「きみの目、きれい」
裏庭をふらふらしていたら蹴躓いたのだ。別にそこまでしてくれなくてもよかったけれど、偶々そこにいたネロが咄嗟に駆けてきて支えてくれた。恥ずかしいけれどネロでよかったなあと思いながら、顔を上げたら、普段見ないような近さで目が合った。そして、日差しの角度がまた奇跡的だった。
「素敵な色だな」
そう思った。だから礼を言うより手間を取らせたことを詫びるより先に、うっかり、思ったままを口に出してしまったのだ。ネロの目がこんな色に見えること、僕はついぞ気が付かなかった。でも確かに、気が付いてしまえばとてもネロっぽい色である。僕は思いがけない発見がそれでもすとんと腑に落ちてゆく感覚が、面白くて、彼に身体を預けたままついその瞳を見つめ続けてしまった。
ぱしり、と瞬きするダークグレーの睫毛も、奇跡的な角度で彼の目許を照らす太陽光によって、一本一本が透きとおる薄氷ででもコーティングされているかのように、光を放つ。
見つめていた虹彩がそっと横に逸らされて、触れている身体がじわっと身動ぎをしたことで、僕はようやっと我に返った。
いけない。身体が近かったことと、礼を言わなかったことと、必要のない雑談めいた話を吹っかけてしまったこととが、きっとネロの気分を害してしまっただろう。僕は先ず謝ろうと口を開いたけれど、声になったのは、ネロの方が早かった。
「……あんたがそんなこと言うとは思わなかった」
疲れてしまったような、小さくて掠れた声だった。
彼はそっぽを向いて気怠そうに前髪を弄りながらも、もう一方の腕では相変わらず僕の背中を支えてくれている。幾重にも申し訳ない気持ちが湧いて、僕は今度こそ発言の順番を捥ぎ取った。
「……すまない。身体について触れるのは失礼だったな」
「ああいや……うん、いや、東では言うやついなかったからさ。人の見た目に関して……綺麗とも醜いとも」
「法律違反だからな」
「うん……だからその、そう、久し振りでちょっとびっくりしたんだよ。目の色とか、ごちゃごちゃ言われんの」
「ごちゃごちゃ言ったつもりは――いや……そうだな。……すまなかった」
「いや……」
ネロの歯切れの悪い否定を最後に、重苦しい沈黙が落ちる。蹴躓いた僕を助けてくれたままの、半分抱き合っているような奇妙な距離の間に、とろりと居心地の悪い空気が満ちた。
こんなのはネロといるときの空気じゃない。もっとさらりとしていて、息苦しくなかった筈。やはり僕が踏み込みすぎてしまったのだ。それなのに、謝るべきことをまだ一つも謝れていない。お礼も。
今、ただ謝罪を重ねるのも、却って空気を悪くしそうで、僕が考えあぐねていると、また、ネロの方から口を開いた。
「……あの、さ。……よければ、だけど……その、なんでそんなふうに言ったのか聞いてもいい? 俺の、目」
僕はどきりとして、ネロの横顔を見つめた。
伏し目がちに、ひたすら横髪を気にして指先でくるくる弄んでいる。どういうつもりで訊いてきたのか、つまり彼がどんな答えを望んでいるのか、僕には分かることができなかった。だから嘘の吐き方も分からない。僕は途方に暮れた挙句、まったくの本音を差し出すという道を選ぶほかなかった。
「……こんなに近くで見ることがないから、今まで気付かなかったんだ。きみの目の色。朝日に当たると、まるで数時間前までの空の色みたいな、濃い青と透きとおった金色に見えるんだな。それがとても綺麗だと思ったし、ネロっぽくて好ましいなとも思ったから、……口に出してしまった。気を損ねたならすまない。次からは気を付けるよ」
いつもの癖で頬を掻くと、目の前に髪を弄っているネロがいる所為で、まるで彼の癖が僕に移ったみたいに見えて妙に居た堪れなくなった。ぎこちなく左手を下ろすと、殆ど同じタイミングでネロも毛先から指を離して、こちらを見た。なんなんだ。やたら気恥ずかしく思われて顔が熱くなってしまう。
「……俺っぽい?」
「あ、……ああ」
なんだかじっと見つめてくるから、僕は気圧されるように頷いた。表情の読めない顔が近づく。ダークグレーの睫毛がゆっくりと瞬く。それがなにを促しているのかが分かって、僕は心を落ち着けながら、その瞳を再びじっくりと見つめた。
「……うん。ネロっぽい。ランプの明かりの中で見たときは、もう少し全体にオレンジが濃くて、夕暮れみたいな目だと思ったのだけれど。虹彩の縁の方がこんな鮮やかな青色をしてるのは気が付かなかった。色の作りが複雑で細やかで、そのうえ、明け方や宵の口みたいな静寂の時間を閉じ込めてあるなんて、やっぱり、ネロみたいな目だ。僕はすごく好きだと思う」
僕にそこまで述べさせてから、ネロは再び瞬きとともに視線を外した。顔が離れる。表情の全貌が露わに見える。ネロはなんだか唇を、食むようにもにょもにょさせていた。気分が悪そうではない。なんなら、少し朱の上った頬と併せて見れば、どちらかというと人に褒められたりなどしたときにはにかんでいる、あの顔に近いように思われた。
「俺はさ……」
ネロが出した声は、先頭がやや裏返っていた。今度こそ顔を真っ赤にして咳払いをするのを、少し笑ってやると、むくれたみたいな横目でじとっと睨んでくる。
静かな深呼吸をして、改めてネロは告げた。
「……俺、は……俺っぽいから、好きじゃなかった。……自分の、目」
「……そうだったのか」
ネロはたぶん、ネロ自身のことを好きじゃない。そんな彼が、ネロっぽいと褒められたところでちっとも嬉しくないのなんか、少し考えれば分かる筈のことだった。冷たい汗が首筋に滲んだ。平気な顔して彼を傷つけてしまったことを、本当に今更、僕は猛省した。
「無神経な物言いをして悪かった」
「ああいや、違うんだ。そうじゃなくて……」
ネロは否定したけれど、その後に言葉が続かない。その、あの、と意味を成さない音を漏らしては、口を閉じてを繰り返す。けれども、その様子がなぜだか必死に見えて、彼はひょっとしたら気を遣っているのではなくて、本当になにか伝えたいことがあるのかもしれない、と僕は思う。
惰性だかなんだかで相変わらず身体を支えてくれている、温かな腕の中で、僕はただ、ネロを決して急かさないことだけに心を砕いた。
「……そうじゃなくて」
「……うん」
「あんたを責めたいんじゃなくて。責めるつもりなんじゃなくて……気分を害したとかでもなくて、俺は……」
そこでもう一度、ネロは言葉を切った。ダークグレーの緞帳が静かに下ろされる。それが再びもたげられたときには、薄明色のまなざしはまた僕に向き直っていた。
「……ファウストは、俺のこと、好きなの?」
ネロは小首を傾げて、そう僕に問うた。
僕よりもちょっとだけ身長が高いけれど、下から窺うように、上目遣いに僕を見る。なんだか、かわいい。人見知りな猫がこちらを受け容れるか決めかねているみたいに見えるから、僕はネロのこういうところがどうしても煩わしいと思えないのだ。
僕は一瞬、彼の問いかけにびっくりしてしまったけれど、すぐに、さっき自分で言ったことを思い出した。
「……うん。複雑で細やかなところ、早朝とか黄昏時みたいに、隣にいて静かな気持ちになれるところ。きみのそういうところは、僕は個人的にとても好ましく思う」
もっとも、僕の隣にいてきみが同じように安らげているものとは思わないけれど。と、念のためしっかりと付け足したのだが、ネロは今度は、今までそうしていたのとは反対側へ、ことんと首を傾けた。……なんだ、そのかわいいの。本当に猫みたいだから、絆されたくなってしまって困るのだけれど。
「いや……俺もあんたといるときは落ち着くし、好きだよ。ファウストの隣にいるの。……だからお揃いだな、俺たち」
「……お揃い……?」
かわいいネロの口から飛び出した、突拍子もない言葉に、僕は今度こそ面食らった。彼らしくもない表現が過ぎて、意図を読むだとかもうそれどころの話じゃない。当惑する僕をよそに、ネロはどう見たって僕に甘えてるとしか思えない声で畳みかけてくる。
「お揃い……嫌?」
「いや……嫌というわけじゃ……。というか、ネロは嫌じゃないのか、誰かとお揃い」
「誰かとは苦手。けど、ファウストとなら、いいのかなって思うよ。……なんでだろうな」
ネロがちょっと笑う。くすっとにがそうに零された吐息が、あまりにも淡いのに、しっかりと耳に届いてしまって、僕はなんだか胸が苦しくなる。
きっと、普段くらいの、付かず離れずの距離でいたのなら、聞き拾えなかったかもしれない声だ。それが今は、例の半分抱き合っているみたいな、こんな奇妙な距離で、いるから。淡い声がぜんぶ聞こえる。瞳の色までよく見える。こんな距離で見つめても、ネロという男は、綺麗で、かわいくて、少しにがくて、ぜんぜん居心地が悪くない。
……それなのに、なぜだ。僕の心臓はなんだか痛くて、ネロといる筈なのに息が上手くできないなんて。
わけがわからなくて、思わず、彼の胸許に置いたままの手で縋るようにシャツを握り込んでしまう。ネロが前髪を触る。でも今度は彼自身のじゃない。ネロの指先が今そっと触れたのは、僕の、髪の毛だった。
「自分の目……嫌いだったんだ。自分そのものみたいで。曖昧で、どっちつかずで、一言で表せなくて、ややこしくて……中途半端でめんどくさい、俺自身みたいな色だから」
ネロの指は、ひどく優しくて、気を遣いすぎるからか幽かに震えていて、それでも離れてはいかずに、根気よく、僕の前髪を梳いていた。胸が痛い。喉が苦しい。でも、離れられない。離れたいのじゃない。
「僕は……そんなきみだから、よかったよ。自分のことをどっちつかずだなんて言って憂うきみだから、一緒にいても息苦しくなかった。曖昧にしか生きられないことを知ってるきみだから、隣にいると、息が楽になった。生きづらいきみにこんなことを言うのはひどいかもしれないけれど、僕は……僕は、ネロ、中途半端でめんどくさいきみだからこそ、出会えて、よかった」
ネロの手が、くしゃっ、と僕の髪を掻き混ぜた。
怒られたのかと思って肩が跳ねたけれど、聞こえてくる柔らかな笑い声が、魔法みたいに一瞬で僕の緊張を解いてしまう。
思わず閉じていた瞼を、そろっと開けば、元々の白い肌に温かそうな朱を刷いたネロの表情が、そのまま僕の視線を吸い寄せて、釘付けにしてしまった。
「それはほんとにひどいよ、あんた」
やれやれといった声で僕を詰りながら、それでも、僕の頭を撫でる手も、僕を見つめるまなざしも、とても柔らかい。優しくて、軽やかだ。
子どもたちの前で、場を和ませるために敢えて僕にちょっかいを出してくるときみたいな、それでいて、やっぱりそれとは少し違うような、不思議な気軽さで、ネロは僕のほっぺたを甘く引っ掻くみたいに擽った。
「ごめん」
「あーあー、ひでえ先生。ひでーけど……俺も、自分が今の自分でよかったなんて絶対に思えはしねえけど、……でも」
ネロが、僕の目をぴったりと見つめた。今は少し影が落ちた、深い琥珀色。甘く蕩け出して、蜂蜜みたいな声になって、僕の耳を擽った。
「あんたが褒めてくれるなら、こんな色でも……まあ、思ってたほど悪いことばっかりでもない、のかもな」
因みに俺はあんたの目の色が好きだ、とけろりとした声で言われて、僕は漸く、自分の目も当然彼にまなざされていたのだということに思い至った。
「口に入れたら、甘くて美味しそう」
「……怖ろしいことを言うんじゃない……」
「はは」
呪い屋さんが怖がるの、なんかかわいいなあ、と頭が沸いたようなことを呟いている顔を不意に思いっきり引っ叩きたくなって、衝動を逃すために僕はそっぽを向いた。
「……けどさ」
「なに」
「あんたの目こそ、夜明けの空みたいだよ。朝早くから飯の仕込みしてると、キッチンの窓から見える空が偶にそんな色しててさ……やっぱりファウストといると落ち着くんだよなあとか、あんたが隣にいるわけでもないのに思ったりも……いや、今の忘れてくれ。なんでもない」
呆れた。僕は隠さず溜息を吐いた。今更なにを誤魔化そうと言うんだ、この男! 今度こそ僕は彼の頭へ手を伸ばして、けれども流石に引っ叩きはせずに、神経質に格好つけられている前髪をぐしゃぐしゃに掻き上げてやった。
「ばかなの?」
「いやほんとに、なんでもねえんだって」
「ある。聞いた。一生覚えてやる」
「執念深いんだから……これだから東の魔法使いは」
「おまえも同じだろうが」
散々じゃれ合って、しまいにはネロの方が面倒くさげに僕の手を捕まえて、彼の身体から引き剥がしてしまった。両方の手首を痛くない力で掴まれたまま、「助けてくれてありがとう」と僕が言えば、ネロはきょとんと瞬いた。
「……ああ」
暫く惚けた後に頷いたネロは、漸く、そもそもなぜ僕らがこんなにくっついているのかという理由を思い出してくれたようだった。
「手を煩わせてしまってすまない。けど、居合わせてくれたのがネロでよかった」
「本当だよ。なにもないところですっ転ぶんだもん、あんた……若いやつらの前で恥ずかしい思いしなかっただけ、よかったな」
「え、なにもなくはなかっただろう……な、なかったのか?」
湧き上がる不安にちょっと顎を引きながら窺うと、ネロはなんだか、面白がるというよりも、僕のことをとびきり甘やかすみたいな笑い方をした。
「さあ……。けど、ふらふらしてたし、疲れてるんじゃないの。後で部屋になにか持ってってやるから、今日は部屋で休んでなよ」
「……そうさせてもらおうかな。なにからなにまでありがとう、ネロ」
「どういたしまして」
ネロは朗らかに答えると、あっさりと僕の手を離してしまう。なんだか久し振りに一人で立ったような錯覚が起きて、僕は少しの寒さに身震いした。自覚していたよりも体調は悪かったのかもしれない。ネロはやはりよく気が付くひとだ。
「……そうそう」
そのまま踵を返すのかと思ったら、中途半端な向きに身体を捻ったまま、ネロがなにやら言いかけた。首を傾げて見ていると、彼はそのうち、自分の乱れた前髪を熱心に気にし始める。そういえばそんな有り様にしたのは僕だった。離れかけた距離を詰めて、整えるのに手を貸してやる。
そうしたら、なぜだかまた背中に腕を回された。もう支えてくれなくても大丈夫だよ、と思ったのに、僕は口にすることができなかった。
……抱き締められて、戻ってきた体温に、安心してしまっていた。
「あんたが好きそうな酒が、偶々、手に入ったんだった……もし、夜までに調子が戻ってればだけど、ちょっと分けてやろうか」
「そういうことなら、治る。夜には治る」
「はは。あんたが現金なところ見せてくれると、安心するよ。大好きだ」
そんなふうに言って、ネロが笑う。顔がぐっと近づいて、僕は反射的に目を瞑った。その目尻に、一つ。そこから少し下がって、ほっぺたにもう一つ。
温かい、少しかさついているけれど柔らかい感触が触れて、離れた。湿った吐息の感じもあったから、あれはネロの唇だったと思う。誰かとキスをするのなんて本当に久し振りのことだった。家族が生きていたときと、それから、少しの友人がいたときに、挨拶でした記憶があるばかりだ。
目を開くと、ネロが混ぜっ返すみたいに僕の前髪を撫でてきた。そのはにかんだ仕草と、笑顔が、なんだか本当にかわいく見えて、僕もつられて笑った。
後で考えるとそれは本当におかしなことだったのだけれど、ネロからキスをされることに、僕はなんの疑問も抱かなかったのだ。毎日飲んでいる水みたいに、その経験はごく当たり前に僕の喉を通って、静かに胃の腑に落ちていった。
ネロもネロで、そうするのがごく自然な僕らの会話であったみたいに、僕にキスをして、僕も僕で、まるで今までもずっと僕らはそうしてきたみたいに、ネロのキスを受け取った。そうやってごく自然に笑い合って、じゃあまた後で、ああよろしく、と短い言葉なんかを交わした後、僕らは身体を離したのだった。
部屋に戻った僕は、よく眠れた。なんだか幸せな夢さえも見たような気がした。証人はいないので、実際のところは知る由もないけれど、それでも、なんだか身体が軽くなったように、その日は清々しい気分で満たされていたのだ。ネロが僕のために作ってきてくれた料理は、勿論いつもどおりに美味しくて、そうしてなぜだか、いつもよりも特段、甘かった。
その夜。
朝の出来事をどこからか目撃していたらしいシャイロックに、〝抱き合って愛を囁いていらした〟などと揶揄われ、ネロと二人、平身低頭する勢いで必死に口止めする羽目になったのは、また別の話。
――その数時間前、顔を蒼褪めさせて部屋にやって来たネロから〝別れ際にとんでもないことをしてしまった。本当にごめん〟とこの世の終わりのような声で謝られたことも。それに対して僕が〝なぜだか分からないけれどちっとも嫌ではなかったから、どうか気にしないでほしい〟と答えたのも。
そうして二人、ベッドに並んで座り込んだまま顔を熱くさせて俯いてしまったのも。
全部ぜんぶ、別の話。
語る必要もない、ネロと僕だけの、まったく他愛もない、ささやかな記憶だ。