ネロファウ

失恋

「や……めて」
 ネロはそう言った。

『きみ自身のことを、好きになってしまってもいい?』
 そう訊いたのだ。拒否されるだろうという予測と、受け容れられるかもしれないという期待と、半々にファウストは持ち併せていた。
 きみのくれる優しい空気がだいすき。一緒にいる空間はとても居心地がいい。きみがくれるもののことを、僕はずっと好きだった。
 けれど。
『きみと一緒にいるうちに、きみの顔を何度となく見ているうちに、きみ自身の方へ、意識が向くようになってしまった。根掘り葉掘りいろんなことを聞き出そうとは思わないけれど、きみという人そのものについて、興味が湧いてきてしまった』
 ファウストがそう伝えているときの、ネロの表情は分からなかった。まるでどんな感情も乗っていない彼の顔というものを、初めて見た。
 グラスを持った手は空中で止まっていて、ファウストは自分の声が、止まってしまった時の狭間で誰にも届かず漂っているような気がした。ここで濁しても、却って気にさせてしまうだろう。いっそ最後まで伝えきって、はいかいいえか、可なのか不可なのか、はっきり答えさせておいてやりたいと思った。
『きみといる場が、好きだった。きみとなら了解し合える、ちょうどよさだけがあればよかった。だけどもう、そういう、欲しいものを作っておいてくれる〝誰か〟ではなくって。
 ――ネロ。僕は今、きみ自身と、もっとしっかり付き合ってみたいと思ってるんだ』
 きみ自身のことを、好きになってしまいたい。
 僕のこの気持ちを、きみは、許してくれるだろうか。
「!」
「……っ……」
 刹那、息を呑むことも忘れてファウストは固まった。
 不意に目の前のネロが両腕を振り上げたからだ。でも、彼の拳が自分の方へ向けられるかもと、一瞬でも思ったわけじゃなかった。ただ純粋な驚きに出会って逃げることを忘れる猫のように、ファウストは反射的に目を見開いていた。
「……」
 ――ごしゃん!
 奇妙なほど遅れて、ロックグラスが床へぶつかる音が上がる。しぶきが跳ねて足を濡らす。ガラスの破片なのか欠けた氷なのか分からない冷たさが肌に張りついて、ファウストは無意識に、手のひらへ爪を立てていた。
 ――壊れるような細い息を吐いて、ネロが、両腕で顔を覆っていた。
「……っ、……」
「……ネ、ネロ……?」
「い、……っや、だ、」
 〝やめて〟。
 ネロはそう言った。
 拒否されるか、受け容れられるか。半々だとファウストは思っていた。つまりは分かっていた。覚悟をしていた、筈だった。
 それなのに、どうしてだ?
「……ぁ、……」
「俺のことは、……見ないで。好きになんかならないでよ。そんなふうに期待されても、あんたの望むような俺にはなれないし、俺は元々、あんたが言うようないいやつじゃないんだ。
 それは俺が自分でいちばんよく分かってる。だから雰囲気で気持ちよくさせて、料理だけで奉仕して、俺自身にはなんにもないよって冷めた態度を取ってたのに。なんで、なんでほかでもないあんたが、そんなこと言うんだよ。勝手に期待されて、好きになりたいとか言われても、困る、それはあんただってずっと言ってきたことだったんじゃないのかよ、なんで、……どうしてだ。俺だってファウストといる場が、大好きだったのに……俺には、なんにもない。そのこと、ばれて、あんなに居心地よかった場所も、また、だめになっちまうのか……?」
 心臓がどくどく軋んで、頭の中が自己嫌悪でぐらぐらと煮えていた。
 ネロは顔を隠したまま、震える声と、赤く火照った白い腕とに、張り裂けそうなほど彼の感情を漲らせていた。ファウストだって泣き出したかった。けれども泣けない。泣いてはならない、もうとっくに好きになってしまっている相手から予想を上回る手ひどさで徹底的に拒絶されて、傷ついたのは確かなのに、同時に、ファウストこそが先ず真っ先にひどくて、その所為でネロのことをずたずたに傷つけてしまったということも、言い訳のできないほど明白な事実なのだった。
「……ネ、ロ……、ごめん、すまない。もう言わない。あんなことは二度と、言わない……」
 謝りながら、肩が震えて、内臓から力が抜けていくのを遠く感じていた。
 あんなこと、なんかじゃなかった。本当にそうしたいと願っていたんだ。ネロとなら、もう一度、そうなれるんだと確信していた。どれだけ時間がかかってもいい。どんな遠回りをしたって構わない。ネロとなら、のらりくらり、それでも一歩ずつ、どんな道だろうと歩いていける予感があった。それはファウストの中で、決してくだらないものなんかじゃなかった。ましてや怒りや悲しみなんかとはまるで無縁の、とても優しい、やわらかくて、あたたかな……、……。
「――もう、やめるから。
 きみ自身のことを知りたいだとか、僕自身のことを好きになってほしいだとか、浅はかな願いに取り憑かれるのはやめにする。すまなかったな、おかげで目が覚めたよ。……確かに、一時の衝動でそんな願いを追いかけたりするから、僕は昔にばかを見たのだった」
 酔いが覚めた後の、頭痛を自嘲するような仕草で、首を振る。どうやら、寝惚けた勢いで心ない言葉を吐いてしまったようだ。
 ぐすりと鼻を啜る隣人があまりにも可哀想な顔をしているので、ファウストは同一性のあやふやな、酔いが覚める前の自分の所業を、心から己の過ちであるとはいまいち自覚できないという、微妙な気まずさを表すように頬を掻いた。
「これからは、きみの〝くれるもの〟だけを見てる。その見返りに僕も、できるかぎりきみが居心地よく過ごせるような環境を整える、手助けをしてやる。つまりは今までどおりだ。
 それなら、また傍にいること、許してもらえるだろうか。……いや、こればかりは頼むよ。ほかの連中といるとどうしたって、気が張って仕方がない。きみとが、いっとう楽なんだ。どうしても誰かを頼らなければならないようなとき、きみになら比較的頼みやすい。きみだってそうだろ」
 ネロは、そろっと腕を下ろしていった。シャツの袖で俯いた目許をこすっている。機嫌が直ったのか。そうなのか。お気に召す言葉を僕は打ち返せたのだろうか。それはよかった。本当によかったなによりだ。まったく、クソみたいな、世界。
「……まあ、そりゃそう、だな」
 そりゃそうなのか。そうかなによりだ。
「あんたといるとやっぱり、……落ち着くな。ありがとう、ファウスト。勿論、今までどおりでいいんなら喜んで、付き合わせてもらうよ。俺も、あんたといるのがいちばん気楽だからさ」
 〝も〟じゃないだろう。
 ファウストは気のないような愛想笑いを浮かべた。ネロもそれを見て取って、表面だけの笑顔を気軽そうに返してくる。
 俺も、じゃない。
 おまえとは違う。おまえは違う。
 僕のは、おまえのとは、違う。
 それは今言ったばかりなのに、けれどもファウスト自身が自分で言わなかったことにしてしまったから、存在しないことになってしまった気持ちの差分。ネロはどこまで分かっているのだろう、あるいはどこまでも分かっていないのだろうか。こんなふうにお互いずたずたになった後でも、きみは本当に、〝今までどおり〟にできるつもりで?
 ぞっと胃の縁が冷えるような気がする。でももう、今は草臥れて、アルコールを含んだ欠片を素足で踏みにじったままででもいいから、茫然と倒れ込んで泥のように伏してしまいたかった。
「……怪我、してない? ごめん、酔ってたんかな、グラス割っちまった」
 その声が、本気で心配してくれているんだと知っている。
 こんな、優しい人をどうして、
 どうして好きになってはいけないなんてことがあるんだろう。

 草臥れて、茫然として、それでも自分はきっと、〝居心地のいい〟この場所を見限ることはできないのだろうと、薄明るい絶望を見るように悟った。

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