――もう、猫にやってしまおう。
僕はそう決意した。
遅すぎる決断だった。期待を捨てられなかった。期待を、してしまっていた。
けれどそれも、もう本当の本当に、終わり。
もういい加減に、終わらせるんだ。
悔しかった。
「嫌な天気だ……」
中庭に出た瞬間、思わず独りごちる。太陽が眩しすぎた。針状の日光が、いい加減ささくれ立った気分をとどめのように滅多刺しにする。火にかけられる湯水の中のような最悪な大気を掻き泳いで、僕は天使の姿を探した。
――ネロは、逃げた。
あの日のキス。あの日の愛撫。あの日の笑顔。そして、あの日の言葉。あいつは僕にこれを渡して、それら全部を覚えているように言った。自分が逃げ出さないように、僕の突きつける動かぬ証拠が、自分の逃げ道を塞ぐようにと。
けれど、蓋を開けてみればそんなのは土台無理な話だった。それくらい、考えるまでもなく分かりきったことだった筈なのに、あのときの僕らはやっぱりとんでもなく酔っ払っていた。
正気じゃなかったのだ。
自分が他人から逃げずにいられるだなんて本気で思い込んでいたネロも、彼とこれからはこんなふうに笑い合えるのだと本気で心躍らせていた僕も。
本気だった。僕らは二人とも、確かに本気だったし、それに、本気でいる。
けれど、表し方を誤った。あのとき僕らが分かち合った夢は、現実の日常の中で再現するには適当なものじゃなかった。
身の丈に合わない欲は捨てた筈だ。そんな単純なことを思い出すのに、僕はそこそこな時間をかけてしまった。それもこれも、酔いの残った頭でうっかり魔法をかけてしまったがために、未だに僕の手の中であの日の瑞々しさを保っている、この雑草たちの所為だ。
僕はあれから何度もこの葉っぱを彼に手渡そうとして、彼の怯えきった顔を目にするにつけ、これ以上彼に嫌がられる勇気なんてのも出ずに、なんでもない振りを取り繕ってきた。これ以上はどうにもならない。徒労もいいところだった。
だからもう、天使に食わせて、僕らの前から消してしまおう。
見知った影が視界の端にちらついて、目を上げる。
人を呪うような陽光の許、それでもいつでも愛くるしい風情の天使は、日課のように構いに来た僕を認めて「にゃん」と鳴いた。
「今日も元気そうでよかった」
呟いて、さらさらする背中を撫でる。一緒に日陰へと避難してきて腰を落ち着けても、この子の毛並みはまだぽこぽこする熱を含んでいた。
ここ最近この子たちにやっている、猫用ビスケットをいくつか手のひらに乗せてやる。僕が市場で買ってきたものだ。かりこりと幽かに、可愛い音が立つ。素手にちろちろと濡れた舌、小さな牙が当たって擽ったい。
……いつもの美味しい食事じゃなくて、悪いな。
自然にそう思って、それからそう思ってしまったことに対して溜息を吐く。ここまでがここ数日のルーティンだった。いくら自分勝手の呪い屋とはいえ、あまりにも暇なことだなと、靄のかかったような頭で考える。
ネロが猫のために出す食事――猫にやるつもりなのを隠したままねだりに行く、僕のために出してくれる食事――は、本当に三食の余り物という体で、ネロの手が加えられたいわゆる〝料理〟であることは殆どなかった。けれど、たぶん僕の嘘なんてとっくに読み解いていたネロがくれる〝食事〟から、彼の温かさや優しさといったものは、猫たちにもきっと伝わっていた筈なのだ。
とはいえ、わざわざ猫用に栄養と、食べやすさと諸々とを考えて設計された市販のビスケットに、そういう甘ったるい情が微塵も含まれていないとはそれこそ考えにくい。猫にとっては、魔法使いの料理人であるネロと、たぶん小動物のプロであるビスケット販売者と、一体どっちから貰う愛情が嬉しいのやら、当然だけど僕には知る由もない。ひょっとしたらこの子たちにはそんなものは必要なくて、単純にそうやって自分たちを甘やかす存在を遣いながら、巧みに利を献上させることができればそれでいいのかもしれない。そういうところも堪らなく好きだけれど、なんにせよ、僕は猫たちのためにではなく、やはり僕自身が、ネロに構われなくて淋しいがために、こんな気持ちになるのだろう。そういったことを再認識して、つくづく、本当につくづく、僕は僕が嫌になる。
「……。……あっ!? だめだ! やめて……!」
はっと現実に引き戻された。ものすごい勢いで焦りが湧いて、僕は声を上げながら慌てて腕を引いた。けれど、それがだめだった。僕の右手、ビスケットを乗せていなかった方の手から、細い青銀色のリボンがぱらっとほどけて、地面に落ちた。
すっと腹の底が冷えた。
好奇心旺盛な猫の爪に引っ掛かったリボンは、その実、なんの変哲もない、ただ貰い物の菓子袋にちょんと飾られていただけの物だった。
酔いの残った頭で魔法をかけてから、浮かれるまま部屋にあったそれで瑞々しい葉を束ねた、どうしようもないばかの証だった。
「……、っ……」
いきなり、驚くほど身体が重たくなる。左手の上に気まぐれに取り残されたビスケットの欠片を拭うことも、織り目がほつれて、猫の唾液と土とに塗れていくゴミをゴミとして拾い上げることも、なにもできなかった。
ああ。悲しいのか。そう僕は思った。おかしな感情に戸惑って、動かない身体を持て余して、だからまたしても反応が遅れた。
茫然と落とした目の端で、なにかがぱっかりと開く。
虚ろに視線をずらす。開いていたのは、猫の口だった。同じくらいに大きく開いた瞳が、つやつやと光って、僕の右を見ている。僕の右手の中の、ずっと瑞々しいままの、――
「やめろって言ってるだろ!!」
僕は怒鳴って、猫の鼻っ面を払い退けていた。
同時に引いた右手と弾いた猫の顔との間に、ひら、と一本の草が落ちる。ネロがくれた、花じゃないけどってくれた、ネロの、ネロの、……僕の。
「……っ、ごめん。ごめん、きみ」
僕は残りの草を握り締めて離せないまま、顔を上げた。怖ろしいくらいに声が震えた。僕に暴力を振るわれるなんて思ってもいなかった小さな存在が、零れんばかりに両目を見開いて、それらを嵌め込んだ小さな頭をぐっと低くして身を強張らせている。僕は泣きたくなった、最低なことに。涙が流れるのは久し振りだった。左袖で目を覆う。その動きにびくっと猫の身体が跳ね上がるのが見えて、もう本当に情けなくて僕は今度こそ死んでしまった方がいいと思った。
「ごめん……、猫……」
届かないのは分かっていたし、届けたところで罪が雪がれないのも承知だった。それでも悲しくて不安で、おぼつかないのが自分で怖ろしくてどうしようもなくて、僕は身勝手な謝罪を口先で繰り返した。
日の光もなにもかもを遮った暗い視界の外で、ふと、生ぬるいなにかが右手を擽る。かと思えば、結構強い力で、ぐい、と手の甲を押された。その熱がそっと薄い舌を出して僕の肌を舐め始めるまでもなく、僕にはそれが、僕がいたぶった小さな獣の仕業であることは分かっていた。
……一度こちらを信用しきった猫は、なにをされても離れていかない。それを分かっていたのに、手を上げてしまった自分が、本気で呪わしかった。
「……なんで、そんなに優しいんだよ……、……」
泣くとこんなに喉が引き攣れること、本当に久し振りに僕は思い出す。ブラインドを解いて見下ろせば、僕の握り締めている猫草には目もくれないで、小さな存在が僕の手の甲へ一心に、その透きとおったひげの根許を擦りつけてくれていた。瞬くと一瞬でぼやけてしまったけれど、肌に感じるふすふすした息遣いと、こそばゆい毛の感触は確かに傍に寄り添っている。
強張っていた親指をそっと、開いて差し出すと、猫はそれをふんふんと嗅いでから、何度か舐めてくれた。そしてそれだけだった。じゃれつくのにぴったりな葉っぱが束になって目の前に曝されていても、もう二度と手を出してはこなかった。時折、首をもたげて、僕の顔を大きな瞳でゆっくりと見つめてくれているのに気付く。
なんて聡くて、気遣わしげで、優しい、優しい子なんだろう。今の僕はすっかりこの子に救われてしまって、誠心誠意仲直りをして、これからはきちんとそのやわらかさに報いてあげたいと現金にも思ってしまっていた。
「……きみに本当にあげてしまうつもりで、持ってきたのにな。結局、踏ん切りがついてなかったんだ……。ありがとう、食わないでくれて。それで、殴り飛ばしたりしたのは、本当にすまなかった。許してくれなくていい、僕はきみがここからいなくなってしまうまで、きみの下僕をやるよ」
歪んでつっかえる、びしょ濡れの声で、囁く。猫はものすごく喉を鳴らしていて、その小さな器官にまるで一つの世界が全部収まってしまっているような、雷と風と波の音を猫の意思一つで自在に一緒くたに奏でているような、そんな音で、僕なんかの乱高下する情緒をごろごろと往なしてくれているのだった。
「これ、は……どうしようか。もう、せっかくだし、きみと遊ぶのに使おうかな」
小さく笑いながら、ぐしゃぐしゃになったリボンを漸く抓み上げる。
「このまま結び直したら、僕がこの草ごときみにあげようとしてたこと、あいつにばれちゃうしね」
抓んだリボンをふらふら揺らしたら、賢い天使は首を傾げて、けれども抑えきれない狩猟本能で視線を右に左に、獲物を追って振り始めた。
ぱ、と爪を出して開いた肉球が空を叩く。次は見事、リボンに一撃。
猫の両腕に捕らわれてがじがじと噛み締められる哀れな青銀色を眺めながら、僕は思わず力ない苦笑を漏らしていた。
――きみにこんなふうに噛みつけたらいいのに。
なんとなくネロみたいな色のリボンを引っ張って、天使の牙から取り返す。もう一度それを空中へ掲げ直して、――気付く。
「……ネロ」
天使の向こうにネロがいた。背の高い生垣の隙間から、いつからいたのか、こっちを見ていて、そして今、ばっちり僕と目が合った。
「ネロ……!」
立ち上がって駆け出す。僕がそうするより前に、遠目にも分かるほど顔を蒼褪めさせたネロは背中を向けて逃げ出していた。
ごめん、何度も驚かせて。けれど今は、どうかまた後で! そう言う代わりに、振り返らないまま後ろ手に天使へ手を振る。伝わっていたらいいけれど、怒らせてしまっていたら、次に会うときお詫びをしよう。献上品は、美味しい食事で。そう、僕が一人で買ってくる猫用ビスケットよりもきっともっと、ずっと美味しい、とある人がきみのために――きみを愛する僕のために、手ずから用意してくれる、素敵な食事で!
「逃げるな! ネロ! 言ってくれるんだろう!? それともまた僕から言わなきゃならないのか!?」
もう逃がさない。もう逃げない。待たない。
「きみがこんなひどい男だと思わなかった!」
つんのめりながら追いついた背中に、手を伸ばす。シャツを掴んでぐいっと力任せに引っ張り寄せる。泣きそうな顔をしたネロが振り向いて、僕はその鼻先へ、もういろんな汗でぐしゃぐしゃになった青い雑草の束を必死に突きつけた。
「きみが好きだ」