東の保護者

ありふれたハッピーバースデーを

「ネロ、誕生日おめでとう」
 夜になってファウストが渡してきたのは、ちょっと上等な酒の瓶だった。
 今日は朝から、東の子どもらやお子ちゃまたちに付き合ってそこそこ目紛しい時間を過ごしたが、ファウストが声をかけてくれた途端、むず痒いような気持ちが落ち着いて、ほっと息を吐く。
 付き合って、なんて礼知らずだ。本当は、彼らが自分の誕生日を全力でお祝いしてくれたのに、自分が勝手についていけなくて戸惑いっぱなしだっただけ。それでも、純真な彼らの笑顔を見るにつけ後ろめたいような気持ちがついて回ったのは確かで、後ろめたさを感じてしまうこと自体が後ろめたくなり、日が落ちた夜闇の中でさらにその思いは増し、……となる半歩手前の辺りで、静かな声に掬われたのだった。
「……ありがと。すごいな。こんないいもん、俺にくれちまっていいの」
「日頃のお礼も兼ねているから、寧ろ足りないくらいだな。誰と飲むかも、きみに任せるよ」
 ずるいなあ、と反射で思う。この対人行為に際して時に舌を巻くほど丁寧なやつが、プレゼントだと言うものにリボンさえ掛けずに持ってくるだなんて、端から、そういう意味であるに違いないのに。
「一緒に飲んでくれるんじゃないの?」
「きみが僕でもいいと言うならね。ほかでもないこの一日の終わりを、一緒に過ごす相手が」
「ははあ。やっぱ、あんたって案外ロマンチストなんだよな」
「なにが⁇」
 茶化すならこの場で半分返してもらうけど、と吊り上がったまなざしが酒瓶へ向けられる。ネロは笑いながら、瓶を庇うように抱え直した。
「この場ではやだよ。今からつまみを用意するから、せっかくなら、ちゃんと飲もうぜ」
「……僕でいいのか」
「ファウストがいいな」
 真面目な顔に戻って問う彼へ、ネロはもう変な沈黙を挟まずに勢いのまま全肯定の答えを返した。ファウストはふうっと目を見開いて、それから、静かに視線を伏せた。
「……また調理をさせてしまう……きみの誕生日なのに。すまない、そこまで気が回らなかった」
「いいよ、そんなの。好きで作るんだし。ただ、俺に作らせるからにはしっかり食べて、いつもみたいに感想くれよな」
「……ああ。分かった。じゃあ、お言葉に甘えて」
「おう。甘えときな」
 頬を掻きながら控えめに微笑む顔を見ると、ネロは、自分の顔も恥ずかしい感じにゆるんでくるのが分かる。ありがたいことだなあ、と思う。得難いことだとも。
 場所はいつもの、秘密の晩酌スポットにした。
 今日貰ったものはどれも、部屋の中に閉じ込めておくには大きすぎて、がやがやしていて、きらめきすぎている気がした。夜風に当たって深呼吸をしながら、濃紺の空色でゆっくり薄めてしまいたい。

「悪い、ファウスト……!」
 随分待たせてしまった。漸く盛りつけたつまみを引っ提げて慌ただしく到着すると、酒瓶と共に先に待っていたファウストが、腰を上げて迎えてくれた。
「いいや、僕は大丈夫だけど……」
 なにかあったの、と遠慮がちに訊ねてくる。こういう態度に、いつだって胸がぎゅっとなる。
「あ、いや……。部屋で料理してたら、ブラッド……ブラッドリーやらシノやらが来て、夜食ねだられちまって」
「こんな日にまで? ……まあ、僕が言えたことではないか」
「あんたは全然違うだろ。……それに、あいつらもなあ……どうしても俺の飯が食いたいんだなんて言われたら、無下にもできなくてさ……。ごめん、あんたが先約だったのに」
「それこそ、構わないよ。僕はただここで待っていただけだ。なにか手伝えればよかったな……すまなかった」
「そんなこと……。けど、ありがとな。気持ちだけで充分だよ」
 持ってきたつまみを広げると、すごい、と柔らかく眉が下がって、睫毛がゆっくり瞬いた。月のひかりが真砂の細かさになって、ファウストの睫毛から滑り落ちる。ゆるんだ唇からちらっと覗く白い歯が、密やかな心の一端をほどいて見せる。
 胸が、ぎゅっとする。
「乾杯」
 グラスの端を優しく合わせる。ファウストと自分との間で鳴る音が、今までずっとこんなふうに、澄んで、静かな音であること。
 ありがたいと思った。得難いことだと。
「ファウスト」
 一口、グラスを傾けたファウストが、ネロを見た。
 そのまなざしに、警戒や不審は一つもない。けれどこんなに近づいても、べっとりと甘えきるようなことは、彼はしないでいてくれた。多少買い被っているんじゃないかという頼り方をされることはままあるけれど、ネロにはネロの意思があって、それをネロ自身が働かせてファウストの力になりたいと思ったとき、ファウストはそれを当然のことだと思わずに、いつも〝ありがとう〟を返してくれた。今、代わり映えもしない肴を抓んで「美味しい」と頬をゆるませてくれたみたいに。
 それでも、他人行儀なわけじゃない。ファウストは、ネロに踏み込ませてくれるし、ネロを許そうとしてくれる。ネロにも、ファウストにだから曝したいと思わせてくれるし、ファウストになら許したいと思わせてくれる。
 そのやりとりの基礎に、ファウストはいつも気遣いを敷いていた。初めは必ず数歩引いた距離から、そしてどこまで行ったとしても見えない一線を決して踏み越えないように、常に細かくこちらの意思を確認してくれた。そのうえで、ネロがずっとそうしたかったように、自分自身のままで許されながら、誰かの隣にいさせてくれた。
 その誰かは、ファウストだった。
 ファウストだったのだ。
「俺さ、あんたと出会えて、よかったよ」
 紫色のひかりが、ぱちりと瞬く。
 それは少しだけ驚いたみたいな反応だった。けれどそれでも、ファウストは黙ったまま、ある意味当たり前みたいな表情を繕って、ネロの話すことを聞いてくれていた。
 ああ本当にあんたのことが好きなんだよと、思った。
「もう、楽しいことも嬉しいことも、必要としてないみたいな振りは、できるようになってたんだよ。楽しいと思うことも幸せだと思えるようなことも、出会ったかもと思えば一瞬で通り過ぎてく……俺には上手くそれを持ち続けられないし、だからどれだけあっても、結局足りやしないんだ。どのみち苦しいままだから、じゃあせめて、もうひどく傷つかずに済むように、誰のこともひどく傷つけないように、明日も明後日も十年後も百年後も……ただこうやって、やり過ごしていけばいいんだって」
 そう決めていた。名前のない相手と名前のないままほんの少しだけ関わって、常に料理を挟んだやりとりをして、息を潜めるように毎日を送る。笑い転げるくらいに楽しくはないし、ずっとこうしていたいと願えるような幸せじゃなかった。それでも、これでいい、こうするしかない、そう思えばこそ、その代わり映えのしない日々を、細い喘ぎを殺すように繋いできたのに。
「――今日と変わらないような一日が、明日も当たり前に来るんだろうなってことが……楽しみだって、ちゃんと楽しみだって、思えるようになるなんてさ。想像もしなかったんだよ、俺」
 魔法使いの寿命は、長すぎる。ずっとずっとそう思っていた。自分なんかは生きていたって、もうどうにもなりやしないんだとも。かといって、いつまで経とうが、自分自身で自分自身を終わらせるなんてこともできはしなかった。煮えきらなくて、意気地もなかった。捨てることも懸けることも割りきることもできない、すべてが中途半端なネロは。
「けど、そんな俺を――俺は――そんな俺でも、言うほどまるっきり悪くはなかったんじゃねえかって、最近さ、生まれて初めて、俺自身のこと、ちょっとだけ許してやりたくなってるんだよ。
 だって、ここまで生きてこなきゃ、俺は、ここにいなかった。だらだら生きて、ふらふら歩いて、そうやってここまで来たから、ファウストに会えた。俺は俺のこと本当に嫌いだ、今でも大っ嫌いだ、けど、こんな俺じゃなかったら、……今の、あんたと、……こんなふうには……」
「……ネロ……」
 ぎゅっと。
 胸を掴むのとよく似た強さで、不意に、指先が握られた。ネロは利き手が拘束されてしまったために、反対側の手のひらで、自分の目許をぐしぐし拭っていた。
「こんなふうに泣いてもらえるほど、僕は友達甲斐のあるやつじゃないよ」
「甲斐があるかどうかは、俺の基準だろ。……ていうか……甲斐なんかなくていい……なくていいのに、すごくある、し……」
「それを言うなら、きみの方こそだろ。ネロはただでさえ甲斐甲斐しいのに……つくづく、僕には勿体ない相手だな」
 ファウストは小さく息を吐いて、少し、迷うように視線を彷徨わせた。息を詰めて見守るネロの前で、やがて、ふっと吹き出す。それは自嘲にも、揶揄いにも聞こえる笑みだった。
「……けど、僕みたいなのとしっくりきてしまうようなきみだからこそ、僕の好きなきみなんだろうな」
 ぎゅっと、した。指を握られているのと同じ温度で、胸が締めつけられる。ファウストの表情は、はにかんだ声に輪をかけて、どこまでも穏やかだった。
 これは、一体なんというんだろう。遠いどこかで覚えのある感覚な気もするし、今、初めて知った感情のような気もする。この気持ちをなんと呼ぶにしろ、受けた衝撃はいわゆる奇跡と遜色ない。目の奥がちかちか痛んで、ファウストを見つめていたいのに、少し、苦しかった。
「俺も、……そう思ってるよ。ファウストは、本当なら俺なんか隣にいられないほどすごいやつだし、逆に、俺なんかから見ても本当にしょうもない、碌でもないところもあったりするんだけどさ、」
「おい」
「けど、そんななのに、ほかの誰でもなく俺の隣を、居心地いいと思っちまうようなところ……そんな部分もあるのが、今のあんたで。俺が今、好きでいるのは、まごうことなく、そういうあんたなんだよなあって」
 ファウストは、今度はなにも言わなかった。ただ、納得したように細かく何度か頷いていた。静かな動きで、グラスに口を付ける――横顔として目の前に晒されるその頬の色が、夜目に判然としないのが、ひどく惜しく思えた。
「……俺はさ。大昔の……たぶん俺の人生で唯一、あのときはよかったなって思い返せる時期、が……それを俺が、もしもあのまま壊さずに済んでたらって。……そんなばかな夢を、今でもまったく見ないって言ったら、嘘になるんだけど。
 でもそんな夢なんか叶わなかった先にある現実の今が、まさか、こんなに楽しいなんてさ、夢の中にいた俺は思いつきもしなかったんだ。
 夢は破れたりしなきゃ、それに越したことはなかった。破れた先、ここじゃない別の道を歩いてたとしても、ひょっとしたらそれなりの人生があったのかもしれない。
 だけど、今の俺にあるのは、この生活で。今、俺が一緒にいて楽しいって、こんなに強く思ってるのは、ほかの誰でもないファウストで。俺はさ、俺は、今、ここであんたとこんなふうに一緒にいられることが、ほんとに、本当に、……嬉しいんだよ。たぶん、たぶんさ、幸せなんだ、今、俺」
 紫色のひかりと、目が合っていた。
 こんなこと、誰かに語る日が来るなんて、過去のどの自分が思っただろう。思いもよらなかったことだから、纏まっていないし、慣れていないことだから、声が震えてしまう。それでも、こんな拙い言葉を、茶化すでもなく、躱すこともなく、誠実なまなざしで聴いてくれる人がいる。ここに、いる。今ここにいるファウストにだから、ネロは、口を開きたかったんだ。
「……どうしてだろうね」
「……え……?」
「どうして、きみの誕生日なのに、僕ばかり貰ってしまっているんだろう」
 きみにお返しをする日の筈なのに、とファウストが呟いた。なんだか少し、唇を尖らせているような、声だ。
 言われた意味が咄嗟に呑み込めず、おろおろと口を噤んでしまう。ファウストはそんなネロをちらっと見て、それから視線を外そうとして……思い直したように、もう一度丁寧に、そっと正面から目を合わせてくれた。
「ネロ。僕は、今日という日に、きみにちゃんとお礼を言いたかったんだよ。
 ……こちらこそ。出会えて、よかった。きみが生まれてくれて、生きてくれて、……今日まできみでいてくれて、よかった。きみの人生と交わることのできた、僕は幸運だ」
 ――友達なんて、できないと分かっていた。誰とも一緒にいられないんだと知っていた。その筈だった。そのつもりで息をしてきた。
 こんなに深く、胸の痛まない空気を吸い込めること。夜の呼吸が、こんなに穏やかにもなりうること。ファウストの隣にいるようになって、ネロは漸く、つらくない息継ぎの仕方があることを知った。
「あんな失意や、怒りや、悔恨や……味わいたくもなかったいくつかの過去は、決して覆りはしないけれど。それでも、……きみの言うように、そんな終わりの後にこそ、今日みたいな安らぎがあるのなら……最悪な夢の寝覚めに、早々に死んでしまえなかったことも、まるっきり悪くはない運命だったのかもしれないなって、今は、思うよ」
 ネロは途中から、耳だけでファウストの言葉を聴いていた。頬の色どころか表情の形さえも碌に見ることが叶わないくらいに、目の前の全部がぼやけていた。
 胸がぎゅっとなる。繋いだ指先が温かい。こういった感覚が、けしてネロだけのものではないんだということ。そう迷いなく信じられること。それが、どんなに。ネロにとってどんなに。
「僕と一緒にいてくれて、ありがとう、ネロ。きみの傍で過ごせる時間が、今の僕にとっての、確かな安らぎで、楽しみで、……幸せなんだ。できることならこれから先も、こんなふうにきみの誕生日を祝わせてもらえたなら、嬉しいと思うのだけれど……一先ず、今年の分だけは、伝え残すことのないように言わせてくれ。
 ――誕生日、おめでとう。出会えたのが、ほかの誰でもない今のきみで、よかった。ネロ、僕は、きみのことが本当に、本当に、……ほんとうに、本当に、大好きだよ」

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