ネロファウ

子どもらも無事に手を離れたな

「子どもらも無事に手を離れたな」
 うん。

 本当に僕もそう思っていたところだった。いや、自分の中に湧き上がった無形の感慨が、ネロの言葉を受けて漸く形を得た、と言ったがいいかもしれない。
 二人で面倒を見ていた子どもらに対して、なんとなく似通った情を抱いては、隣にいる僕にもしっくりと馴染む言葉でそれを表現してくれるところ、やはりネロだなと思って僕は二つの感慨にこっくり頷いた。
 いつだか賢者には言ったことがある。有能な貴公子であるヒースが、呪い屋なんかの僕のことを慕いすぎるのは問題だ、そろそろ線引きしておかなくちゃなと。
 あのときは〝そのうち〟なんて嘯いたけれど、こうして、今がそのときだと言えるような日が来てから振り返ってみれば、なんとあっという間だったと思わずにはおれない。本当にいろいろなことを共に経験して、その中には当然、うんと長い夜も永遠に続くかのような瞬間も数えきれぬほどあったのだけれど。
 過ぎてしまえば本当に。〝過去〟の一言で、済ませようとすれば済ませてしまえるひとかたまりの存在になってしまうものだ。
 ゆっくりと一度、瞬くその間に思いを巡らせる。そこで僕は、はたと気が付いた。
 ネロとは一体どうなってしまうのだろう。と。
 繰り返しになるが、僕とネロとは、ヒースとシノという子どもらの指導に共に当たっていたというだけの関係に過ぎない。勿論、これからも同じ東の魔法使いであることに変わりはないし、賢者の魔法使いどうしであるということも、僕の目が黒いうちはというか、まあなんでもいいけれどとにかく、それについても変えさせるつもりはない。
 けれども、ヒースもシノも魔法使いとして成熟して、今日のように殆ど彼らだけの力で相応の任務を果たせるまでになった、つまりは子どもらが立派に一人立ちしたと言える今となっては。
 今後、僕とネロとの関係は、一体どうなってしまうのだろうか?
 子は鎹、なんて言葉は今じゃだいぶ廃れたものだけれど、僕とネロとの関係を最も端的に表すとするならば、もう殆どそういうふうにしか言いようがないのだった。
 そのことに別段、不満を抱いたことはない。どころか満足すらも意識したことはない。ただ成り行きでそうなって、それで上手くいったから、そうしていた。僕ら四人はそういう形であって、僕とネロとはその中の一部であって、僕らはただ、四人の中で割り振られた各々の役割に沿って動いていた。
 それが、これからはおそらく、今までの四人の形が一旦解体されることになる。今まで背負ってきた役割を各々返上することになる。そのとき僕らは、ただのファウストになり、ただのネロになり、子どもらは〝子どもら〟では、なくなるのだろう。
 そうすると、だ。
 では、僕とネロとは、次は一体どんな役割のために、繋がっていられると言うのだろう? あるいは、もはや繋がることはなくなるのだろうか?
 僕はふと思考が行き当たったそのことについて、まさか淋しく感じるでもなく、逆に清々するでもなく、ただただ純粋に疑問に思われて一人、首を捻った。捻る動きのまま、ネロの横顔を盗み見てみる。彼の方ではなにを考えているか、ひょっとすると読めはしないだろうかと企んだのだ。しかし早速その試みは仕損じた。ネロが僕の算段に反し、最初っから僕の方をじっとまっすぐに見つめていたからだ。
 僕は意表を突かれて、ぱちぱち瞬いた。彼が僕を見つめていたから僕もネロに向き直る。ネロは自然に視線を流した。しかしその動作は彼の癖なので、そういう反応をされたからといってすぐに、僕の行動が誤っていたとは判ぜられないのだ。実際、そう思って少し待っていれば、ネロは当たり前のごとく僕にその穏やかなまなざしを戻した。
「子どもらも、無事に手を離れたな」
 そして、先ほどと同じことをもう一度言った。
 僕は今度は黙って聴いていた。精緻なパズルみたいに、細い絹糸の織り目みたいに、掛け違えずにネロの言葉を促した。
「――だからこれからは、二人でいる時間、を、もっと楽しめたらいいよな」
 俺たち、とネロは言い足した。
 僕はやや考え込む必要があった。ネロが告げた言葉は、僕にとってあまりにも思いがけないものだったので。二人で、いる、時間。僕はゆっくりと反芻してみる。頭の中でやるだけではなくて、そのとおりに声にも出してみた。
 答え合わせをするみたいに、ネロが僕の発する一言一言に、真剣な目で頷く。
「〝俺たち〟……きみと、僕とのことだよな」
「うん。そう」
「僕ら二人で」
「うん」
「……楽しむ」
「楽しみ方って、いろいろあるから。ほら、俺なんかは、たとえばあんたと同じ空間でただ黙って過ごすのとか、ふと行き合った場所でなんでもない会話してみるのとか、そういうの、結構楽しめてんだけど」
 ポケットから引き抜いた手で、ネロが手持ち無沙汰そうに自分の髪の毛を弄る。手持ち無沙汰というかまあ表情を隠したいのだろうけど、それはいい。逆にいい。却って可愛い。安心する。
「……そうだな。うん。悪くないよ、それ」
 僕はなんだか込み上げてきた笑いを、敢えて隠さずに頷いた。
「……それ」
「ああ。きみと、僕で、楽しむというの。……これからはそうしてもいいなって、確かに、僕も思うよ」
 そう、本当に僕も、思っていた。どうやらそうらしいのだ。
 ネロの言葉を受けて、今まで形を持たなかった安らぎが、今まで意識に上ることもなかった思慕が、ふっと水面に顔を出すように、息づく。形を持って、鮮やかに色づきさえして、初めての眩しい日の目を見た。
「…………よっしゃ」
 ネロは、小さく呟いた。綺麗な指先が前髪を払って、嬉しげな表情が現れる。金色に輝く麦穂を振ったみたいに、光の粒がその睫毛からいくつも零れ落ちていた。
「ふふ」
「嬉しいよ、ファウスト」
「僕も。……ありがとう、ネロ」
 僕が礼を述べると、ネロはきょとんと目を瞬いた。
 僕と繋がってくれて。僕に伝えてくれて、僕に聞いてくれて、僕の形を、許してくれて、ありがとう。
 思うままに伝えれば、ネロはその明け方の空みたいな色をした瞳の中へ、きらきらした星を砂のように浮かべて、はにかんだように、見たこともないほど穏やかに微笑んだ。
「ネロ。きみの言葉が、きみの無言が、つまりはきみ自身のことが、僕はずっと大好きだったみたいだ」

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