「ぷ、は……っ」
ネロのくちびるから逃れてファウストが喘ぐ。喉を震わせるほど、大きく息をする。
それを見ている、ネロのこめかみに、ちりりと熱いものが走る。満たされたくて、くっついていた筈なのに、本当にネロの方は彼と擦り合うことで漸く存在が一個のものとして足場を得た気がしていたのに、今のファウストの姿を見ると、彼の方はどうやらそうじゃないみたいなのだ。
ファウストは、ネロとのキスで全部が満たされることはないんだという。ネロの肩を掴んで剥がして、こんなに大きく空気を吸い込んでいる。ネロはファウストとふたりで息がしたくって、ふたりでならきっと漸く息ができると思って、彼とキスをしたのに、ファウストは、ネロとキスをしたままでは呼吸ができないんだって。
そう声高に訴えるような姿をまざまざと見せられて、ネロは茫然としてしまった。ちりちりと熱が思考を焼き切ってゆくような、怖ろしげな情動を感じながらも、同時にごくシンプルな悲しみだけをめいっぱいに張った盥を、頭上で前触れなく一気にひっくり返されたみたいに、ひどく困惑もしていた。
「ね、ろ……っん、む……!」
名前を呼んでなにかを言いかけたファウストのくちびるを、塞ぐ。もうやめて、もういやだと、彼の口から聞くのが怖かった。
ごとんと、鈍い音の響くのが確かに聞こえたくらい、重たい恋に落ちた。
二人で落ちたから、きっと二人で抱えて行くしかないと思っていたのに、こんな暗い場所に置き去りにされたら、俺はどうしたらいいんだろう。
外の、光は、あんな高い。
明るいところを歩こうなんてとっくに思ってはいなかったけれど、それにしたって、もう途方もなく深いところまで落ちて来てしまったのだ。こんな重たいものを抱えて、一人で、あんたに甘く、ささやかに、笑いかけてももらえない場所なんだとしたら、俺はこんなの、こんなとこで、これから、どうしたら。
「ん、んんう、……うー……!」
薄いくちびるを押し開けて、あたたかい、やわらかい口内に触れて、なんとか情を移してくれないかって願ってみるけど、ファウストの舌はいつまでも逃げようとして、指がずっと背中を無闇に叩いたりシャツをぐしゃぐしゃに引っ張ったりしてくる。好きだよって返してほしいだけの声はくぐもって、だんだんつらそうになっていた。嫌がらせをしたいわけじゃなかった。暴力なんてもってのほかだった。……けど、このまま続けたら、そうなってしま、う。
(すき、なのに、……ファウスト、)
深く思った意識が、不意にざあっと砂の雪崩れるような感覚に霞む。そこで漸く、ネロは自分も酸欠になりかけているということに気が付いた。
急速に血の気が引いていく感覚が眠たい生存本能を叩き起こす。
「ぷは……、っ」
「っは、……はあ……っ」
弾かれたように唇を離す。
息をする。大きく、息、をする。
「……はー……、……はー…………」
びっくりするくらいに熱くなった息を吐き出せば、びっくりするくらい、冷たい空気が喉を濯いで肺の中を掃き清めるように巡る。息が、できる。……死ぬかと思った。死ぬかと思った! 薄暗い夕間暮れの部屋にぱちぱちと小さな星がいくつも瞬くので、その明滅が落ち着くまで、ネロはぎゅっと目を閉じていた。じんじんと痺れた頭の芯も、正常な呼吸に晒されて、やがて、ゆっくりと、冷静を取り戻していった。
「…………はあ……」
「は……、……ネロ」
暫くじっと呼吸をして、いくらか息が落ち着いて、いつの間にかびっしょりとかいていた汗が皮膚の上で冷えはじめたころ、ファウストがネロのなまえを呼んだ。それに咄嗟に答えようとして、ネロは自分の喉がちょっと信じられないくらいぱさついていることに気が付いた。そういえば、俺を呼んだファウストの声も、ベッドの中かってくらい、掠れてた。
瞼を開くと、しぱしぱと星の名残がまだ瞳を刺した。瞬きながら、顔を上げてファウストを見つめる。辺りは薄暗いけれど、ふわっとした前髪がほつれながら額へ張りついているし、汗の匂いと湿った吐息とがほっぺたの輪郭をふんわりさせているので、たぶん今、このひとの顔は真っ赤なんだ。
「……殺す気か……」
「……あ……」
憐れなくらいの掠れた声で詰られて、ネロは、ネロの理性は漸く跳ね起きた。悪い霧がぱっと晴れたかのように、今目の前にいる人の姿が、漸く、よく見えた。嫌われたくないとか、それでもここにいてほしいだとか、そういう雑念が全部嘘みたいにすっ飛んで、ただただ真っ当な罪悪感と真剣な敬愛の念とがネロの口を開かせていた。
「ご、っ……ごめん」
「どういたしまして。落ち着いてくれたならまあ、いい。……さっきのきみは、ちょっと、怖かった」
小さく添えられたその言葉を聞くや、ネロは取り戻したばかりの息をひゅっと呑み込んでしまって固まった。こわ、かった。この人にそんなふうに思わせてしまうなんて、さっきの俺は本当にどれだけどうかしていたのか。
「ごめん。本当に調子に乗ってた、というか、どうかしてた。あんたの嫌がることなんてなによりしたくなかった筈なのに。……ごめん、ほんと、どうかしてるよな。ごめん。好きだと思ってたら、なんか全然、止まらんくなって、……ごめん、ファウスト」
「……変なやつだ」
許すとも許さないとも言わず、ファウストはネロの謝罪をその目をじっと見つめたまま聞き終わると、ぽつんとそれだけ零した。
「本当に悪かった。……大丈夫、か……?」
「死ぬかと思ったけどね」
「そ、れは……ほんとにそう……俺もだよ……」
「はあ。きみにも大概付き合いきれないな」
ネロが寄る辺なさからしどろもどろに返せば、うつくしい恋人はわりと本当に呆れたような息を吐いた。じめっとしているがそこそこ健康そうではある無事な瞳が、一瞬、ぴったりとネロを見つめた。
「……次からはぜひ気を付けてくれ。僕はなにも、きみと一緒に死にたいわけじゃないんだから」
ふわんと匂いが近くなって、出し抜けにファウストが身を凭せかけてきた。それを認識するのに一拍遅れて、ばくんと、なぜかさっきまでとは違うところでネロの心臓は鳴った。
とくんとくんと、重たいものが沈み込んだ腹の底よりも今度はうんと皮膚に近い場所で、くるおしいけれど、酸素も吸えなくなったときよりはよっぽど軽快な音を立てて、鼓動が跳ねている。
ネロがこんなに恋をしているファウストは、抱き締めていると言うにはあまりにもささやかな触れかたで、けれど、寄り添っているというよりはもうほんの少しだけ、ふかい距離で、ネロの腕の中へ身を寄せていた。
「ん、……ん。だな。ごめん」
「……ほんとうに分かっているのかな。僕はきみといると少しだけ楽に息ができるから、だから傍にいてもいいなと思っていたのだけど。……ああでも、ひょっとするとこれは一度も言ったことがないから、きみは知らなかったかもしれないな」
ネロはびっくりして、しすぎて、自分がびっくりしているのだということが一瞬、分からなかった。よく分からないまま、ファウストを見る。彼はネロの肩にことんとこめかみを預けて、首をやや傾げるような上目遣いで、ネロのことを見つめ返していた。
顔が近かった。
「……俺、も……俺もだ。そうなんだ。ファウスト、俺も、あんたといると、息ができて、どんだけ溺れちまいそうな夜でも、あんたがいれば、細々とでも、絶え絶えにでも、ちゃんと息ができたから。だから、生きたかったんだ。生きたいと思った。あんたと。俺もあんたの、息になりたくて、俺、俺さ、ファウスト、あんたと二人で、息がしたかったんだ」
睫毛が綺麗に光っていた。高級なブラシとか丁寧に揃えられた藁束みたいに豊かなそれが、薄闇の中で確かに息づいてひかる。ゆっくりと瞬きする度に、見え隠れしては、その都度ネロの方へと向けられるりんどう色の瞳が、子どもみたいにきれいだった。好きだった。猫の愛情表現みたいに、ゆうるりとした瞬きを、ネロも自然と返す。捲し立てた言葉の勢いが、喉の奥でどくんどくんと温かく燻っている。
「……ふふ」
吐息が、とても擽ったかった。
囁くような笑いを零したファウストが、前髪をくしゃくしゃとネロの肩へ擦りつけながら、剥き出しの指を伸ばす。
躊躇なく受け容れると、ファウストの方もそのままネロの顔へと触れてきた。横髪にそっと指を通して、さらさらと梳き上げる。ネロなんかの髪の毛を触るにしては過剰なほど丁重な手つきは、それ自体が繊細な金細工みたいだった。
ファウストは言った。
「それ、説得力がぜんぜんないな」
それを聞いてネロも笑ってしまった。たしかに。あのままいったら寧ろ心中しかねない勢いだったのだ。生きたいだなんて一体どの口が言うんだろう?
それでも、ネロは生きたい。確かにそっちが本音だった。残りの生をとろとろと消費するやり方ではなくって。ここで出逢ってしまった新しい生き方で、それを、ファウストと一緒に歩いてってみたい。世界は相変わらず怖ろしくて、遠慮がなくて、面倒でのっぴきならんくて煩わしい。けれど、あんたの隣にいて、あんたと会話をして、あんたと食事をして、偶に酒を飲んで、あんたの手を握って、二人でキスをしていたら、不思議と、世界の手触りがほんの少しだけ柔らかくなるから。
浅く軽く、繭を作るみたいに抱き締める。髪を触っていたファウストの手が離れて、両腕でネロの首を搔き抱いた。
鈍い銀色に陰っていた夕日が、雲を払って蜂蜜色の輝きを取り戻していた。まったく、というファウストの口癖が、ほかじゃちょっと聞けないくらいに甘ったるく、また、まるで重大な恋をしているみたいな密やかさでもって、ネロに、ネロの耳だけに、とどく。
それはただのキス
