「――おや」
気配が変わった。読みかけの本を閉じて顔を上げた。
長いこと重たく閉ざされていた睫毛の束が、確かに、しっとりと開いている。
魔法で本を片しながら、ベッドの傍へ歩み寄る。軽く顔を覗き込むように、静かにしゃがみ込んだ。
「目が覚めたかい、ファウスト」
「……フィガロ様」
掠れた声がそう呼ぶのに、驚いた。
ぼんやりとした視線を漂わせているファウストは、気付く様子もない。フィガロは、彼の見ている景色を否定しないことにする。軽く曲げた人差し指の背で、そっと、赤い頬に触れる。彼をここへ寝かせたときと殆ど変わらない顔色から分かるとおり、熱は下がっていないようだった。
霧の中を揺蕩う神妙な鬼火のように、紫色の瞳が揺れている。なにかを探すような動きだと、思った。脳裏にもう一人の南の、元中央の、彼の顔が過る。
「……ネロは……?」
しかし、ファウストの口から零れ出たのは、フィガロの予想を飛び超えた名前だった。いや確かに、体調を崩したファウストを引っ張って、フィガロに診せに来たのは、ネロなのだ。
すぐに心得て、微笑みを作る。海松色の髪を、安心させるように梳き撫でる。
「きみの恋人は、きみのために食事を持ってきてくれるって」
〝信頼するフィガロ様〟の目を、じっと見返しながら、ファウストはその言葉を聞いていた。それから、ぐらつく頭を横へ傾けるようにして、不器用に頷く。そうやって合点がいったのだと示しながら、けれども未だなにかが割りきれてはいないかのように、熱い息を吐く口許を幽かに、布団の下へと隠す。
それを見るフィガロの中に、なにか気紛れな感覚が湧き上がった。淋しさを噛み殺しきれない子供の姿が、可愛いような、可哀想なような、そんな気が、ふとした。
だから、自然に言葉を重ねていた。
「ネロは、本当にきみを愛しているんだね、ファウスト」
「……はい」
淋しそうだった子供は、それでも、ほっと嬉しそうに顔を綻ばせた。
湧き上がったなにかが、その笑顔一つで、宥めすかされたような心地になる。凪いだような、満ちたような、そんな気分になる。フィガロは、自分の方はもう、そのように満足してしまったので、後はただ、病人に然るべき処置を施すことにした。
「――さ、もう少し眠りなさい」
「……でも……」
ファウストは、湿った目を重たげに瞬いて、もう一度うろうろと、部屋の中を探った。その視線が部屋のドア辺りを気にしていることに気付いて、宥めすかされた筈の気持ちが、また少し、疼くような、変な感じを訴える。その感覚に胸中で首を傾げながらも、顔では変わらない微笑を繕って、フィガロは、可哀想な子供へ優しく嘯いた。
「大丈夫。きみの恋人が戻ってくるまでの間だよ。きみのための食事なんだから、出来上がったらすぐに、キスでもして起こしてくれるさ。
それに、きみがちゃんと眠っててくれた方が、彼も安心するんじゃないかな。なにせ、きみのことをとっても大切に思ってるんだから。違う?」
もしも〝今の〟彼に向けたならば、睨みつけて呪詛の三つ四つ吐かれそうな、そんな言葉を並べ立てている。けれども、〝今〟とは微妙に違うどこかで意識を漂わせるファウストは、フィガロの目を柔らかく見つめて、まっすぐに、その言葉を授受するのだ。
「……はい……。ネロは、本当に僕を、愛してくれるから……。わかりました」
「うん。いい子だね。おやすみ、ファウスト」
――おやすみなさい、フィガロ様。きっとそう言ってくれたのだと思う。かわいそうな愛弟子の声は、薄白い瞼に翳したフィガロの手の下で、音を得ることなく、溶けて消えていった。
小鍋を抱えて戻ってくると、部屋の暗さに一瞬、目が眩んだ。
瞬きをして、すぐに視界が慣れる。窓辺に揺れるキャンドルと、卓上のランプ。フィガロはベッドの頭の方に、椅子を置いて座っていた。
「やあ、おかえり。いい匂いだね」
「どうも……調子は?」
机の上に鍋敷を置きながら、ちらちらと窺うと、フィガロは事もなげにひょいっと肩を竦めて見せた。
「一度目が覚めたんだけどね。今はまた眠らせてる。なかなかしんどそうだったからさ」
「……そうか……」
小皿とスプーンまでをセットしてしまって、さて、ネロは途方に暮れた。
薄情なことだけれど、ファウストが眠ってしまっているこの場で、フィガロと二人っきりというのは、正直居心地が悪かった。すぐには食べられないようだし、自分は退室した方がいいだろうか。ファウストのために作ってきたおじやは、このまま部屋に置いていっても、まさかフィガロがブラッドのように抓み食いはしやしないだろう。分からんけど。
……温め直すだけなら、魔法で誰にでも、いくらでもできる。ネロとしては、本当は、そこにも手作業で拘りたいし、もっと言えば、今、すぐに食べてもらいたいのだけれど。こればっかりはしょうがない。病人にこちらの都合を押しつけても益体ない。
所在なく佇むネロとは対照的に、フィガロは、この部屋でファウストにいちばん近い場所に悠々と陣取ったまま、言葉を続けた。
「熱はまだこれから上がるかもしれないな。シンプルな風邪だろうから、一度上げきってしまってから、自然に下がるのを待つのがいちばんいい。いい機会だし、ゆっくり休ませてあげよう」
「……っすね」
「やだなあ、畏まらないでよ。確かに、俺は腕利きのお医者さまだけれど、ここではそういうのはなしさ。もっとフランクに絡んでくれていいよ?」
そういうことではなさすぎるのだが、しかし冗談にしか聞こえないその口調は、その実、一体どこまでが冗談のつもりなのやら知れない。
面倒が愈々極まってきて、ネロはこの際、衝動に身を任せて踵を返した。じゃ、俺は夕飯の買い出しがあるんで。そういった言い訳を適当に吐いて、後はよろしくとその場を去るつもりだった。
完全にそのつもりだったのに、なぜか、フィガロの言葉がネロの背を引き留めていた。
「ファウスト、一度目を覚ましたって言ったでしょう。熱に浮かされて、かなり意識が朦朧としていたんだけれどね」
それは、かわいそうに。ネロは心から思った。部屋に戻ってきてからは一度も、ファウストの顔をきちんと見ることができていなかったけれど、まだ、あの赤くなったままの顔で、苦しい呼吸を続けているのだろうか。そう憂いた自分の表情が素直に曇ったのを、指摘する者がないので、ネロは自分で気付くことはなかった。
「夢現、っていうのかな。記憶が混濁していたみたいで、俺の顔を見るなり〝フィガロ様〟って。そう呼ぶんだよ」
「……」
やめてくれ。ネロは思った。なんの話だ。なんの話をしてくるんだ。俺に、あろうことか俺に向かって。
ネロは、ファウストとフィガロの関係を知らない。ファウストの口から聞いたことがないから、知らない。ネロが知っているのは、フランクに構いたがるフィガロのことを、さも疎ましそうに呼び捨てにして睨めつけるファウストの姿だけだ。単純に疎んでいるだけではないことは、分かる。それは、今の彼を見ていて、彼の話を聞いていれば、なんとなく分かる。けれど、それ以上は知らない。ファウストが話さないから。
それなのに今、ファウストの話さないことが、ファウスト以外の口から知らされようとしている。そのことにネロは激しい焦燥を覚えた。それは間もなくして、苛立ちに変わった。ファウストに対してネロが大事にしていることを、無邪気に、あるいは悪意をもって、第三者が知らん顔で踏みつけようとする。その痛切な予感に、ネロは間違いなく憤っていた。
「可愛いよね」
知らない。
「可愛いといえば、そうだ」
一人頷くフィガロは、なにがそこまで楽しいのか、こちらの気分が悪くなるほどの軽やかな口調でまだなにか言おうとする。もうたくさんだ。ネロは、フィガロの頭上でおじやをひっくり返してしまう前に今度こそドアノブに手を掛けて、
「この子、眠るまでずっと、恋人の名前を呼んでいたんだよ」
「……は?」
なんで、リアクションを返そうとしてしまったんだろう。おかげで自分の口からは、完全にコントロールを失った、地を這うように低い声が出た。
情けなくて、辟易して、口を噤む。噤んだ筈の唇が、ややもせぬうちにまた開いて、知らぬ間に重苦しい溜息を吐き出す。目敏く聞き拾ったのか、フィガロがおかしそうに声を潜めて笑う。地獄のような部屋に、ふと、小さな火の粉が舞う。ああ、幻影だ。ファウストの、〝過去〟の夢。
「きみは本当に愛されているねって囁いたら、幸せそうに笑ってた」
愛おしげにファウストの寝顔を撫でる視線を見て、ネロはぞっとした。寝台を中心に、ゆるやかな炎が上がる。
ネロは場違いだった。
触れられない炎は、ファウストの心の中。ファウストの記憶。過去には敵わない。そんなことは分かってる、知りすぎなくらい知っている。誰の中にだって、ネロ自身の中にだって、そういう領域がある。
でも、だから、なに。今を生きているってことが、今の俺にとってのすべてで、それは誰だって、ファウストだって同じ筈だったんだ。俺は、今、絶対に、ぜったいに、ファウストと生きたいのに、生きているのに、一体どういう料簡でこの男はこんなことを聞かせるのだろう。
部屋に留まってしまったことを、ネロは峡谷よりも深く後悔していた。ファウストの呪いを受けたことはないけれど、彼と浅からぬ縁のあるらしフィガロの言葉は、なるほどよく効く呪詛のようだ。蛇のように冷たく絡みついてきて、ネロの心臓をじわじわと、蝕む。暑くも寒くもない部屋で、じっとりと汗を滲ませた肌に、少しの熱さもない火の粉が幽かに飛んできて、触れる。――刹那、空中に花が咲いた。
「……え」
ネロは思わず、困惑して声を上げた。
小さな蛍のように部屋を舞っていた、幻影の火の粉。その一つが、ネロの頬に触れた瞬間、青紫色の透きとおるような花びらに姿を変えたのだ。それは舌に乗せた砂糖菓子のように一瞬でほどけて、なんの花なのかは分からない。けれどネロが放心している間にも、火の粉はぽつりぽつりと、部屋のそこここでひとひらの花びらになっては溶けてゆく。
ぽつり、ぽつりと。
ネロははっとして顔を上げた。
少しの冷たさもない雫が、頬を打つ。
――雨が降っていた。
ファウストの眠るベッドを包む炎が、蒼く揺らいでひずんでゆく。やがて、落とした絵の具がバケツの水に溶け出すように、ゆうるりと部屋の底を巡った青色は、ふわりと、そこかしこで花を開いた。
あじさい畑だった。淡くけぶる深い青色は、ネロにとって見覚えのある景色だった。今や白い糸のように降りしきる天泣は、実体のないものの筈なのに、どこからか滴り落ちた水が、一筋、ネロの頬を本当に濡らしていた。
「……眠りが浅くなってきたし、そろそろじゃないかな」
雨の中に、フィガロの静かな声が浮き上がる。
「……な、に」
「食事を持ってきてくれたじゃない。この子を起こして、食べさせてあげて」
きみの恋人がキスで起こしてくれるまで、って言って、漸く、ぐずるのを寝かしつけたんだから。歌うようにそう言って、フィガロは軽やかな身振りで立ち上がる。
ネロは、その言葉にも、部屋に溢れる夢の意味にもまったく理解が追いつかず、脇を擦り抜けて去っていこうとする背に慌てて声を上げた。
「……けど、……恋人が、って……」
「恋人さ。ファウストがずっと呼んでいたのは、きみの名前だよ? ネロ」
「………………はあ?」
たっぷりの思考停止の後、思わず声がひっくり返った。変な声を他人に聞かせてしまった恥ずかしさもあるけれど、それより、なにより、……え?
「こ、っ……、……え? 俺?」
「きみなんだねえ」
「……こっ、……い、……って、な、なに、なんなんだ、それ」
「それはこっちの台詞だよ」
フィガロは、この部屋に来てから初めて、困ったような形に眉を曲げて見せた。
「ファウストが最近、俺も見たことのない表情をよくするようになってたからね。なんなんだろうと思っていたけれど、さっき、ふと鎌をかけてみたら引っ掛かったんだ。なるほど、きみとそういう仲だったわけか……結構、当てずっぽうだったんだけどなあ」
にこ、と参ったような素振りで笑う顔を前に、ネロは開いた口が塞がらない。
「……え……じゃ、なに、さっきの……八つ当たり……?」
「なんの話? 結婚式に恩師として招待してもらえれば、俺はなんの不満もないよ」
いかにも白々しい口振りだけれど、やっぱり、そのどこまでが冗談なのかを窺い知ることはできない。
力が、どっと抜ける。ネロは一気に疲れて、殆ど乾ききってしまった右頬を今更、誤魔化すように拭いながら、明後日の方向へ顔を背けた。
「こいつが、なに言わされたのか知らねえけどさ……病人に鎌かけてんじゃねえよ、あんた」
「病人だから? それとも、きみが熱烈に愛してる大切な恋人だから、特別に心配?」
「……最悪……」
北の双子顔負けの調子でぐいぐい茶化してくる男に辟易して、もういいから後は任せろとその背を追い立てる。彼が椅子で陣取っていたベッド脇のポジションに、ネロが自分の身体を滑り込ませると、フィガロは露骨な含み笑いをしながらも、あっさりと部屋を出て行った。
「――キスでね」
ウィンクとともにそう言い残して。
「……誰がするかっての……」
茫然と椅子にへたり込んで、ネロは力なく呟いた。それを最後に人の声が消えると、部屋には、しとしととした雨音が満ちる。
水に抱かれて眠る、その人の顔を、漸く覗き込んだ。
浅い呼吸が、やはり苦しそうだった。表情は思ったよりも穏やかだけれど、前髪はしっとりと濡れている。これは、幻影の雨の所為ではなくて、汗をかいているのだ。枕の横にふわふわしたタオルが置かれている。フィガロが時々、拭ってやっていてくれたのかもしれない。
「……ファウスト」
そっと、声をかける。疲れきった所為で掠れている声が、妙に甘ったるい響きを含んでいるようで、耳が熱くなる。居た堪れなさを振りきるようにじっと見つめてみたけれど、夢に沈んでいる穏やかな顔は、まだ、目を覚まさない。
「ファウスト?」
布団の上に屈み込んで、ほんの少しだけ、顔を寄せる。そうっと肩に手を置いて、できるだけ、できるだけ優しく揺さぶった。
「ファウスト……起きて。ご飯、できたよ」
ふうっと、青色が揺らいだ。
部屋を包んでいた景色が、古びた日記のページみたいに、ぱらぱらとほどけてゆく。空間から剥がれた欠片の一つ一つは、青紫色の大きなうつくしい花びらになって、透きとおるように部屋の空気に溶けていった。
白銀の雨もまた、消えゆく青色の中に吸い込まれるようにして、止んでゆく。
唯一鼓膜に残った雨音に、やがてじわりと、染み入るような声が混じった。
「……ね、ろ……?」
潤んだりんどう色の視線と、柔らかい糸を絡め合うようにして、見つめ合う。
「……ファウスト」
一度ゆっくりと目を閉じて、それからまた、そっと開く。現の手触りを確かめるような仕草の後、ファウストはもう一度、ネロの名前を呼んだ。
「……ねろ」
「おはよ、ファウスト」
湿った髪に指を差し入れて、ぽかぽかに火照ってしまっている頭を撫でる。ファウストが本当に、安心しきったように頬をゆるめてくれるのが、嬉しくて嬉しくて、ネロはなんだか、彼に覆い被さってぎゅーっとしたくなってしまった。しないけど。すごくしたいけど、ファウストが抵抗できないこんな状況では絶対にしてなるものかと。
「……ネロ、……あ、……」
ネロが素知らぬ顔で葛藤している間、ファウストはなにやらごにょごにょと呟いて、ぼんやりしたままの視線を、うろうろ彷徨わせ始めた。
その様がなにかを探しているように見えて、ああ、とネロは合点する。さっきまでの名残で少しだけ、ちくっと、心臓が痛む。誤魔化しがてらというわけではないけれど、ファウストの身体をゆっくりと抱き起こしながら、彼の気にしているであろうところについて答えてやった。
「あー……フィガロ? ついさっきまで、ずっとあんたについててくれてたよ。誰かに呼ばれたみたいで、しょうがなく、俺と入れ替わりに行っちまったけど」
ネロは、少し躊躇ってから、淋しいかと訊いてみた。
ファウストは驚いたように目を見開いて、暫く黙りこくっていたが、やがて、じわりと笑んだ。ネロの二の腕に縋って身体を支えながら、ゆるく首を振る。
「いや……。……たぶん、気を利かせてくれたんじゃ、ないのかな」
そんなふうに苦笑する顔が、繕ったほどにも険の見えないものだったから、ネロは、彼の意識はまだ覚醒しきってはいないのだろうなと推測した。あるいは、ひょっとすると、いつもは鋼のような意地だかなんだかで抑え込んでいるものを、今はちょっとだけ、我慢しなくなっているだけなのかも。
もしもそうならば、ちょっと嬉しい。かもしれない。ネロの心臓は、その所為でちくちく痛みはするけれど。それでも、ファウスト自身にとっては、きっとこれが少しは優しい時間なのだと思えるから。それなら、それでいい。その方がいい。
ネロは、机に置きっぱなしになっていた水差しを魔法で取り寄せながら、ぼんやり考えた。
「……気い遣うって言っても、」
今更なあ、と呟いてから、その続きは躊躇って呑み込んだ。今更、だってあんたもう、だいぶあの人に甘えていたんじゃないの。気を利かすって言っても、今のあんたは寧ろ、あの人がいた方が調子はよかったんじゃないの。などなど、等々。
焼き餅でも焼いてんのだろうか、自分は。さっきはあの食えない医者に嵌められた所為で、存在したのかすら怪しい〝過去の恋人〟に。今はたぶん、その食えない医者自身に。もやもやする自分の心境こそが面倒くさすぎて、ネロは、敢えて眠たげな態度を取り繕った。
透きとおったガラスの水差しを手に取る。取り敢えず飲ませなくちゃと顔を向けると、ファウストがなにか言いたげにしていた。
ネロは、ちょっとびくついてしまった。もしも、今、面倒なことを言われたら、面倒なことを返してしまう気しかしなかったので。杞憂だと分かってる。しかも病人相手に、ほとほと情けないことでもある。自分を落ち着かせる意味でも、意識して数回、ぱちぱちと瞬いた。
ネロの瞬きを、発言を促すサインだと捉えて、ファウストが口を開く。「――そうじゃなくて」と。やにわに否定の言葉を突きつけられて、ネロは愈々当惑した。水差しを持った手を、おろおろと下げながら、思わず訊き返していた。
「な、なにが、どうじゃなくて……?」
「……あ……」
ファウストが、はっとしたように俯いてしまう。
ネロの腕に引っ掛かったままだった指が、そのうちもぞもぞと動いて、袖を小さく抓んだり、肘の内側を引っ掻いたりしてきた。……たぶん、無意識の仕草なんだろう。もしも本人が気付いてしまえば、手のつけられないほど照れてしまいそうな気がしたから、気付くな、そのままでいいから、と、ネロは必死の思いでそちらから目を逸らしながら念じた。
指先を遊ばせながら言い淀んでいたファウストは、ついに、再び顔を上げて、ネロの瞳を捉えた。――その、小首を傾げた不安げな角度と、甘えを隠さない上目遣い! ネロの胸はもうどうしようもなくぎゅっとなってしまって、愛しい、愛しいファウストを今度こそ本当に抱き締めて、抱き締めすぎて押し倒して、それでも足りなくてずっとずっと抱き締めていたくなった。
しないけど。
いや絶対にしないけど。
……でも。
「僕が、訊きたかったのは」
「……うん」
「……あの人は、……ネロが、キスをして起こしてくれるって、……そう、言ってくれたのだけれど」
ひゅ、とネロの息が止まる。まさか。本当にそんなことを吹き込まれてたのか。ファウストはまたうろうろと視線を落としている。その表情を見て、ネロは、ああああと呻きながら頭を抱えて転げ回りたくなってしまった。
そうか。ファウストが起き抜けにフィガロの姿を探したのは。自分が目覚めるのはネロのキスを受けたときだと信じ込んでたから。ファウストはフィガロの在室ではなくて、不在をこそ確かめて、それで、だから、〝気を利かせて〟なんて――。
なんてことだ、なんて男だ! やつは、本当に、ひどい〝呪い屋〟じゃないか!
「……してないよ。そんな、寝込みを襲うような真似、できるわけねえだろ」
ネロは咳払いをした後、真面目に首を振った。こればっかりは、嘘だと思われては困るから、ちゃんとまっすぐにファウストの目を見つめた。
すると、ファウストはちょっと意外なものに出くわしたみたいに、目を丸くする。……心外だった。ネロはどのみち、肩を落とす羽目になった。
こっちはあんたを所有なんかしたいわけじゃないし、身体を好き勝手したいわけでもない。その、なんていうか。そう……ちゃんと、というか、ただ、単に、あんたを好きでいるだけなんだけれど。
まるで風邪の熱がいくらか移ってしまったみたいに、ネロがごにょごにょととりとめのないことを呟くと、――ファウストは、くは、と、小さいけれどひどく素直な笑いを零した。どきんと、ネロの心臓が高鳴る。かわいい。かわいい笑顔だった。ああ。
好きだ。
「やっぱり、僕は……本当に、きみに、愛されてるんだな」
とくとくとくと、脈が逸る。風邪らしく掠れていて、かわいそうなくらい腫れぼったい声だから、早く水を飲ませてあげなくちゃ、ならないのに。ネロが、震える手で水差しを持ち上げようとすると、まって、とファウストがねだるような小声で押し留める。
なんだろうか。お喋りなら、きちんと水を飲んだ後でいくらでも付き合ってあげるのに。いやでも、身体はそんなにしんどそうなのだからやっぱり寝ていてほしいけど、いやその前に飯……そうだ、飯、それを運んできたんだった。今の俺はただの食事係なんだよ、先生。
ねえ、そうでしょ……。
「……ネロ」
ファウストが、呼ぶ。また、肘の内側を抓んだり、引っ掻いたりし始める。けれども今度は、もう一方の手が、そろっと上に持ち上がって、ネロの胸に縋りついてきたから、ネロは本当にその手に、心臓を直に掴まれたと錯覚した。
いや、錯覚じゃない。掴まれたのだ。
掴まれてる。もうずっと。
「……僕はもう、目が覚めたから。だから……その、……おはようのキスくらいは、してくれても、大丈夫なんだけれど?」
――青いあじさい畑。それは〝過去〟の夢。ファウストと、ネロの、二人の記憶だ。
なんということはない。ただ、あじさいの咲く中にいた。魔法舎に来た依頼を片付けて、ゆっくりと帰路に就いていて、ふと、行きがかって、足を止めて。
そして、ファウストと二人で、あじさいを見ていた。
ただそうして、そこにいた。雨は、降っていなかったと思う。けれどネロは、雨が降ればもっといいのになと、そのとき、確かに願った。ファウストも、そうだったのだろうか。
白く柔らかな雨足は、打たれる者になにも求めない。濡れる者に、なにも強いることはない。
ただ、静かに世界を包み込んで、それがそこにあることを、ただ、許容してくれる。
だから、それはまるでファウストと過ごす時間そのものみたいだと、ネロは、ずっと、思っていたのだ。
唇が離れる。吐息が触れる。
「……おはよう、ファウスト」
「おはよう……ネロ」
柔らかな声が、雨音みたいに、ネロの世界に、染み込む。
ファウストにとっても、どうかほんの少しでも、ネロの声が、そういうふうにあれたのなら。