが、変な拘りを捨てたことがない。人は見掛けに依らないと言いはするが、畢竟、その見掛けを作るのは人となりである。
 ――と、燐が目の前の背中をぼんやり眺めていたのは、その間に人間が瞬きを一回必要とするかどうかという時間だった。素足のまっさらな爪が、開け放されていた障子の敷居を跨ぐ。
「……やれ」
 畳敷の部屋に辿り着くや否や、ソウは糸が切れたように息を吐いた。そして、
「ちょっとごめんねえ……」
 と断りながら、燐が何か返すのも待たずそのままぺしゃんと横になってしまった。
 来客にはなるべく構いたがる彼にしては、珍しいことだ。加えて、度々人を迷わせるこの家が、稀に見る最速の間取りでこの部屋へ導いたことからも、家主のばて具合はよほどのものなのだと知れる。
 畳の上へ直に溶けるその姿は、トーストに乗せた白いバターのようだ。しゅうしゅうと見る間に形がなくなって、パンもとい畳と一体化してしまいそうに思える。ぴくりとも動かなくなったように見えたので、それが錯覚であることを確かめるためにそっと膝でいざり寄った。依然、息をしているように見えない。そこで、横顔に掛かる髪を少し、指先で掻き上げてみると、現れた睫毛が幽かに瞬いたので、漸く彼に意識のあることを確認できた。
 相変わらず扇風機も見当たらない部屋だったが、ふと、離れたところに団扇が落ちているのに気付く。燐が来るまでは、ソウもあそこに落ちていたのかもしれない。
 それを手に取って戻って来ると、顔の辺りに向けてそっと扇いでやる。ふわりと髪が靡いて、柳眉が僅かに和らいだように見えた。
 ゆっくりと風を送りながら、燐自身はこの室温の恩恵に与っているので、ソウに対してありがたいような不憫なような気持ちになる。この家の敷地――法的な境界線などは勿論ないのだが――に踏み入れた途端、空気は明らかにそれまでよりも快適に、つまり体感温度は下がっていた。今だって、はっきり〝涼しい〟と形容できるほどだ。
 確かに、彼は個人としては多少暑さ寒さに敏感だが、生き物としての体質は自分とそれほど大きく違わないのだから、燐にとっての快適な気温はソウにとっても大方そのようである筈だ。とすれば、彼のばて様は気温そのもののみに起因するというよりも、暑さを避けるあまり体力を消耗しすぎている所為も大きいのだろう。
「……ありがとう、燐」
 やがて、伏せていた瞼を少し上げて、ソウが囁いた。弱々しくはあるが、先ほどよりは幾らか生気が戻ってきたように聞こえる。
「ごめんねえ、こんなんでから……もうちぃと休ましてもろうたら、話聞けるけえ……」
「いや……大した用じゃないよ。バイト先で大量に菓子貰ったから、それを置きに来ただけ……」
 ソウの柔らかく掠れる声音に対して、自分の答える声はぼそぼそと低い。見た目だけでなく、声色だってよく人となりを表すものだと思う。愛想というものをいつまでも知らない燐とは違う、根っからの愛嬌をよく映す眼が、特に面白味もない筈の返答を聞いてまあるく見開いた。
「……そ、それだけ……?」
「うん……」
「……えぇ、」
 嬉しい、と続けたソウの表情が、ふにゃふにゃと笑み崩れた。玄関先で見た、疲れを隠しきれていないそれじゃない。それはもう殆どいつもどおりの、安心しきったような屈託ない笑顔だった。
「ええぇ〜……嬉しい、なんも用がないのにわしに会いに来てくれたんじゃ、燐……!」
「や、だから、食いきれん物を押し付けに来たって……」
「それを〝用がない〟っちゅーそっちゃ!」
「えぇ……?」
 なぜかいきなりフル充電以上に気力が回復してしまったらしいソウが、がばっと身を起こす、が、案の定ふらりとしたので咄嗟に手を伸ばして肩を支えた。
「わあ……っ、ご、ごめんね……」
「……お前、あのまんまばてちょった方がだいしょう落ち着きがあってえかったんやないか」
「み゙ょっっ」
 足を踏まれた小動物のような声を上げて、腕の中の身体が縮こまる。まさしく恐縮していると言ったがいい。妙な間が流れて、遅ればせながら異変を察して、燐は戸惑いつつ言い足した。
「え……と、冗談だったんだけど、ごめん、デリカシーがなかった。お前が無理してるのが嫌なのと、ちょっとは元気になったみたいで安心したのとで、軽口叩いてしまった。倒れとけばいいなんて思ってないよ。お前が病気も心配事もなく笑ってるのが、俺も嬉しい」
 ソウが、そろそろと顔を上げてこちらを見る。目が合って、一つ……二つ、瞬きをした後で、切れ長の眦は、再び柔らかくとろけた。
「……ありがとう」
「……? 〝ごめん〟に対して〝ありがとう〟はおかしくないか」
 燐が据わりの悪さに首を傾げると、ソウはくすりと笑った。
「なら、〝ごめん〟には、〝いいよ〟。わしが笑うちょるのが嬉しいって言うてくれたことに、〝ありがとう〟で」
「それでも……それは別に、礼を言われるようなことじゃないし」
「えーの」
 抱き支えた腕に掛かる力が増す。一瞬、身構えたが、すぐにソウがわざと体重を掛けてきているのだと知って息を吐いた。彼はなおも楽しげに笑っている。
「わしが言われて嬉しかったんじゃけー、えーの」
「……分かったから。起きるんやったらしゃんと起きい。ひっついちょうと暑かろうが」
「んー……? ……ふふ」
 燐が控えめに押し返そうとすると、その分だけソウがしな垂れ掛かってくる。
 人間がこんなふうにじゃれ合うのは、よほど親しい仲でもそうないだろうが、獣どうしであったとしたって、燐はとかく他者と触れることが好きでない。身体的にも、また精神的な意味合いでもそうだ。だから――もう慣れてしまった、諦めてしまった、というのだけではどうも言い足りないような……ソウに対して許している、己の気持ちのあり方が、ふとした瞬間に、しんみりと不思議に思える。
 「……手ぇ離すぞ」「に゙ゃっ⁉」慌てて姿勢を立て直すソウの様子を見届けて、彼の上体がちゃんと自立したことを確かめてから、そっと腕を解く。離れる間際、柔らかな白茶の髪の毛に触れてそのまま軽く頭を撫でた。不遜の謗りはあるかもしれないが、これだけ子どもじみたじゃれ方をしてくる相手にはお似合いの返しだろう。
「ゼリー食べる?」
 ここでやっと、自分が訪ねて来たその本題であるところの手荷物を広げて見せれば、
「……食べる……」
 年下からそんな扱いを受けたことが流石に恥ずかしかったのか、ソウは少しだけ顔を赤くして小さく答えた。
 部屋にある唯一の文机は、本と書き物とで埋まっていたので、適当なローテーブルを作って部屋の真ん中へぽいと置いた。いそいそと這って来たソウが畳へ直に座ろうとするのに、一応、藺草の座布団も出してやる。
「わあ、ええよ、部屋にあるの使うけえ……」
「別に遠慮せんでも。俺の神経が通っちょうわけでもないし、気ぃ遣わんでええ」
 燐の作る物が別に燐の身体そのものでもないことは承知している筈なのに、彼はそれらを踏んだり、蹴ったり、その上に乗ったりすることを昔から遠慮しがちだ。
 その割に、今、同じように燐が差し出した無論この家のものではないスプーンをは、躊躇なく受け取る辺りが、少なくとも燐の感覚とは違うようだから不思議な思いがする。別に、彼に言ったとおりそれらに燐の感覚が通っているわけではないので、口に咥えられようが上に乗られようが本当に構いはしないのだけれど。
「……ありがとう。そしたらわし、お茶淹れてくるねえ」
「いや」
 こんにある、と燐が荷物の中から2リットルペットボトル入りの麦茶を取り出せば、ソウは固より大きな目をさらに丸くした。
「なんでぇ……⁉」
「茶を淹れに行ったきり帰って来んこうなっても困るけえ……」
 元々、自分がご相伴に与る気はなかったのだが、ソウが一人で食すにしても、近頃よくあるという客人と共にするにしても、せっかくの菓子を置き去りにしたまま延々と家の中を彷徨うなんてことになってはかわいそうだ。そう思って行きがけに買って来たのだが。
「……! それいねえ! ふふふん、わしも燐とはぐれてしまうのは淋しいけえ困る!」
「淋しいのはお前だけだけど……」
「にょ゙ぇ〜〜っ⁉」
 茶目っ気の似合うハスキーボイスがすっかりいつもの調子を取り戻したのを聞きながら、グラスを二つ置いて――そこではたと気付く。
「……しまった。お前を当てにして冷やしてなかった」
 うっかりしていた。まさか梅雨も明けていないこの時期に、こいつがここまで弱っているとは思わなかったから。
 空のグラスを見、汗もかいていないペットボトルを見、思考をさっと巡らせる。少し待たせてしまうけれど、一番近いコンビニまで歩いてこよう。常温の方はこいつ自身が元気なときに勝手に冷やして食えばいい。そう結論して、最後にちらりと彼の顔を確認しようとすると、思いのほかきょとんとした目とかち合った。
「うん? 勿論ええよ、わしが冷やそう」
 そう言って、彼が当然のように二つのグラスと二つのカップゼリー――贈答用の詰め合わせの中から、ソウが選んだソウの分と、ソウが勝手に選んだ燐の分――とを引き寄せようとするので、慌てて制した。
「お前、まだちょっと顔色悪いよ。余分な体力使うな」
「……! あっはっは! こんくらい大丈夫。それに、燐がおってくれて元気出たもん」
 線香花火みたいにきらきら笑う彼の言葉は、たぶん嘘じゃないのだろうけれど多分に過信が入っている。燐にそこまでの力はきっとない。
「ね、燐、氷作って」
 それなのに、柔らかい声が甘えるように囁いたかと思うと、空っぽのグラスを二つ、長い指が絡め取って掲げて見せる。
「……せめて、俺の分はいいよ。俺は、お前と一緒に食べられるだけで充分……」
 少し仰々しい言葉になってしまったかもしれないが、嘘のない言葉を自分の中から取り出そうとしたらそういうふうになったのだから仕方がなかった。
「ふふ、やっぱり燐は優しいねえ」
「は? 何が」
 今の言動の何をどう見たらそんな感想になるのかが分からないから、大方、適当に誤魔化して、さりげなく彼自身に都合のいいように舵を取ろうとしているのだろう。そうはさせないという意志を籠めて強めに返したのだけれど、予想に反して、ソウは悪戯がばれたような顔をすることもなく、どころか却って相好を崩した。
「あのね、……燐がわしにそう言うてくれるのと同じように、わしも、お前にちょっとでも居心地ようおってほしいと思うそ。わしとおってくれるときに、ちょっとでも……まして、燐の方から会いに来てくれたんじゃけえ、なおさら」
「、……」
「ね、お願い。わしも燐に何かしちゃげれたんじゃって、思わせちょって? わしゃ満足すりゃー黙るんじゃけん。うるさい口を黙らせると思って。ね?」
 小首を傾げて下から覗き込むように話してくることが多いから、背丈にそこまでの差はない筈なのに、彼が自分より幾らも小さかったような気がしてくるときがある。だからといって、自分は庇護欲のようなものを持ち得ないし、まして相手がこいつだと分かっているのならばなおさら、遠慮の気持ちなんて湧かないのだけれど。
 それは今とて同じことなのだけれど、ただ、こんなに粘られるならもうどうでもいいかという気に燐はなってきた。考えてみれば、たった二人分の麦茶とデザートを冷やす冷やさないで、ここまでの押し問答をしているのは少しナイーブすぎたんじゃないのか。
 今だってソウは絶えず、少なくとも燐にとっては涼しい室温を維持している。彼自身が笑って言ったとおり、実際、片手に優に収まる程度の物質を冷やすのに費やす力は、彼にとって労力とも呼べない程度のものなのかもしれない。
 燐はいよいよ自分の神経質さこそばからしくなってきて、無言のまま左手の指先を差し伸べると――狐火を二つ捏ね、からんからんとグラスの中へ一つずつ落とした。
 立方体の、真ん中が凹んだ、透明な物体。形だけならそこそこドリンク用の氷っぽいのではないかと思われるそれを見て、ソウはあからさまに喜んだ。そして、そんな彼の手の中でそれらは温度を持ち、初めて用を成す〝氷〟となった。
 とん、と冷えたグラスをぬるいペットボトルの前へ並べて置くと、次いでソウは流れるように二つのゼリーへ手をかざす。プラスチックカップの表面は、あっという間に薄白く霜を刷いた。
「……余分にやりすぎ」
 燐がもはや心配ではなく呆れの語調に切り替えて詰ると、
「ちょっと凍らした方が美味しいやんか〜!」
 と、ソウは諫言への返答としては多少いただけない弾んだ声音でもって寄越した。
「ほらっ、どーぞ、燐」
「あ……う、うん。ありがとう」
 思わずそう言って受け取ったが、そもそも燐の持ってきたゼリーであり麦茶であり、燐の分火で拵えたグラスにスプーンに更にはテーブルに座布団である。冷やしたのだけがソウであって、燐の制止を振り切って冷やしたのがソウであって、そして、ゼリーも麦茶も冷やさなくても食えはする。
「いただきます‼︎」
 無駄に威勢のよい声にびっくりして、釣られて燐も手を合わせた。
 ぴり、と綺麗に蓋を剥がす指、すっと伸びた背筋、やはり躊躇なくスプーンを迎え入れ、そしてそれがそっと引き抜かれた後の唇。食べるという仕草が傍から見て美しいということが、一体どういう理屈で成立しているものなのか、これだけ見ていても未だに燐にはよく分からなくなる。
「美味しい。冷たくて生き返る……ありがとう、燐」
 涼菓を口にする前からかなり活気の漲った声を張り上げていた気がするが、燐は彼の台詞のどの部分にも突っ込まず、ただおもむろに立ち上がった。
「あぇ……? 燐?」
 手を止めて不安そうに見上げてくるソウを、「お前はそのまま」と短く促す。
 そのままでとは言われても、スプーンとカップを置いたソウの視線はぐるっと自分について来る。燐が対面の位置からテーブルを回り込んで、回り込んで、ついにはソウの真後ろに座したとき、彼は首を回しきれなくなって慌てて身体ごと向き直ろうとしてきた。が、その肩をそっと押して前を向かせる。
「髪結んじゃる。お前は食べよりい」
 もう一つ取り出した分火を青いヘアゴムに化かして、長い襟足に手櫛を入れる。そうすればソウは習い性のようにしゅっと姿勢を正し、心持ち頭を固定したまま再びゼリーカップを持ち上げた……けれど、その後に聞こえてきたのはスプーンがカップを突く音でも喉が食べ物を飲み下す音でもなく、「……ねえ〜、後でええけえ。はよ食べさんよ」という恨めしげな声だった。
「せっかく生き返りよんじゃけえ、もっと効率よう冷やしちゃろうと思って」
「ありがとうねえ〜……けど燐の分が溶ける」
「そしたらまたお前に冷やしてもらうけえ、ええ」
「にゃっ……ええ? さっきまであねえ気ぃ遣うて遠慮してくれよったそにから、ええ……⁉」
 だって大丈夫なんだろ、と軽く言えば、そりゃ大丈夫やけどもさぁ、とちょっと拗ねたような返りがある。ぷりぷりしながらやっと食べるのを再開したソウは、それでも頭は動かさないままいるのだから偉い。
 指がやむなく掠めると、耳が反射のようにぴくりと動く。人の耳のあるべき場所に生えている、獣の特徴を唯一残したそれは、髪とはまた違った黒い短毛に覆われてふこふこしている。何の気なしにそこを掻くと、それまで動かなかった頭が、燐の手に押し付けるようにぐうっと傾いてきた。纏まりかけていた髪が崩れる。
「……毛繕い要る?」
「いや……燐にされるの気持ちええけど……後でええ……」
 そう言いながらも緩慢な頭突きのような甘えは止まらない。
「溶けるんじゃろ、後にしようで」
「……また冷やすけーええもん」
 燐は他意なく窘めたつもりだったのだが、ソウはなんだかむくれたような声で言うとスプーンを置いてしまった。
 燐が呆れた息を吐くより先に、ソウの後ろ頭が倒れ込んでくる。肩口で受け止めたはいいものの、髪を結んでやるのは一旦諦めるほかない。とはいえ、そのままの姿勢では耳の後ろを撫でにくかったのだが、燐がそれを伝えるよりも先に、ソウはもぞもぞと身体の向きを変えて、左耳を燐の右肩にぺったり付ける形で落ち着いた。
 晒された右耳の後ろを左手で掻いてやりながら、それにしても一体この体勢は何なのだろうと思っていると、不意に、ソウの指が燐のポロシャツの胸ボタンを引っ掻いた。
「……火、見して」
 どことなくぼんやりした表情で言った彼は、燐の胸許にじっと視線を遣っている。
 燐はいつものことながら、一瞬、言葉に詰まった。彼の目に触れることに対してはもう何とも思わないけれど、ただ、彼にそう請われるのに足るような、彼の口からその所以として述べられるのに見合うようなものではないという気後れが、常に燐の返答を遅らせるのだった。それにしたって、度々脈絡なくこんな要求をしてくる相手の方こそが先ず何よりも真っ先に相当おかしいのだとは思っているのだけれど。
 それでも、燐は彼のこの常識外れな要求をもう長らく、撥ね付けることこそしていなかった。……好きだな、とぼやけば、好きよ、と飽きもしない返りがある。三つあるボタンの三つ目までを燐が外しきるや否や、待てないと言うように勝手に襟を寛げられた。普段、気遣いしかしない奴が、こんなときに見せる執着めいた行動は本当に相当つくづくおかしい。
「……きれい」
 燐の衣服の下――皮膚を透かして心臓の位置に灯る青い火を見て、ソウはやっぱり今日もそう呟いた。
 燐は、今日もそれに何も答えない。真っ直ぐに肯定なんてできないけれど、かといって、これが燐の〝魂〟そのものである以上、それを全く否定することは自分自身の足許を自分で切り崩すのと同じに感じられて、途方に暮れてしまうのだ。
 ソウは、そんな燐に強いて言葉を求めるでもなく、変わらず静かに火を見つめている。彼に動きがなくなったので、燐も何も言わないまま、再びしなやかな耳に手を伸ばした。長い睫毛が、羽を休めるように柔らかく伏せる。やっぱり人間の身体でするような触れ合い方ではないとも思うのだけれど、生来が獣同士なのだから、まあこんなものか。
 決して好きだとは言えない。燐は、他者に対して好き嫌いの感情を持ったことがない。けれど、彼のことは確実に、嫌ではない。燐がこのような性質であるのを知った上で、これだけの好意をこちらに向けて絶えず表し続ける相手は……そして、そんな相手の存在を自分自身が負担に感じないというのは、いいのか悪いのか、また正しいのか誤りなのか、或いは美しいのか醜いのか燐には判別がつかないけれど、ただ、得難いな、と思う。
 それだけだ。
 体温の籠もる腕の中で、ソウの表情は不思議と安らかに凪いでいる。彼よりはよっぽど涼しい環境にあるだろうに、燐がぼんやりと投げ遣った視線の先、食べかけのゼリーは徐々に水気を増していくし、溶けない氷を抱いたグラスは、机に水溜まりを広げ続けている。

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