俺、ヒースクリフ・ブランシェットには、実家の両親のほかにもう一つ家族がある。
今年十七になった俺が、昨年から、ひょんな縁によって身を寄せることとなったラウィーニア家は、元々若い男性の二人暮らしだった。
そのうちの一人、ファウスト先生は、教育機関の職員ではないものの、俺に勉強その他人生に必要な知識を教えてくださる、文字どおりの〝先生〟だ。最初は少し怖い印象を持ってしまったけれど、その実は優しく愛情深い方なのだと知った今、俺はこの人を心の底から敬愛している。
二人暮らしのもう一人、ネロは、ファウスト先生とはまた違った視点から様々なものごとを教えてくれる人だ。そしてこの人の気質は、ある面で俺ととても似通っている。俺たちはどうしようもない気遣い屋なので、お互いを慮りすぎた挙句揃って落ち込んでいるところを、よくファウスト先生や俺の幼馴染に呆れながら助けられている。
ファウスト先生とネロはカップルで――曰く〝今のところは〟――お互いを生涯のパートナーと認め合った関係だ。
俺にはまだそんな相手も、そんな関係を築きたいと願うような相手に出会ったこともないけれど、二人の姿を見ていると、そういった相手と手を取り合って歩いていける人生はきっと本当に素晴らしいものなのだろうと思える。〝今のところは〟なんて口癖のように言っているけれど、いつだって彼らはお互いに敬意を払い合い、時には甘え合い、とても素敵な関係を保っているように見えた。
そんな二人と、俺の幼馴染で同い年の少年シノ、そして俺。この四人が、今のラウィーニア家で生活を共にしている住人たち。
俺のもう一つの、家族だ。
俺は実家の両親から本当に愛情を注いで育ててもらったので、〝家族〟という名前に対して、これは本当に幸運なことなのだけれど、枷のように己と他者とを縛りつけるものだというようなイメージを抱いたことはなかった。俺にとって〝家族〟とは、俺の生まれる前からずっと、疑いなく、優しく愛しい関係を指す言葉だった。
あまりにも疑いなくそう考えていた。かつて孤児だったシノの身の上を聞いたことも幾度となくあったし、勿論、この世のどんな家族もそんなふうに優しい形をしているわけじゃないことくらいは俺だって知っていた。
けれど、それは分かったつもりになっていただけだ。それどころか俺は、俺自身が疑いもなく抱いていた筈の、〝家族〟とは優しく愛しいものだという認識すら、そうと認識していることを自覚していなかった。
そのことに俺が初めて気付いたのは、ほかでもない、このラウィーニア家に来てからのことだった。
ネロがちょっとお茶目なことをすれば、シノが乗っかって、ファウスト先生が叱る。
また、ファウスト先生が褒めてくださって、シノが調子に乗ると、ネロが笑いながらパイを焼いてくれる。
そういう、柔らかい、少しだけ温かい、ゆっくりと湿度を持って流れてゆくような時間を過ごすうち、俺はあるとき、本当にふと思ったのだ。
――これは〝家族〟だ、って。
俺には、実家の両親のほかに、もう一つ〝家族〟ができたんだって。
自分がそう思ったことで、そう思った自分を認識したことで、俺は自分が〝家族〟を〝温かいものを指し示す言葉〟だとずっと疑いもせず信じ込んでいたということを、生まれて初めて気付いたのだ。
先月、俺の誕生日があった。
シノが主催でパーティを開いてくれて、雨季の晴れ間のラウィーニアには、家の主であるファウスト先生とネロに加え、俺の学友クロエと、先生の知人レノックスも集まってくれていた。
クロエは、今の学校での俺のいちばんの仲良しだ。穏やかで優しい気質の持ち主で、気が合ったので入学当初からよく一緒にいた。それでも、根っこの部分では俺よりもずっと、いい意味で楽観的で、彼の決して押しつけがましかったり粗雑だったりはしない軽やかな明るさは、俺の薄暗く曇りがちな胸の内を度々ぱっと照らしてくれるのだ。
俺が彼に救われているほどに、俺が現状で彼になにかを返せているとは思えない。けれど、かつて〝ヒースと意見をぶつけ合う、そのやり方を掴めるくらいにまで、仲良くなってみたい〟と言ってくれたクロエの方へ、俺も、頑張ってもう少し、踏み出してみたい。この日、〝ヒースの誕生日をお祝いできるなんて嬉しいよ〟って言ってくれた、ぱっと花火の開くような笑顔を見て、俺は、漸くそれまでの怖れを振り払えそうな気がした。
一方、レノックスは、普段からこの家にも時々遊びに来てくれる人だ。詳しく聞いたことはないけれど、なんでもファウスト先生の古い知り合いだそうで、どちらかというとかなり気難し屋の先生が、俺の目から見ても相当心を許している相手である。彼もまた優しく穏やかな気質の人で、朴訥としていながら力強く、体力的な意味でも頼り甲斐のある彼に、俺は実はこっそり憧れていたりする。なぜか彼に腕力で張り合っていこうとする、同級生の中でも小柄なシノの相手を真面目にしてくれたり、ネロの料理を、表情の起伏はゆるやかながら毎回丁寧にお礼を言って綺麗に食べ終えてくれたりするので、レノックスは俺たち一家から家族ぐるみで気に入られている感じだ。
そんなクロエと、レノックスまでもが、今、この家にいてくれている。俺の大好きな人たちが、俺の大切で大好きな家族と和やかにいてくれて、俺の大切で大好きな家族が、俺の大好きで大切な人たちのことを好いてくれている。俺はその日、〝今この空間〟が本当に嬉しくって、たぶん、〝幸せの手触り〟というものを、人生で初めてあんなにも鮮やかに感じていた。
――誕生日おめでとう!
みんなが口々に言ってくれ、それからプレゼントまでくれた。シノからの贈り物が昔から変わらずに色とりどりの野花の花束だったことが嬉しかったし、クロエが俺なんかのためにこんなにも精緻な刺繍をしてくれたことが信じられなかったし、レノックスに至っては恩ある人の世話してる子どもだからってこんなに温かいお祝いなんかしてくれるのが申し訳なくって、けれどもやっぱりそのどれもが本当に嬉しかった。ネロのご馳走は天国みたいに優しくて、ファウスト先生がおめでとうと微笑みかけてくれたのなんて、もう、だめで、俺は堪えきれなくて泣いてしまった。
見かねたシノとネロが、俺にキスとハグをしてくれた。クロエやレノックスの前でそんなことをされるのは、正直恥ずかしかったのだけど、涙の止まらない俺がよほど情けない顔をしていたのか、しまいには彼らまで俺に寄り添って、ぎゅっとしてくれた。
嬉しくて人前で泣くなんて、小さい頃にシノと喧嘩の仲直りをしたとき以来で、もう俺の人生にはないものだと思ってた。
気まずそうにしながら、ファウスト先生がそっと頭を撫でてくれた。
とても優しい手のひらだった。
俺は、俺の家族が大好きだ。ブランシェットの実家にいた頃から兄弟のように育ってきたシノは勿論、下を向くしか能のないような俺みたいな子どもに、前向きで丁寧な指導を続けてくださる先生のことも、俺よりもうんと大人だから、俺の不安をいつでも先回りしてふわっと払ってくれる優しい気遣い屋のネロのことも、本当に、大好きだ。
本当に大好きなのだ。
だからこそ、俺には心配と言ったらいいか、罪悪感と言ったらいいか、そういうふうに感じていることが、一つあった。
「――今まではこの家に二人暮らしだったわけでしょう。俺たちが来てから二人は、その、なんていうのか……〝恋人としての時間〟みたいなもの、ちゃんと取れてなかったり、しない?」
去年のある日、俺は思いきって訊いてみた。
ネロはすぐには答えなかった。不安になって、気まずさから逸らしていた視線を彼の顔の方へ戻すと、そこには、俺の予期していたものとは少し違った表情が乗っていた。
「そんなこと考えてくれてたのか」
やっと口を開いたネロは、耳慣れない呪文でも聞いたかのように、きょとんとした顔をしていた。
「ごめんな、気を遣わせちまって。子どもがそんな心配なんか、しなくていいんだよ。俺たちは大丈夫だ」
果てはいつもと同じように、謝罪までしながら気遣いを返してくれて、いつもと同じようにからっと笑ってくれる。俺は少し焦りを感じて、そうじゃないんだとしどろもどろに食い下がった。
俺は、自分の両親も恋愛結婚だけれど、そんな彼らを見ていても不思議とここまでこんな心配をしたことはなかったなと気付いていた。たぶんそれは、俺が生まれたときから既に、俺の目には彼らが自分の〝両親〟として映っていたからだ。その認識自体に反省の余地はあるけれど、目下優先して考えたいのはラウィーニアでの俺の保護者たちのことである。
彼らは俺とは、ここ数ヶ月でやっと知り合っただけの関係だ。今の俺はこの家に、彼らの住まいに、間借りをしている身分に過ぎない。この質問をしたとき、既に俺は二人のことが大好きで、シノと合わせて四人で一つの家族みたいだと思っていたけれど、血縁の話とかではなく、俺たちはやっぱりどこまでも〝他人〟なんだということも、俺は常に同時にひしひしと感じていた。自分自身が、ネロとファウスト先生の邪魔になっているのではないかという不安は、不器用そうな恋人たちを気遣ってのものなのか、あるいは俺自身がこの場所から拒絶されてしまうという想像に怯えてのものなのか、自分の中ではっきりさせることはできないまま、拭いようもなくただ確実に心の一隅にあり続けていた。
――そんなふうなことを、俺はつっかえつっかえに口にした。思考のうち、特に情けない部分や恥ずかしい部分は隠してしまいたかったけれど、ネロにそんなことをしてもたぶん、ばれてしまうし、なによりそんな中途半端なやり方で突っ込みたい問題なのではなかった。俺にとって、とても大切な問題だった。それは、俺にとってとても大切な〝家族〟の、そのあり方についての問題だったから。
結局恥ずかしい部分も全部曝け出した、俺の拙い話を静かに聞き終えて、ネロは一言、言った。
「あんたたちと一緒に暮らそうって決めたのは、俺とファウストなんだぞ」
ネロにしては珍しい言い方だった。我慢ができなかったみたいに、先ず一言、端的な言葉をやや強い語調で返してきた。それからやっと「うーん……」と、いつもの優しさゆえに曖昧さを纏った声を、空気でさらにふやかすように漏らしながら、考えてくれている間があった。
「……それに、俺らは恋人っつーか……そんなふうにいちゃついて喜ぶような間柄じゃねえしな。あいつと俺が一緒にいんのは、ただ、傍にいてもほかのやつといるよりはお互い遥かに楽だからって、それだけの理由だよ。恋だなんだってのとはかけ離れた、ごく陰気で、消極的な」
それは、嘘だ。俺は思った。
俺は一度、偶然見かけてしまったことがある。とある昼下がり、ソファで寄り添い合う二人は、俺やシノのいる前では絶対に見せないくらい、うんと近い距離で見つめ合っていた。そのときの仕草にしたって、表情にしたって、あんなのは絶対に、〝ただ楽だから〟と傍にいる者どうしが、向け合えるようなものじゃないだろう。
それに、人といるのが負担だと言うのなら、そもそも無理をしてまで誰かと暮らす必要はないのだ。誰とも一緒に暮らさないという選択もできる中で、敢えてお互いを選んで傍にいるということの意味は、ネロが気怠そうに言う以上に、きっと重たくて慎重で、大切で重要なものの筈だった。
俺がそういうことを、さらに食い下がって言おうとしたとき、不意にネロが「ああ」と、少し大きな声を出した。それは、たった今なにかに気付いたという感じの、やってしまったと軽く臍を噛むような仕草だった。
何事かと驚いて口を噤んでしまった俺の前で、ネロは、なにやら気まずげに視線を揺らしている。同じように語気も揺らしながら、呟くように、俺の顔を窺い見た。
「それとも、そういうことじゃなくって……ひょっとして、夜の音がうるさいとか、そういう話だったか……?」
「……え……? 夜……?」
「……いやすまん。なんでもないよ」
予想外の言葉に思わず首を傾げると、ネロはさらりと、忘れてくれと言って笑った。なにかを誤魔化したときの笑顔だと思うけれど、この場合は深く突っ込まない方がいい気がする。……俺だって別に、そういうのを知識として持ってないわけじゃない。二人が恋人としての時間を、本人たちの満足のいく形できちんと過ごせているのなら、俺の心配が杞憂だったと言うのなら、それでいいんだ。
俺が胸を撫で下ろしたのを見て、ネロは却って気恥ずかしかったのか、見る間に真っ赤になった顔を片手で隠してしまった。
その仕草が思いのほか、子どもっぽくて、俺は俄かに安心したのも手伝って込み上げてくる笑いを抑えられなかった。
ネロが参ったように、顔を隠すのとは逆の手をひらひら、ふらふらと振りながら、苦しそうな声で言い訳みたいなものをもごもご呟く。たぶん、そのときの彼には、その場の気恥ずかしさを紛らすための誤魔化しのつもりだったのだけど、その実その言葉たちは、随分と柔らかくて、誠実な言葉選びがなされていて、俺にとって本当に嬉しい想いを伝えてくれるものだったから、俺は笑みが一向に引かない顔のまま、真剣に、その一言一句に聞き入っていたんだ。
俺の大切な家族。俺もみんなのことを愛してます。
心から、出会えて、一緒にいられることを嬉しく思う。俺を幸せにしてくれてありがとう。俺も、――みんなに少しでもこの幸せを返していけるようにもっと頑張るね。先日の誕生日会を終えて、どうにもそんな想いで胸がいっぱいになってしまったので、こんなふうに長々と手記を綴ってしまった。いきなり手紙を書こうとしたら、全然内容が纏まらなくて、便箋を何枚もゴミ箱に食べさせる羽目になってしまったので。
だからこれを書き終えてから、きちんと、手紙を書きます。別れの日でも、記念日でも、なんでもない日に贈る手紙。それは、誕生日でも、そうじゃなくても、なんでもない毎分毎秒に、ネロが、シノが、ファウスト先生が、またクロエが、レノックスが、数えきれないほど俺に与えてくれる言葉や経験の、きらきらした宝石みたいな一粒一粒に宛てた、今の俺にできるほんのささやかな、けれど心からのお礼のつもりです。
今の俺は。あなたたちがこんなにも根気強く愛してくれるおかげで、あなたたちからの愛をいくらか素直に受け取ることのできるようになった今の俺は。みんなが、俺の渡そうとするささやかすぎるお礼の言葉を、それでも、すごく丁寧な手つきで、すごく真剣なまなざしをして、受け取ってくれるに違いないのだと、前みたいには怖がらずに信じることができます。