「ネロは自分の面倒を見るのが下手だな」
へ、と固まった。耳許で放たれた言葉に、首筋へキスを落としていた動きが止まった。
「子どもらのことも、僕のことも、よく心配してくれる。けど、きみは僕が自分自身に対してそうするほどにも、きみ自身のことを顧みていないように思う」
ファウストの声は、責めるようではない。けれど悲しむようでもなくて、そう感じてしまうということは、ネロは、悲しんでほしかったのだろうか。口を噤む。いろいろな後ろめたさが渦巻いて、そっと離れようとしたら、ファウストの手はまるで宥めるようにネロの後ろ頭を抱き留めて、そっとさすった。
「きみは、危ないことを好きじゃないね。僕だって、好き好んでそういうことに首を突っ込むわけではないけれど……。それでもそうせざるを得なくなったときに、今の僕の手を、掴んでおいてくれようとするのは、いつだってネロの声だ」
ベッドに並んで腰掛けて、蒼い月明かりを受けている。
子どもらの寝静まった呼吸が、深く、穏やかに沈む。二つ並んだベッド。森の中の、平和な小屋。
「……そのことをとても嬉しく思う。けれど、僕はあいにく、死に急いでいるわけじゃないんだ。それはもう諦めたんだよ。それに、最低限自分のことは自分でするし、自分の身は自分で守るようにしてる」
振られるのかな、と脳裏を過った。言葉を聞く限りではそうとも取れて、けれども、ファウストとはもうお互いそんなふうにあっさりと距離を空けていられるような情の預け方をしているわけじゃないということくらいは、流石のネロにもいい加減分かっていた。
「僕が心配なのは、ネロのことだよ」
ファウストがそっとネロの顔を覗き込んで、まなざしを合わせた。
まっすぐな柔らかさが面映くて、思わず首を傾げたら、逃げる視線を叱るように甘い指先でこめかみを擽られた。
「きみは、億劫がりなくせに、一度一人で踏み込んだ場所からなかなか引こうとしないよな。……頼るのが、面倒くさい?」
皮肉でもなく、そのほかのあらゆる詰問のやり口でもなく、とても単純に、穏やかに、ファウストはネロのこころを訊ねてくれた。面倒くさい……そうかもしれない。でもそうやって、なぜと考えることも面倒くさいから、もうなにもしてこなかった、ずっと。もうずっと。
「……信じてないわけじゃないよ、あんたらのこと」
「知っているよ」
「…………」
だから、やっぱりなにも言えなくなってしまった。なにか答えなきゃと思ったのに、本当にちゃんと、そう思って口を開いた筈だったのに、ずっと考えてこなかったことだから、自分の中に言うべき答えなんて用意がある筈もなかった。ネロは中途半端に口を閉じて、言葉を閉じて、黙り込んだ。
ついでに瞼も閉じかけたけれど、それは癖で逃げようとしただけであって、ちっとも眠気なんかやって来てはいなかったのに。
「……ふふ」
朗らかな声がして、思わず目を上げる。
笑われるとは思っていなかったのだ。
屈託ない笑顔が、すごく、すごく好きだった。
「僕がいなきゃだめなんだな、ネロは」
ネロは仰天した。文字どおり仰反って、けれどもファウストの素敵な笑顔から一秒たりとも目を離すことなんてできやしない。
どっどっどっと胸のなかと耳のうらとで太鼓みたいに鳴っている。早鐘を打つ、こころ。気が動転して逃げ出したくって、けれどもそんな勿体ないことできる筈もなかった。もっともっと近づきたい。抱きしめて。そんなふうにねだって甘えきってしまいたい。衝動はこいごころを情けなくとかすから、ネロはうんと弱い表情をつくって、ファウストの優しい笑顔を上目遣いに見つめてしまった。
「生まれたての子猫よりも、長生きの落ち着いた猫の方が、馴れるとうんと甘えてくれることがある」
「……そんなつもりじゃねえけどさ……」
「はは、悪い。今のは全然、関係のない話さ」
ファウストは慰めるように、そしてまるでうんと可愛がるかのように、ネロの顔周りをぐるぐるわしゃわしゃと撫でさすってくれる。
――キスをしないのは、きっと、言葉を誤魔化すつもりはないよという合図だった。
「僕は、前提としては一人でも生きられるけど。きみは、そうじゃないんだろ。それで、きみは一緒に生きる人には、危なげなく生きててほしいんだろ。……なら、基本的な生活能力も危機管理能力も持ち合わせてる、僕はうってつけ」
ファウストは撫で回す手をぴたりと止めて、ひったりと、ネロと目を合わせて、茶目っぽく、でも確かに真剣なんだと分からせる絶妙な気軽さで、囁いた。
「……偶には、俺にも面倒見させてほしいんだけど」
「ネロには助けられっぱなしだよ。僕個人の気持ちや体調も気遣ってくれるし、授業もフォローしてくれるし、作ってくれる料理はいつだって小説や音楽みたいに、美味しい。本当に感謝してる。借りを返すのが追いつかなくて困ってしまうくらいだ」
「……借りだなんて……思わなくていいよ。あんたが――ファウストが、ちょっとでも楽に生きてくれるなら、俺はそれでいい……」
「ああ。……だから、一緒にやっていこう。きみは僕を悪からず思ってくれていて、僕もきみのことが好きで、この先ずっと上手くやりたいから、だから、お互いに」
努力をしていこう。ファウストはそう言った。
どうにもならない、自分の弱みを埋め立てるような努力じゃない。
一緒にいたいから、一緒に居続けるために、互いにとって居心地のいい環境を、少しでも保ち続ける努力を。
ネロは目を見開いた。
「僕は、きみの嫌がるような無茶はしない。その代わり、きみにはもっと、自分自身のことも甘やかしてやってほしい。
けれど、それが難しいなら、こうしよう。僕が、万が一にでも僕自身になにかあっては困ると思うような、僕の未練に、きみがなってくれればいい。そして、きみがきみ自身のことを放任してしまう分、余裕のある僕が、うんとネロのことを大切にするよ。もし、きみに手をかけすぎて自分のことが疎かになってしまったら、そのときは、人の面倒を見るのはとても上手なきみが、今度は僕の面倒を見てくれればいいことだし」
目眩。ネロは、見舞われた。なんとも、なんだか、ぐるぐるする話じゃないか。
「……けっこう、……大胆なこと言うよな、あんた……」
壮絶な提案に面食らって、ぼかしにぼかした言葉をなんとか絞り出せば、ファウストはしれっとして、気持ちのいいように嘯いてみせた。
「ただの互助だ、互助。猫だって、自分でやればいいのに、わざわざ二匹がお互いの身体を毛繕いし合ったりするだろ。……気を許してればそういうこともある」
なんでもないような声で付け加えられた一言に、どきっとして、ネロはふたたび、すっかりこいびとの目でファウストを見つめた。ファウストもそれに気付いて、小首を傾げて、ネロに恋をしているんだとまなざしで訴える。ゆっくり、瞬きをする。閉じて、開けたとき、そこにはまだ、ファウストの同じ視線があった。夢じゃない。ファウストも、ネロと同じように確かめるみたいな瞬きをして、それから、ちょっと恥ずかしそうに肩を竦めながら、優しく身体を寄せてきた。
――猫が鼻面をくっつけ合うみたいに、まあるいキス。
擽ったいくらい、無邪気でけなげな感触をふたりで抱き締めたまま、静かにベッドへ倒れ込んだ。
ホイップクリームの海みたいなふとんを、青くてやわらかい月明かりが染めている。指を絡めて手を繋いで、いつものように、一台のベッドをどうにか包み込む弱い結界を、二人で張った。殆ど祈りに過ぎないような、優しい、おやすみの合図。
小さなバスケットの中でなぜかぎゅっと折り重なって、もこもこと二匹でねむりたがる猫のように、一つの大きくないベッドで、ネロとファウストは眠る。
なんとなく、相手の体温が心地いいから。
だからいつまでもこうしていたいから、少しでも長くこの時間を続けられるように、気遣い合って、ほどよく頼り合って、甘やかして、甘えて、上手いこと、どうか、うまいことやっていこう。
一緒に。
猫にとても好かれやすい
