東の国

今はこの距離

「あはははっ」
 軽い鍛錬を終えて森から戻ると、通りかかった中庭で人の声が聞こえたので足を止めた。姿が見えなかったので驚いたのと、とても親しい人物の声だったから気になったのとで、シノはきょろきょろと辺りを探した。
 ややあって、人影を視界に捉えた。二つ。朗らかな笑い声の主はやはりファウストで、そしてその隣に寄り添っていたのが、なんとなく予想していたとおりネロだったから、シノはちょっと得意な気持ちになって一人鼻を鳴らす。ふふん。二人が並んで腰を下ろしている植え込みまでは距離があったし、オレンジの日が落ちて辺りが薄暗くなってきていたこともあってか、ファウストもネロも、こちらには気付いていないようだった。
 綺麗に剪定された庭木の葉の合間から、ちらちらと二人の姿が見えている。シノはじっと、自分と親しい二人の様子を観察した。
 ネロが片手を口の横に添えて、ファウストの耳許へぐっと顔を寄せると、何事か囁いたようだった。近い距離を仰反ることもなく受け容れたファウストは、ネロの言葉を聞いて、柔らかく吹き出す。そのまま堪えきれなかったように、ネロの胸に縋りついて、頭をネロの肩に預けて、くすくすと肩を揺らし始めた。
 シノは少し、感慨に耽った。ネロの方は元々、少なくともシノ相手には、出会ったばかりの頃から肩を組んできたり頭を撫でてきたり、人付き合いが苦手だと言うわりに身体的な距離感はいやに馴れ馴れしいやつだと思わせるような節があったけれど、まさか、ファウストがそれに応えるようになるなんて。
 最近では、シノやヒースにとってはそれなりに見慣れてきた光景ではあったけれど、それにしたって今、二人が、いつ誰が通りかかるとも分からない魔法舎の中庭で、まるで四人きりでのんびりとファウストの隠れ家を訪れているときのような、ゆるんだ絡み方をしていることが、シノの目にはなんだか不思議に見えた。
 とはいえ魔法舎のほかの大人連中よりもだいぶしっかりしている二人だから、この時間から酔っ払いでもして正体をなくしているなんていうことはある筈もない。その事実にやっぱり、シノはふふんと鼻を鳴らして、自身のとびっきりのお気に入りである二人に信頼を乗せたまなざしを向けるのだった。
 ファウストにくたっと寄っかかられて、ネロも、こちらはくつくつと、おそらく殆ど吐息だけで笑っていた。声はあまり聞こえないものの、こういう笑い方をするときのネロが一体どんな表情をしているのか、今のシノには手に取るように分かる。
 陰になって直接見えはしないけれど。へにゃへにゃに笑い崩れたファウストの方へまた顔を寄せている彼が、こんなときに、どれだけ柔らかい、ぐずぐずに煮崩れた果物ジャムみたいな顔をしているのかってことくらいは。シノだけじゃない、きっとここにヒースがいたって、同じように分かっただろう。
 遠目にはキスでも贈っていそうに見えるほど、間近でファウストの顔を覗き込んだネロは、笑い転げた所為でほつれた茶色い癖っ毛を指で梳かしてやっている。
 推測だが二人は手を繋いでいるかもしれない。シノはふと思った。さっきから二人は、互いに近い方の手を少しも動かしていない。ファウストがネロに縋ったのも、ネロがファウストに耳打ちしたのも彼の髪を梳いているのも、互いから遠い方の片手だけだ。
 そう気付いたら、なんだか無性に確かめてみたくなって、シノは迷いなく足を踏み出した。そういえば、この時間にこんなところにネロがいるなんて、夕飯はどうなってるのだろう、とも問い質したかったので。
「――よお、シノ」
「ふふっ…………はあ。……おかえり、シノ」
 すたすたと二人の前に歩み出ると、真っ先にこちらを見つけたネロと、漸く笑いを収めたファウストとが、口々にシノの名前を呼んで微笑んだ。
「また、一人で訓練をしていたのか。お疲れさま」
「ああ、ただいま。詳しく話すから、夕飯食べながらまた褒めてくれ。ファウスト、ネロ」
 当然のように申告すれば、はいはい、と二人が笑う。眉を下げて笑う。煮崩れた、じゃがいも。シチュー。ポトフ。そういう、ほわっとする。
「――あっ、シノ!」
 建物の入り口側から声がして、ぱたぱたと走ってくる音がする。深刻になりゆく夕闇の中でも、誇らしい主君の姿はシノの目に捉えられないということがなかった。
「遅いから、今から呼びに行こうと思ってたんだよ。おかえり」
「ただいまヒース。ファウストもネロもここにいる。夕飯か」
「ああ」
 聞けば、今日はカナリアが一人で調理を担ってくれていたらしい。授業を設けなかったファウスト先生と同じく、ネロにとっても貴重な休日だったというわけだ。だからおやつが作り置きのドライフルーツパウンドだったのか。シノは漸く得心した。
「……んじゃ、帰ろうぜ」
 ネロが欠伸するみたいに、ほわっとした声を三人に投げかける。帰るぞ、と号令をかけて部隊を率いてゆくのはファウストだけれど、なあそろそろ帰ろうよ、みんなで帰ろう、とそっと甘えたように持ちかけてくるのはいつだってネロの役目だった。
 シノが頷くのと前後して、ネロとファウストも、どちらからともなく腰を上げた。立ち上がりながら、繋がれていた手はふらっと自然に離れてゆく。それが、今日のシノの目にはなぜか、とても勿体ないことのように映った。
「……。なあ、ネロ。今度はオレと手を繋いでくれ。ヒースはファウストと」
「えっ!?」
 ヒースが驚いた大声を出す。ファウストは目を丸くして絶句している。
「……いや……えーと……。そういうのは俺らだけでいるときにしねえ?」
 今の今まで平然と公共空間でスキンシップしまくっていたくせに煮えきらないその手を、有無を言わさず掴み上げて、シノは、戸惑うヒースへと見せつけて促すように掲げた。
「建物の中に入るまでだ。いいだろ、どうせ誰も見てない」
 揺るぎなく言い放って、体温の低い手を迷いなく握り続けた。数秒、渋っていた指先は、やがてゆっくりと、シノの手を添うような優しさで握り返してくる。
「やった」
「……ったく……。本当にちょっとだけだからな。……先生も、早く。夕飯が冷めちまったら、カナリアさんに悪い」
 ネロが疲れたような声で、同士に降参を促した。固より面食らっていただけでそこまで拒絶するつもりはなかったらしいファウストは、自らそっとヒースの方へ右手を差し出して、しかしネロの方を再び振り返ると別の所以でむっと眉を顰めた。
「……百歩譲ってそれはいいとして、なんでおまえまでまた繋いでくるんだ」
「へへ」
 可愛げのある悪戯っ子とか、愛せる程度の悪ガキみたいな茶目っぽい笑い方で、ネロはちゃっかり先生の左手を陥落させてしまったようだった。
「……小さい頃に、両親に手を引いてもらって歩いたのを思い出します。なんか落ち着くな……」
「だろ。先生の手、いいよな」
「……両側から妙なことを言うんじゃない。僕が落ち着かないだろ」
「す、すみません……!」
「あっはっは!」
 右側に三人のやりとりを聞いて、シノは満足感に、ふーっと息を吐き出した。
「――オレはヒースが初めてだった。ヒース以外とは、ここに来るまでしたことない。ネロが二人目、ファウストが三人目。これから増えるかは分からない。けど、そうなってもあんたらの手はたぶん、オレにとっては特別だ」
 四人できちんと手を繋いで、そうして、家へ帰ってゆく。
 あんなに渋っていたくせに、大人たちの歩みも、あんなに怯んでいたわりに、ヒースのそれも、ゆっくりと、ゆうるりと、穏やかすぎるくらいにゆるやかに。
 文字どおり日が暮れそうなくらいに、のんびりと体温を混ぜ合って、ご飯を食べに、眠れる場所に、四人が一緒くたでいられる家に、今は、帰ろう。

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