「クロエも、ルチルも……レノックスも行くのかあ……」
ヒースと仲のいい魔法使いの名前を出せば、思ったとおり、彼はちょっと前向きに悩む様子を見せた。
「行きたいか、ヒース」
「う、うーん……。えっと、賢者様。それってもう、ファウスト先生とネロには、出欠を取ってありますか……?」
ヒースの言葉に、シノも興味ありげなまなざしをこちらへ向けた。
「あ、はい。二人とも、ボルダ島のバカンス旅行には行かないそうですよ。かといって、なにかほかに予定があるわけでもなさそうだったので、普段どおり魔法舎で過ごすつもりなんじゃないかな」
素直にそう伝えれば、ヒースはどこか安心したように肩から力を抜いた。なんだろう。やっぱり、人混みだと思うと身構えてしまうのだろうか。ワルプルギスの夜には一人でお祭りに参加していたけれど、年にそう何度も踏み出すとなると、ヒースのような繊細な人には、体力や気力がもたないのかもしれなかった。
そういう気持ちは少し分かるし、固より無理強いするつもりなのでもない。ヒースの好きに決めてくださいと微笑めば、彼は控えめな苦笑を返してくれた。
「そう、ですね……。二人が魔法舎に残るなら……俺も、今回は遠慮しておこうかな。シノはどうするの?」
「オレも行かない」
シノの返事は、意外にきっぱり、あっさりとしていた。
「骨董品を見るのはあまり興味がない。ネロやヒースが一々解説するのを聞きながらなら、まだ見られたかもしれないが」
二人の返事を、手許の出欠チェックリストに書き込む。東の魔法使いは全員、欠席。さもありなんという感じもするが、少し残念な気もする。無理を言ってまで連れ出したい気持ちは本当にないけれど、でも確かにシノの言うとおり、ネロやヒースの解説を聞きながらバザールを冷やかしてみるのは面白そうだと思った。
ネロはあらゆる時代、地域の美術品に詳しいし、ヒースは彼に語れるジャンルならかぎりなく語り尽くしてくれる。クロエ曰く、バザールに並ぶ商品の殆どは素朴な中古品とのことなので、彼らの達弁が発揮される場面は、実際には限られてしまうのかもしれないけれど。
それでも、いつかあるといい光景に、ぼんやりと想像を巡らせる。そのうち、ヒースがシノに言い返す呆れたような声が聞こえて、我に返った。
「解説って……したって、おまえ碌に聞かないじゃないか」
「内容が頭に入らないだけだ。おまえらが喋るのを聞くのは好きだから、聞きながら歩きたい」
「聞き流す前提で喋らせようとするなよ……」
始まったいつものやりとりに、思わず口の端がゆるむ。今はファウストもネロもこの場にいないから、あまり変な方向にヒートアップしないといいけれど。
そんな杞憂を軽々吹き飛ばすように、シノが不意に、弾んだ声を上げた。
「……ここに残るなら、ファウスト、授業をするかな」
静かな言葉には、しかし溢れんばかりの期待が満ちていた。聞いている方が思わず破顔してしまう、健気な声だ。褒めてほしいとよくねだりに行くという彼の表情を、保護者二人はひょっとしたら、こんな気持ちで受け止めているのかもしれないなと思った。
「旅行組だけバカンスを頂くのも不公平なので、欠席のみなさんにも、この期間にはお休みを取っていただくようにするつもりです。勿論、不急の依頼を受けないというだけなので、身体を壊さない程度に、それぞれ自由に過ごしていただいて構わないのですが……」
笑顔でそう伝えれば、シノは俄かに意気込んだ。
「やった。じゃあ、休暇中も普段どおり授業してくれるよう、頼んでみる」
「えっ」
ヒースが戸惑った声を上げた。思わずそちらに目が向く。振り返ったシノにも同じように見つめられて、彼はまごまごと視線を落とした。
「でも……ご迷惑かもしれないよ。先生、お疲れなのかもしれないし。休暇中くらい、休んでいただいた方が……」
「ヒースは受けたくないのか。ファウストの授業」
じっ、と見つめる大きな瞳に気圧されてか、ヒースが怯んだように顔を上げた。
「……う、……受けたい」
「じゃあ、頼むだけ頼んでみよう。都合が悪ければあっちから断るだろうし、もしファウストが無理をしそうならネロが止める。オレたちは我儘言うだけ言ってみればいい。ただ、言わなきゃ伝わらない。だから取り敢えず、伝えよう」
シノのあまりにも堂々とした言い分に、思わず、ヒースと一緒になってぽかんと聞き入ってしまった。それでも、気の優しい貴公子は、怖ず怖ずと言い返す言葉を探している。
「……おまえ、は、……ネロのこと一体なんだと思ってるんだよ……」
「ストッパー。この場合はな。別に悪い意味じゃないだろ」
「そ、……。……けど、……うん。そう、だね。お願い、するだけしてみよう。俺も、ファウスト先生の授業を受けられるなら、すごく嬉しいし。それに先生と、ネロと、シノと一緒に過ごせるなら、きっと西の島のビーチにも負けないくらい、うんと素敵な休暇になるよ」
「ふふん」
そうだろ、とシノが得意げに鼻先を上げて見せた。
彼に発破をかけられたヒースは、今や、勇気づいた強いまなざしと、純朴な期待に胸躍らせるあどけない笑みとが同居した、とても素敵な顔つきになっていた。
こんな彼の表情を見ていると、いつでも本当に胸がぎゅっとなって、それなのに余計な力がすっと抜けていくような、不思議な感じになる。守ってあげたいと思うのに、その裏側では、この人がいてくれるならすべてきっと大丈夫だとも思えるような、肋骨の内側からぐぐぐっと、彼が持っているのと同じだけの勇気が、まるで自分自身にも湧いてくるような、そういう不思議な心強さを覚えるのだ。
シノが、誇らしげな目で幼馴染の顔つきを確かめた。ふう、と腰に片手を当てて顎を引いて、こちらはいつもの、挑戦的なまなざしで宣言する。
「決まりだな。じゃあ、オレたちはファウストを探してくる。賢者はネロへの根回しを頼んだ。ファウストが断れないよう、外堀から埋めてやる」
「――えっ!? ちょ、ちょっと、話が違うよねシノ!? シノ! おい、待てってば……!!」
ぱたぱたと賑やかに廊下を走り去っていく二人の、背中の残像を、暫く眺めていた。
ほうっと息を吐く。根回し、か……。シノとヒースの気遣いと期待とを、半分ずつくらいの配分にして、あらかじめ伝えておくのはいいかもしれないな。ほっこりした気分でゆるく考えながら、歩き出そうとしたとき、ふと、背中側に気配を感じた。
なんの気なしに振り返って、そして思わず目を見開く。つい今し方まで渦中にいた、その人がそこに立っていた。
「あれっ、ファウスト! ちょうど今、シノとヒースが探しに――」
「……きみたちは、図書室の前でわいわいとうるさいんだよ」
「あっ」
慌てて彼の後ろを見遣る。すぐそこに、確かに、開いたままの図書室の扉があった。そうだ。所用で廊下を歩いていたら偶々シノとヒースを見かけたから、これ幸いと、まだ聞けていなかった彼らの出欠をその場で確かめていたのだ。ここがどこであるとか、完全に気が回っていなかった。
「す、すみません……。ひょっとしなくても、読書のお邪魔を……」
「……別に、僕らしかいなかったからいいけどね」
「……僕ら?」
自分が生んでしまった騒音被害者は、ファウストだけではなかったと言うのか。怖々、彼の背後を覗き込もうとすると、押し殺した笑い声のような吐息と共に、青い銀髪がふらりと現れた。
「……ネロでしたか!」
「よ、賢者さん。今日も元気そうでなにより」
「す、すみませんでした本当に……」
無意識に普段よりも低くなる頭の上から、甘やかすように気さくな笑い声が降ってくる。
「いーや、俺は全然いいんだけど。先生の方は、大変だったよな? 相当〝邪魔〟されててさ」
ネロが揶揄い混じりの声で、隣に立つファウストへ水を向ける。
反射的に、ひぇ、と息を呑んだ。ファウストは優しい人だけれど、怒らせてはいけない人でもあるのだ。気を損ねたのなら、しかも自分のマナーが至らなかった所為で損ねたのなら、今すぐ平身低頭謝り伏さねばならない。できることなら猫を添えて。
そう思って身を竦めたのに、ファウストの方から漂ってくる雰囲気が、なんとなく、違った。なんというか、怒っているにしては違和感がある。ネロの軽口を聞いてからそう判断するまでは一瞬のことで、はっと顔を上げると、ファウストの矛先はやはり、こちらではなく明らかにネロへと向いていた。
「うるさい」
「あっはっは! 先生、相変わらず顔真っ赤だよ」
「黙れってば!!」
そこで漸く気が付いた。帽子の影になって咄嗟に分からなかったけれど、ファウストの顔は、普段よりも明らかに鮮やかに色づいていたのだ。
そのことを、知ってしまったらもうだめだった。どうしても堪えきれずに、によによと口許がゆるんでいく。ごめんなさい、すみません。自分がこんな表情をしていることを見咎められたら今度こそきっと怒られると思うけど、どうしても、どうしても、このほっこりした気持ちに蓋をすることなんてできやしなかった。
やたらと語彙の少ない憎まれ口を叩きながら、ファウストが、ネロの腹へ甘すぎる肘鉄を食らわせている。
ファウストの肘は見事極まったようだ――ネロの笑いのツボに。ネロは気の置けない友達の肩や背中をばしばし無遠慮に叩いて、ますますファウストを怒らせていきながら、息が止まるんじゃないかと見ているこっちが心配になるくらいに、目尻に涙さえ浮かべて笑い転げていた。
きっと、そんなに笑いすぎる所為だろう。ネロの白いほっぺたは、慕われすぎて照れまくった彼の先生とすっかり同じ色にまで、染まり上がっていた。
せんせ
