ネロファウ

クレイジィ・クリィムパイ

 ――カーケンメテオル。
「なんだそりゃ」
「それが分からないから、こうして引っ張り回されているんだ」
 俺のぼやきにそう返した呪い屋は、いつの間にか入り口から遠い食堂の奥側にいた。
 部屋に入ってきたときは大勢の後ろからのろのろ大儀そうについてきていたと思ったが、どうやらやつも、この場所で陣地確保するにあたっては抜け目ないらしい。
 今やちゃっかり特等席に収まっているやつの行動が、しかし俺やちびっこのように食い意地に端を発するものじゃないということは、実際、誰の目にも明らかなんだった。

「ネロ」
 渦中にいながらにして、審議のバトンがほかの連中の間を回り出したがために輪からやや外れた。そんなポジションにいるネロに、呪い屋は声をかけた。その場の会話に一つの波を立てることもなく、すすっと自分の定めた相手の許に寄っていくのは、いかにも東の陰気さのなせるわざという感じがする。
 また始まったか。俺は派手に嘆息しかけるのをどうにか呑み込んで、今日もまた知らぬ存ぜぬを決め込むことにした。
 偶にはこちらの視線に気付くこともあるネロから、後ろ手に胡椒をちらつかせて威嚇されるまでもない。東の呪い屋の存在が、ネロの抱える爆弾みたいなもんだということは百も承知だった。外から不用意に突っつけば、空間を飛ばされるどころの話じゃきっと済まない。腕の一つ二つは吹っ飛ばされた挙句、トマトと一緒くたにして煮込まれること必至のシロモノなんだった。
 そんな爆弾――もとい、ネロが一人で見つけ出してモノにしたらしい〝お宝〟は、相変わらず場の主題に障らない細い声で、ネロに個人的な会話を持ちかけているところだった。
「ネロ……僕の分もある?」
 どうやらネロの麗しの先生もおやつをご所望らしい。あいつの手許にある大皿を控えめに覗き込んでいる。
「勿論。こっち来なよ、ファウスト」
 今日のパイに敷き詰められていたクリームよりも明らかに甘ったるい声でネロは答えているが、来いもなにも、いやどう見たって既におまえらそれ以上近くてどうするという距離に見えるんだが。正気なんだろうか。
 呪い屋も呪い屋で言われたとおり素直に距離を詰めるもんだから、やつらの身体は見事もはやゼロ距離になった。正気なのか。普段の東のやつらの行動パターンに照らせば、確実に異常事態な光景だが、しかしその場にいる筈の誰も、声にして突っ込んだりはしなかった。
「あんたに一切れは多いよな……」
 そう言いながらネロはご丁寧に、もったりしたクリームパイをナイフまで使って一口サイズに切り出してやっている。ホールを放射状にカットしたやつの先っぽだから、いちばん美味いとこだ。なんか腹立つ。幸薄い相棒が楽しそうにしてるのは、まあ微笑ましいような気もしないこともないがそれ以前に腹立つ。それ残ったやつは誰が食うんだよ。俺様貰ってもいいのか。既にいちばん美味いとこは持ってかれてるけども、食うか食わないかで選ぶとするならば断然食う。当たり前だが。
「これくらいなら、食べられるか?」
「うん。……ありがとう」
 顔を寄せ合って囁き合う声は相変わらず双方甘ったるいし、それはそうとおまえはマジでそれしか食わねえのか。マジでそれでいいのか。正気か。
 禁欲が過ぎる呪い屋は、いつも被っている暑苦しい帽子を、流れるような仕草で脱いで胸に抱いた。手套すら外して懐にしまい込む。礼儀作法とかいうものがちゃんとしているところも、ネロの気に入るところの一つなんだろうなとは、こういうときに腑に落ちる。
 ネロの持つフォークが、パイの一欠片をそっと掬い上げた。こいつ自身の食事風景というのは実際なかなかレアなもんだが、作るときだけじゃなく、食うときの所作もこれが素晴らしく様になるのだ。カトラリーを持ち上げる動き一つとっても、どういうわけなのか、俺を含めた魔法舎のほかのやつらなんかとは、全然違うふうに見える。
 そしてこの所作の美しさは、こんな場合であろうが変わらないらしかった。
 フォークが口許に当てがわれる。あ、と素直に口が開く。ゆっくりと引き抜かれるフォークも、おもむろに咀嚼する口も、まあなんとお上品なことで。
「……美味しい」
「そっか」
 腑抜けた顔で静かに笑うネロは、呪い屋先生の口に給餌し終えたフォークを、やはり美しいままその指先に保っていた。
 しかし、まあ、やったらめったらふにゃふにゃと笑い合うもんだ。天下の盗賊団の元№2と、指折りの現役呪い屋とが組むと、果たしてこんな骨抜きになるもんだろうか。実際なっている。今目の前で。末怖ろしいことも世の中にはある。
 さて、俺様にとっちゃ思わず正気を疑うようなたった一口ぽっちの食事の後、ネロはいそいそと湯を沸かして、なんと特別に紅茶まで用意し始めた。因みにさっきの俺たちに提供されたのは作り置きのアイスティーである。
 きっと完璧に仕上がったポットの中身が、やがて華奢なカップに注がれた。ふわっと滑らかな茶葉の匂いが立つ。
 その瞬間、食堂にいる全員の鼻に、それは流石に嗅ぎ取られた筈だった。紅茶の香りだけじゃなく。それを必要とした二人の間に満ちる、どこまでも甘い空気さえも。
 それでも、俺を含めた誰もが、やはりなにも言わなかった。
 中央の王子もちっこいのも、気付いていないわけじゃなくあまりにも見慣れているからなにも言わないのだし、西のパイプ飲みに至っては俺と同じだった。なんでもないような顔をして、その実、常に視界の範疇にあいつらの姿を収めているのが分かる。二人の様子を完全に面白がっているのだ。
 ネロと呪い屋の仲は、当然のように周知の事実だった。しかしこいつらが本当に面白いのは、これで未だに、自分たちの関係を隠し遂せているつもりでいるらしいことなのだ。ここまでくりゃもう、流石に正気じゃないだろ。
 俺自身、慢性的に巻き込まれて常に辟易しているから、ネロの〝隠し事に向いてなさ〟には太鼓判を押してやれる。そして奇しくも、かの呪い屋も、初見の俺にも明らかにそうと分かるほど、完全に嘘がド下手な野郎なんだった。
 こんなやつらどうしが組んで、おそらく人生の一大事なんであろう事柄について隠し通そうとしてくるのだ。そりゃもう、控えめに言って見るに堪えない。見るに堪えなさの一例が、目下のこの光景というわけだ。俺にとっちゃ、もう愉快を通り越して呆れるほかないのだが、パイプ飲みなんかは純粋にそこそこ愉しんでいるのかもしれない。それはそれで悪趣味なことだが、無駄な気を遣って疲弊するよりゃよっぽど生きやすいだろう。
 俺は肩を竦めつつ、今度は別の方を盗み見た。あいつらのほかにもう一人、目に入るときにはいつでも、視界の隅には入れるようにしてやっているやつの方を。こっちは悪趣味とは正反対に相当生きにくそうで、賢者は、あいつらの方をちらちら窺っては、心配そうなあるいはなにかちっこいものを慈しむような――俺がよく知ってるものでたとえるのなら、ネロがよくするような――どうにも幸の薄い表情で、なにか言いたげな口を一生懸命引き結んでいた。

 カーケンメテオル。
「なんだそりゃ」
「それが分からないから、こうして引っ張り回されているんだ」
 俺がなんにも知らん振りして呟いたとき、しれっと会話に参加してきた男は、既にあのネロの肩に身を凭せて平然とした顔で紅茶を啜っていた。
 ……そんなわけで、東の呪い屋が魔法舎の料理人の隣、やつの特等席に陣取りたがるのは、俺やガキどものそれと比べたら塵芥ほどにもならねえ食欲なんぞのためじゃない。
 二人の間に育まれている、恋のときめきのためだなんてことは、当人たちが思うよりもとっくに、誰の目にも明らかなんである。

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