ネロファウ

ネロのまたたび

 なんだか構い倒したい。
 朝からそんな気分だったから、だからファウストを構いにいった。
 勿論、いきなりべたべたなんてしない。最初はそうっと、ただのいつもの気遣いみたいにして触れて、ファウストの調子を見た。放っておいてほしいという感じではなさそうだったから、じゃあ、ともう少し踏み込んで甘えてみる。それでも、少し意外そうに目を見張っただけで、すぐに力を抜いた顔で笑ってくれたから、愈々ネロは許されたと思った。あとはぐずぐずに甘えて、べろべろに甘やかすだけだ。
「……ネロ」
「うん?」
 遠慮がちな声が名前を呼ぶから、ネロはとびきりゆるんだ顔で返事してしまった。
 隣にいるファウストは、困ったような、空気についていけず戸惑うような表情を浮かべていた。はっとして首を傾げるネロに、ファウストは表情そのままの声で告げる。
「こういうことは、人のいないところでやろう?」
 きょとんとして、ネロはぐるっと辺りを見回した。人。いないにはいないけれど。いないけれど、食堂でこういうことするのは嫌なのかな、ファウストは。
 そう理解して、「わかった。じゃあ、俺の部屋に行こう」と答えるや、ネロは吹き渡る春風の速さでファウストの分の食器を片してしまった。食べ残しもないし食べ方も綺麗だから、まったく手間がないのだ。
 きみが魔法を使うなんて珍しいと言われた。はやくあんたといちゃいちゃしたいから、と返したら、なんだか変な顔をされた。怪訝な顔、というか。あれ。ひょっとしてファウストはまったく、そういう気分ではなかったのかしらん。
「……ねえ。部屋に着くまで、このまま行く気?」
 不意にファウストが咎めるような声を上げて、ついっとネロを睨め上げてきた。
「このまま……?」
「手!」
 なんのことか分からないネロを、ファウストは焦れたように叱りつけた。
 手……? と思うが、流石に二度は訊けない。しょぼしょぼと目を瞬くしかないネロに、心底呆れたような息を吐いて、ファウストが自分の右手を揺らした。それに合わせてネロの左手もゆらゆらする。当たり前だ。手を繋いでいるのだから、当たり前だ。
「……食堂で手を繋ぐの、嫌なんだろ?」
「……食堂でというか、人のいる場所で。食堂を出るから、手を繋いだままでいいってわけじゃない」
「……なあんだ……」
 そうだったのか。ネロは残念な気持ちで、自分でもちょっとびっくりするくらいに落ち込んでしまって、静かに指をほどいた。手袋越しだけど、それでも嬉しかった、体温が、はなれていく。淋しくて、仕方がなくなって、代わりに柔らかい髪に鼻先を埋めたくなってしまうけれどそういうことじゃないんだとは流石に分かる。手さえ繋がなきゃ触ってもいい、と言われたわけではないことくらいは、分かる。
「ネロ……」
 一転して、気遣わしげな声が触れたから、ネロはぱちぱちと瞬きをするとなんでもないように口の端を上げて見せた。
「……なにかあった?」
 けれどもファウストがそう続けるのを聞いた瞬間、自分でも分かるくらいに、さっと作り笑いが凍った。
 心配そうに眉を下げていたファウストが、それに気付いて、安心させるように少し笑ってくれる。ネロは却ってその優しさに不安を煽られた。
「なにか、なきゃ……だめ? なにかあれば、一緒にいてくれる? ファウスト……」
「……ネロ?」
 とても困らせる言葉を吐いた。
 分かっているのに、なすりつけてしまった。面倒くさいことを言っていると、途中で気付きながらも止められなかった。ネロは極力、ファウストには自由意志でこちらを甘やかしてほしいんであって、気遣いだとか、義理とか貸し借り的な云々でそうしてほしいんじゃないのに。
 そう思うのに、その面倒な一言を言い終わっても、ネロはフォローの言葉を継がなかった。冗談だよ、と言えないのが、今のネロの本当に面倒くさい部分だったのだ。面倒なところを面倒だなと突っ撥ねずに、心の底から許したうえで抱き締めてほしいと願ってしまっている。
 ほかでもないファウストに。
 ネロの、ファウストへの好意と信頼は、独りよがりにどんどん大きくなってしまった。
「……なんて顔するんだ」
 声がして、それから、くつ、と、吐息が漏れる。
 目を上げたら、ファウストが笑っていた。
 くっくっと、喉の奥で声を秘めて、まるで猫が遠慮がちに喉を鳴らすみたいに。
 ネロがなにも言えずに佇んでいると、ファウストはその屈託のない、柔らかい笑顔のまま、ネロの瞳を見つめた。
「なにかあるなら、話を聞いてやりたいなと思っただけだよ。なにもないなら、よかった。きみが困ったり、傷ついたりしているわけじゃないなら」
 ――なにかある。あるよ。今、できた。好きな人にとてつもない言葉を渡されて、すごく胸がくるしいんだ。心臓がいたい。顔が熱い。喉の奥がぎゅっとして、呼吸もままならなければ言葉も出てこないから、そのどれもを声にしてうったえることがネロにはできなかった。
 適当に場を流すための方便としても吐ける言葉だ。それでも、そうじゃないって、わかる。ファウストが今、言ってくれたことは、そういうものじゃないんだって、どうしようもなくわかる。だから苦しい。苦しいくらいに嬉しい。嬉しすぎてくるしいから、話を聞いてほしい。
 話せるようになるまで、傍にいてほしいよ。
「……それじゃあ、」
 ファウストが言う。のんびりと、甘い声で言う。
 いつもの陰気な声じゃなくて、たぶん、こっちがこの人の本来のトーンなんだろうなと思う、偶に聞こえるあの、少し高い、柔らかい声で。
「――心置きなく、いちゃいちゃしようか」
 そう言って廊下の方へ手招いてくれるから、ネロはすっかり蕩かされたみたいになって、手を繋がなくたって身体に触れなくたって、もっと深いところで手を引いてもらっているような危険な気持ちを覚えながら、ふわふわと、またたびに惹かれるねこみたいに甘い背中についていく。

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