「ファウスト先生! ネロ!」
まばらな人の間からこちらの姿を見つけて、ヒースが嬉しそうに駆け寄ってくる。ヒース、シノ、と僕の口からも知らずその愛しい名前が漏れる。僕の隣、頭の少し上の方からも、ふっと笑う気配が零れた。
「……犬か、おまえは」
「だって……嬉しいんだよ……! 嬉しいだろ!?」
遅れてゆったりと歩み寄り、主君の態度をぼそりと茶化したのはシノの方で、美しい青年と呼べる風貌と少しの威厳とを湛えるようになったヒースは、金色の睫毛を既に湿らせて僕のローブに取りついていた。
「あの、……あの……お久し振りです、お元気そうで、二人とも……よかった……あの、あの……」
「あんたらもな。俺も、会えて嬉しいよ」
「……ネロぉおお」
口を開いては閉じて吃っていたヒースが、不意に突き崩されたように呻きながら、僕からぱっと離れてゆく。代わりに縋りついたのは、彼を横から突き崩した張本人であるネロの服の裾だった。
「うん……うん、会いたかった……ほんとに嬉しいよ、ネロ……!」
「あー、はいはい」
ものすごい破壊力の笑顔と凄まじい台詞でもって麗しの貴公子を撃ち抜いた一瞬前の態度とは打って変わって、ネロは粗雑な返事をしながら気怠げにこめかみを掻いている。そのことを不満に思ったわけではないだろうが、過去人見知りだったヒースは顔を上げてネロの瞳をまじまじと見つめると、小首を傾げて、遠慮がちに笑った。
「あ、……ネロも、泣いてる……?」
「……うるせ。……泣いてねえよ」
こめかみを掻いていた左手がすっと移動して目許を擦るので、僕の方から彼の表情は愈々見えなくなった。それでも、ちらと覗く耳が愛くるしいくらいに赤くなっているのははっきりと分かる。
「えへへ……。変な言い方だけど……ちょっと安心した、かも。俺だけ泣いてるなんて、なんか、やっぱりさ」
「俺も泣いとらんて」
ぼそぼそ抗議する往生際の悪いネロの首へ、ヒースは柔らかく両腕を回した。
「ねえ、……ネロも、ぎゅってしてよ」
ヒースは、彼を抱き締めていた。彼にしては本当に珍しい、踏み込んだおねだりをネロにする。このままじゃ、俺が一人ではしゃいでるみたいで恥ずかしいよ、なんて付け足す。その声はどこまでもささやかで優しくて、甘えているのに窺うような気遣わしさを捨てられないヒースのことを、ネロが器用に、彼自身にとって淋しいやり方で、往なせる筈はないだろうと僕は思った。
「………………んー……」
ネロは呻いた。俯いて隠れた喉の奥で、強情そうな臆病そうな声が小さく鳴って、彼を抱き締める子どもの愛をしんしんと待たせている。
やがてネロは、ヒースの背に手を添えた。力が籠もる。不器用な唸り声がくぐもってなおも尾を引く。
きちんと抱き締め合って、二人は静かに、じっと動かなくなった。
――ネロが、ほかの誰かを抱き竦める姿なんて、そういえば僕は見たことがない。ネロが誰かを抱き締めるとき、その誰かはいつも僕自身であったから、ネロがどんなふうに人を抱き締めるのか、こうして外から眺めたことなどなかったのだ。
その手に触れずともありありと分かるような、見るからに優しげな手つきと、切実そうな顔の寄せ方をしている。
彼が人を愛するやり方をしげしげと観察するのは興味深くもあるが、しかしその方法で自分自身も普段愛されているのかもしれないと思うと、なにやら気恥ずかしくもあって、結局僕は早々に目を逸らす。
シノの赤い瞳とかち合った。
「……背が伸びたな」
「ふふん、そうだろう。だいぶあんたの顔が近い。これからもう少し伸びる予定だ」
「そうか……」
僕の気のない返事には頓着せず、彼はちらりと横目で主君の様子を指した。
「二人とも大袈裟だな。ただ暫く会わなかったってだけなのに。ヒースはオレがいないとだめだが、ネロとファウストはこいつがいなくてもそれなりに生きていくだろ」
「……その言葉に僕が頷くと、あんなに喜んでくれるヒースが可哀想じゃないかな」
「なんだ、おまえも泣きたかったのか」
驚いたように目を見張るシノに、僕は辟易した。頭を振る。
「泣くか。……それでも嬉しくはあるよ。シノ、きみに会えたことも、当然」
「ふうん」
目を見つめたけれど、シノの大きなそれは僕の視線を拒むでもなくしかしやや淡々と受け容れて、ゆっくりと咀嚼しているようだった。
「オレも嬉しくなくはない。ただ――おまえたちがオレとヒースのことをいつでも愛してるのは、分かりきってることだから。オレの心の中にも同じように、ファウストとネロの居場所がある。いつも、ああそこにいるなって感じがしてる。偶に話しかけたり。それが双方向の会話になるっていうのは確かに、実際に会ったときにだけ実現することかもしれないから、それは面白いな。だが、普段会わないからといってそれでなにかが足りないと感じることはない。だから、会って特別になにかが満たされることもない。そもそもが満ち足りているんだからな」
シノがそこまで言って、僕からの返りを待つように行儀よく口を噤んでいることに、僕は咄嗟に気が付かなかった。
「……そうか」
「ああ。悪くないと思うか」
内心やっとのことで、再び気のないような言葉を絞り出せば、間髪を入れずに淡々とした質問で打ち返される。
勘弁してくれ、と思った。たぶんこれだけ顔が熱くて、外から見て分からないということはないだろう。照れてる、といつかのように人を茶化してこないのは彼の成長なのだろうか。賢明なことだ。今ここで僕の機嫌を損ねてしまえば、別の世界で抱き合ったまま戻ってこない泣き虫二人を除いた、この場における唯一の話し相手を失うことになるのだから。
ともあれ、自分の言うことがおまえにとって悪いものではないかと、淡々と訊ねたシノの心の、ある種の愚直さには僕も思うところがないではなかった。自分の愛を愛として手渡して、おまえに不都合はないかと。自分の向ける愛の形が、相手に負担や不満を与えはしないかと、淡々と気遣う言葉だった。そんなことに考えを巡らせるようになったのか、と、傍にいなかった時間を刹那、思う。
「……悪くない。きみのそういうところを僕は、そしてきっとネロもヒースも、救いにしているし、心から愛しているよ。――さあ、二人とも、そろそろいいだろ」
なんとか最低限の答えだけを伝えきって、僕はそそくさと依然動かない二人へ向き直った。シノも食い下がらず、ただ、ふう、と一つだけ、二人に対してなのかはたまた僕に対してなのか分からない息を吐いた。
僕一人で、この子の言葉をすべて真正面から受け取り続けるのは難儀なのだ。
「ヒース。ネロ。ほら、今生の別れでもあるまいに。……今日はまだ、長いんだぞ」
そこからは語気を柔らかくして、僕は二人の頭にそれぞれ片手で触れ、髪を撫でた。ネロの少し硬質で滑らかな細波色も、ヒースの柔らかくて繊細な麦穂色も、どちらも今でも、しっくりと僕の指に馴染む。
できるだけそっと。持てる力のかぎり、優しくできるように。
数秒、されるがままになっていた二人は、やがてゆっくりと、薄明の朝露の中で花のつぼみが目を覚ますように、本当にゆっくりと、美しく、かんばせをもたげた。
「――泣いてるヒースはとびきり綺麗だが、笑ったヒースも世界一綺麗だから、どっちでもある今のヒースはオレでも驚くほど綺麗だな。驚いた。綺麗だ」
シノが溜息を吐く。
まだそんなこと言うのか、と泣き疲れた声で言い返すヒースは、そうする前、ネロと目を見交わして、それから髪を撫でる僕の方を見て、微笑んでいた。その表情は確かに、きっとこの世のどんな景色よりも美しかった。
「それに、泣いてるネロも悪くないな。初めて見たけど。おまえも、可愛い」
「っ……人の泣き顔を評価すんな、悪趣味だぞ」
子どもを叱るような、それよりも気の置けない友人を相手に拗ねて見せるような口調で弱々しく吐きつけて、ネロは自分とヒースの顔を、シノのまっすぐな視線から庇うようにぐいっと背けて隠した。
ヒースはネロが自分のことも一緒に庇ってくれたのが嬉しかったのだろうか、大きな優しい手に頭の後ろを支えられたまま、照れたように、それでも恥ずかしがるのとは違う晴れやかな、あどけない声で笑っていた。
* * *
「……ネロ、ネロ。美味そうな果物がいっぱいある」
「おー、ほんとだな。そろそろ季節だからな。なにか買って帰るか」
「ファウスト。前言撤回だ。オレもおまえらに会うのがいい。オレはネロも好きだけど、ネロの作るフルーツケーキも好きなんだ」