ネロファウ

大人になれよ

「どうしてファウストを愛せるの?」
 端的に訊けば、ネロが固まった。
 シャイロックはカウンターの向こうで聞かない振りをしている。ネロはじわっとフィガロの顔を見上げたかと思うと、またすぐにすうっと目を逸らした。
 どういう意図で訊かれているのかを、必死に窺おうとして、必死に考えている顔だ。東の魔法使いらしい。きみとは一度ちゃんと話してみたかったんだよねとグラスを掲げたけれど、相手は明らかにそうは思っていない、胃の痛そうな表情を隠せていなかった。
「だって、きみはファウストの一番にはなれないんだよ。あの子には、たとえ死んでも、裏切られても忘れられない人がいる。レノだっているし、……棘の残し具合で言ったら、俺も含めていいのかな? それに、今なら東の子供たちもいる。彼らと天秤にかけられたら、きみなんかあっさり捨てられてしまうよ」
「はあ……」
 ネロはぎこちなく口を開いて、漸く、バーに来てから初めて〝はあ〟以外の言葉を発した。
「そりゃ……子どもらより俺を優先しようとするファウストって、それはもうファウストではないというか……」
「だよね」
「はあ……」
「……あれ。きみってほんとにファウストのこと好きなの?」
「はあ?」
 違和感を覚えたフィガロが思わず首を捻ると、目の前にいるネロまで、まるで鏡のように首を傾げた。
 その顔が随分間抜けに見えたので、フィガロはどうやらこちらの抱いている危機感がまったく伝わっていないぞと悟った。
「だってさ……恋人なのに相手の中で一番になれないなんて、おかしくない? 淋しくない? 怒りは湧かない? 失望しない? ……裏切ったのはどっちだよって、胸座掴んで詰め寄りたくならないの?」
 問い詰めても、ネロの反応は、フィガロにとってなんとも煮えきらないものだった。
「え。……なにそれ、どの国の常識だっけ?」
「え?」
 ネロが困ったような顔で問うので、そんな誤魔化し方をされるとは思っていなかったフィガロの方も、一瞬、言葉に詰まってしまった。
「いや……。どこのっていうか、人ってそういうものでしょ?」
「……魔法使いだしなあ……」
「魔法使いでもだよ」
 ネロがますます困惑したように眉を下げるので、フィガロは却って自分を疑い始めた。ひょっとして、長く生きるうちに、世界の価値観の方が変わってしまった?
 いや、自分はどこぞの誰やらのように何百年間も引き籠もったり、人に極力触れないようになんて不器用に店をやっていたりしたわけじゃない。ちゃんと、ずっと人と交わり続けてこの世界を見続けてきたんだもの。間違っている筈がない。世界の価値観は変わったりなどしていない。
「普遍的なものでしょ。
 恋、っていうのは、至上の価値ある概念なんだ。魔法使いは、女にも男にも風にも星にも恋をする――その意味が分かる? 恋ってこの世で最も、心が動くことなんだよ。世界中のほかのなによりも、対象に心を震わせること。森羅万象の中で唯一の存在に、己のすべてを預けること。預けたいとどうしようもなく希求すること。
 ……で、あるならば、きみとファウストの関係って――互いに互いを一番にしておかないような関係って、〝恋人〟とは言えなくない? きみって本当に、ファウストを愛してる? ファウストは本当に、きみを恋人として認めているの?」
 フィガロがそこまで言い募ったことで漸く、ネロも表情を変え――なかった。
「はあ……じゃあ、違うのかもな……?」
「は?」
 気怠げな唇から零れた言葉があまりにもあまりだったから、フィガロの声は一気に二度、温度を下げた。
 なんで怒るんだよ、と、分からず屋がいかにも怯えたように小さく呟く。フィガロが目線で刺すと、萎縮したように肩を竦めた。
「……俺は、……キスとかセックスとかしたいと思ってそれを許し合えるなら、恋人って呼んでいいのかなってなんとなく思ってたんだけど。でもファウストの中の基準は、あんまりそこにはないみたいだし。それに、俺たち二人にはなんの関係もないにしても、一応、あんたの言う……なんだ……常識? ……みたいなものも踏まえるんなら、そうだな、俺たちの関係はひょっとすると、恋人とは言わねえのかも。
 なら、別にわざわざ恋人じゃなくてもいいよ。ファウストとお互い居心地よくいられるってことが、それだけが、俺たちにとって大事なことだから。それが叶ってるなら、呼び方なんて、別になんでも……なにもなくたって、構わないし」
 そのくどくどしい言い訳に、フィガロはふっと、胃の底が熱を持つのを感じた。
 ネロの態度は、ただ面倒くさがる、目の前に供された厳然とした愛を避けたがる、贅沢極まる怠惰にしか見えなかった。
「ネロ。本当にそんな、どうでもいいやっていうような気持ちでファウストを誑かしたの?」
「誑かすってなんだよ……誰かに誑かされるようなやつじゃないだろ。しかも俺なんかに……」
 どこまでも怠そうに言う、本当になにも分かってなんていなさそうな男の態度に、ついにぐらっと胃の底が煮立った。ような、気がした。
 やめておこう、と思う間もなかった。他愛ない子供相手にと迷う気もなかった。こんな、こんな男を相手に彼が心を預けていることが、どうしようもなく。
 どうしようもなく。
「……そんな半端な気持ちで彼の隣に居座っているなら、退いてくれないかな。邪魔だよ。きみがいなければ、ひょっとしたら今頃。だって、俺にはまだ望みがあるのにさ。あの子の心にはまだ棘が残ってる。それもとても深く。俺が四百年も昔に刺した棘がだよ。あの子はやっぱり俺を愛してる。今度はきっと、間違わずにいてくれる筈さ。ねえ、ネロ。きみさえそこを退いてくれればさ、ファウストだってもうこれ以上、ぬるま湯の中で、不器用に中途半端に、過去や現実から目を逸らし続けて傷つかなくたって済むのに、」
「あのさ」
 ネロが口を挟んだ。ひどく疲れたような声だった。
 いつものフィガロだったならば、聞けば白けただろう声色だ。でも今、腸を煮えくり返されている彼にとっては、それは心臓の裏側を逆撫でしてくる不遜極まりない敵でしかなかった。
「あんたがなんの話をしたいのか漸く見えたよ。子どもに対する過保護かと思ったら、そこは自分の場所だから退いてくれって? 弟子の恋人に対してだぞ。冗談にしたって笑えねえよ……。あんたにだって自分の場所があんだろ、見当違いな攻撃すんのはやめてくれ」
 ネロは心底呆れ返ったような声で、けれどもわりにはっきりと、フィガロの目を見据えてそう言った。恨み言や不満だけはしっかり述べる、東の魔法使いらしかった。
 そう思ったら、フィガロの中で不本意にも、あの子の面影が、目の前の不遜な表情と重なってしまう。中途半端に毒気を抜かれて、ぎしぎしする心をさすりながら、それでも弱々しく食い下がった。
「俺の場所って……南の子たちのこと? ファウストも同じことを言った。そうじゃないんだよ」
「いや、こっちこそそうじゃねえよ。……ファウストの中にってこと。あんた一人のための居場所が、あいつの中に、しっかりあんじゃねえか。……わからねえの?」
 最後の一言を、ネロは驚くほど静かに置いた。上目遣いにそっと窺うように、なんだか、熱病に浮かされて朦朧とする患者を、ベッドの傍らで気遣うような声だ。そう思った。
「……ファウストの、中に……フィガロの形に空いてる空間がある。それから、あんたが言うところの〝忘れられない人〟ってのがいる場所も、確かにあって、羊飼いくんのための場所があって、きっと、もっとずっといろんな人のための場所も、同時にあったんだろうな。
 それなのに、今はヒースとシノのための場所まで作ってやってる。そのうえ、俺のための特別な場所まで増やしてくれたんだ。……今までにあいつが作ってきた、いろんな相手のための場所を、一つも捨てずにだよ。ファウストは、その中に優劣をつけたりしない。俺は、そのこと、なんとなく分かったから……だから、安心できたんだ。一番にはならないけど、蔑ろにされることも絶対にない。優しいファウストだから、一緒にいたいと思ったんだ」
 とても静かに語られた、その話は、フィガロには俄かに理解できないものだった。
「一番に、なれないって……端から分かってたのに、恋人になんてなったの。なんのために」
「なにか、目的のためになるもんなのか、恋人って。じゃあますます、俺とあの人は、そうじゃねえのかも」
「本当に好きなの?」
「さっきから思ってたけどさ、それを疑っていいのはファウストだけだろ。なんであんたに説明しなくちゃならないんだ。逆にあんたとファウストの話とかも、俺、聞く義理ないし……」
「……優劣をつけてないっていうのもさ、変だよ。嘘でしょう。だって、子供たちが危険に曝されれば、きみは確実に後回しにされる。もしもきみが危険な目に遭えば、……あの子は、俺よりも……」
「そりゃ、あんたは魔力強いんだから。子どもらと比べりゃ俺はまだ一人でどうにかなるし、そういう場面で後回しになるのは当然だろ。逆に子ども差し置いて俺とかあんたにべったりなファウストって、……どうなんだよ。それってもはやファウストか……? それとも、若い頃は案外そうだったりしたの?」
「……いや。あの子は昔からしっかりしていたよ。戦局を見極めるのも上手かったからね、不利な方を上手に援護してた」
「そっか」
 ネロはどこかほっとしたように……いや……遠目になにかを慈しむように、口の端をゆるめた。
 フィガロには、それがなにか得体の知れないもののように見えた。けれどもなぜだか、嫌な感じは覚えない。不思議な心地で、その、自身にとって未だ得体の知れない表情を黙って眺めていた。
「……分かりやすく身の危険があるときなんかは、そりゃそういう判断になるんだけどさ。でも普段は、ああ俺もちゃんと愛されてんだなあって、こっちが実感できるようにしてくれるから、あの人はほんとに上手いなあと思うよ」
 ネロが甘く笑う。
 実感、ねえ。曰く、子供の肩ばかり持たずネロの機嫌も平等に取ってくれるらしい。曰く、ネロの奉仕を当然と思わず対等に気遣いを返してくれるらしい。なるほど。そんな些細な〝実感〟で事足りてしまうような恋人なら、確かに世話はないだろう。
「……きみは優しいね」
 どう見てもただの博愛なそれを、相手に言われるがまま恋として受け取ってあげるなんて。確かにそれこそ、まごうかたなき真実の愛であるに違いない。たっぷり皮肉を込めて言えば、ネロは正しくニュアンスを受け取って、口角を片側だけ引き上げて見せた。
「そうだなあ……少なくとも、棘を刺してまで相手の気を引きたいとは、あんまり思わねえかな」
「俺だって別に、傷つけたかったわけじゃ――」
「こっちがどういうつもりだったとか、関係ないんだよ。……やっちまったことがすべてで、相手がどう受け取ったかがすべてだ。傷つけたら、傷つけた事実が残るだけ」
 傷は愛にはならないよ、と、ネロは穏やかな顔で言った。
 まるで、誰か幼い子どもを諭すかのように。
 不意に、ふわっと、フィガロは足許が抜けてしまったような気がした。
「……じゃあ……残ってしまった〝事実〟はどうすればいいの。どうしたって消えないの? もし、そうなら……傷つけた人は、一体どうすればいいの」
 一度傷つけてしまったら、もう、元のように信頼してもらうことはできないの?
 問いかけるフィガロの目を、じっと見つめ返して、ネロはふっと微笑んだ。
「……さあ。もし、自分が本当にそれを望んで……そのうえで相手もまた、同じように望んでくれるなんてことがあるんだとしたら。……運次第では、どうにかならないこともない、のかもな。完璧に昔に戻るなんてことは叶わなくても……それでも、ひょっとしたら、もしかしたら、一緒に、先に進めるときが来るのかもしれない。……まあ、きっと本当に全部、運次第なんだろうけどな」
 そう答えるネロが、あまりにも優しい、どこか遠い日々を愛おしむ表情をしているので、フィガロはすんっと別の意味で鼻白んでしまった。
「きみはさあ……。あの子に今のその顔、見せられるわけ?」
「は?」
 せっかくいくらか見直しかけていたところだったのに、やっぱり彼はあの子を愛しきっていやしないんじゃないか。呆れを隠さない声で詰ると、ネロは不満そうに瞬いた。
 東の魔法使いの顔だ。
「いや、裏切られて人生狂わされた人の前で、裏切った側はどんな気持ちだったんだとか語れるわけねえだろ。ましてやそいつ本人でもねえのにさ……。無神経が過ぎるって。あの人はどんな顔して俺の愚痴聞いてりゃいいんだよ」
 そういうことじゃない。フィガロが言いたいのはそういうことじゃない。
「そうじゃなくて。恋人の前でほかのやつを恋しがるような顔をして、あの子が悲しむかもとか考えないの?」
「あいつの中で俺は一番にならねえって、言ったのはあんただろ」
 眉を顰めるフィガロの前で、ネロはなぜか、愉快そうに笑った。
「ファウストの中で一番じゃない俺が、俺の中でファウストを一番にしてなくたって、別にいいだろ。ファウストは悲しまないよ。……それが分かるから、あの人といるのが、こんなに楽なんだ」
 楽。楽、ってなんだ。確かに、ファウストと生きたあの日々は、ファウストがフィガロだけを見ていてくれたあの一刹那の日々では、フィガロはそれまでの人生で受けたすべての苦しみから解放されていた。けれどもあの安寧は、あのとき思い描いた輝かしい未来は、見果てぬ夢と朽ちてしまったのだ。自分が人生を懸けて渇望したあの安らぎを、目の前でただ気怠げにしている若造があまりにも単純で魯鈍な言葉に押し込めて無雑作に扱っていることが、ひどく、醜く、許せなく、
「……あんた、……生きるのしんどそうだね」
 物言わぬフィガロの瞳孔から一体なにを読み取ったのか。
 ネロが不意に、小さく零した。嘲るようでも、皮肉るようでもない。あの真面目な子が、優しいと度々評するのが、よく分かる。分かってしまう。
 そういう幽かな声だった。
「いや……あんたのことは、分からないけどさ。けど俺だったら、そんな生き方……自分の一番は誰で、その誰かの一番も自分で、って決めるような生き方は……もう、しんどいよ。……本当に、しんどい」
 ネロの視線はグラスの中へ落とされていた。彼の瞳からそのまま溶け出したような色のウイスキーが、氷を浸すように残り少なに揺れている。
 フィガロは喉を震わせた。
「……だから、一番じゃないどうしでいられるファウストの隣が、きみにとって都合がいいってこと?」
「そう言うと語弊があるだろ。そりゃ、……きっかけの一つはそれだったさ。ファウストとは距離があるから、だから、一緒にいても楽だったから。
 けど、それはあくまできっかけだよ。今、俺はファウストのことすごく好きなんだ。ファウストとなら一緒にいられるって思ってたけど、今は、ファウストとこれからも一緒にいるためにはどうしたらいいのかってことを、ずっと考えてる。こればっかりは、俺だって本気なんだ。誰にそこを退けと言われたって、譲るもんか。ここは俺の居場所だ。ファウストが、俺だけのために作ってくれた、俺の場所だ」

 フィガロが息を呑んで、なにも言えなくなったとき、それまで気配を消していたシャイロックが不意に声を上げた。
「おや……いらっしゃいませ」
 珍しいですね、という彼の声を受けてバーの入り口を振り返ると、そこには。
「――フィガロ。ネロに一体なにしてる?」
 サングラスの奥からじっとりと師匠を睨む、渦中の人が立っていた。
 開口一番、迷いのない疑いを向けられたフィガロに、ネロが遠慮の欠片もなく噴き出した。
「あっはっはっは!」
「ひどいなあ、ファウスト……。俺たちはただ、楽しくお喋りしてただけだよ。きみこそ、自分からバーに来るなんて珍しいじゃないか」
「飲みに来たわけじゃない。ネロに用があって探していた。……それで、ムルから、フィガロがネロを連れ去っていったと聞いたから……」
 ネロが大笑いしながら、フィガロの小さくなった背中をばしばしと叩いてきた。彼はこういう距離感が多少ブラッドリーと似てる。
 ファウストがなにか、心細そうな……いや、違う、ものすごい心配の所為で既に胸が張り裂けていそうな表情で、ネロを見た。
「ネロ、こっちへ来なさい。……僕が迎えに来たから、もう大丈夫」
「ぶっ、ははっ……。……はあい、ファウスト先生」
 まるで本当に危険人物扱いされて肩を落とすフィガロの横で、こちらはうきうきと呑気そうな声を上げながら、ネロが席を立った。
「おや、もうお帰りですか。ファウストも飲んでいらしたらいいのに」
「……僕を地獄に引き摺り込もうとするな……」
 この場の空気に対する散々な言われように、ネロはまたひとしきり笑ってから、フィガロの方を振り返った。
「んじゃ、もう行くよ。……答えたくもないことあれだけ言わされたんだから、奢ってくれた分、この場でチャラってことでいいんだよな?」
 ネロがおどけた素振りでにっこりと笑むから、「勿論。貸し借りはなしさ」とフィガロも笑顔で答えた。
「……ネロ。嫌なこと訊かれたのか……?」
「そんなことないよ。俺がファウストのことどれだけ大好きなのか聞きたいって言われたから、遠慮なく惚気させてもらってた。羽目外しすぎたかな」
「は?」
 面食らって大きく目を見開くファウストを横目に見ながら、フィガロは大袈裟に肩を竦めて溜息を吐いた。
「ほんと、胸焼けしちゃったよ。シャイロック、なにか胃に優しいお酒ちょうだい」
「仕方のない人ですね。……どうぞ」
「わあ、ブルームーンだね! ありがとう、この場で俺に優しいのはシャイロックだけだなあ!」
 にこにこするシャイロックと対照的に――いや、根底ではまったく同じ感情を共有しているかのように、ファウストがあからさまに呆れた溜息を吐いた。
「……サティルクナート・ムルクリード」
「……あれっ!? 俺のお酒!」
 その場を一歩も動かずに、ファウストはフィガロが飲み止したすみれ色のグラスを奪い取ってしまっていた。
「これ以上シャイロックに面倒をかけさせるな。まったく、いい歳をして……」
「ふふ、構いませんよ。困ったお客様には慣れていますから」
 シャイロックの朗らかな笑顔は見ない振りをして、フィガロは、ファウストがグラスの中身をこくこくと空けていく様を眺めた。
 恋人である男の指を恋人らしく握ったまま、白皙の美人は、ほかの男が口を付けたグラスを呷っている。そうか。そういうの、きみらの中ではありなんだね。俺的には絶対になしなんだけどなあ。
 俺と間接キス許すくらいなら、その手を今すぐ離してよって思っちゃう。もやもや考えているうちにファウストは失意のカクテルを飲み干して、カウンターに空のグラスをことりと置いた。
「ごちそうさま」
「どういたしまして。またいらしてくださいね。ネロも」
「ありがとな」
 視線を向けられたネロも、にかっと笑った口許に指先を添えて、こてんと小首を傾げて見せた。
 人付き合いが不得手なくせに愛嬌を撒くのは上手いから、だから気分をよくしたシャイロックも、いつもよりどこか柔らかい笑顔で見送ってやっているのに違いない。
「あんたも。ごちそーさん、フィガロ先生」
「やれやれ……きみに先生と呼ばれる筋合いはないよ。ほら、ほんものの先生が、きみの隣でやきもち焼いてる」
「……今夜こそおまえを呪ってやるからな、フィガロ」
 できるわけもない捨て台詞、もとい照れ隠しを吐いて、ファウストは愈々バーから出て行った。
 その背中を追う、ネロの瞳は、もう完全に恋人を見つめる男のそれで、はあ。これに胸を掻きむしられない日というのが、本当にいつか来るのかなあ。

「さて……。次は、ホットミルクでもお注ぎしましょうか」
「……子どもじゃないよ」
「ふふ。今宵のあなたには、いちばん寄り添ってくれる飲み物のように思えますけれど」
 咄嗟に上手く笑えなかった、愛嬌なんてない筈の今のフィガロにも、なぜかシャイロックは、あの柔らかい笑顔を向けた。
 まったく寄って集って、これだけ生きてる男に、そんな子ども扱い、ないよ。
 そう思う。
 温かなミルクの香りに誘われて、フィガロの中で膝を抱えていた小さな誰かが、それでも、確かに、顔を上げた。

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