ネロファウ

失恋

「ふぁーうすと」
「なに、ネロ……っひゃぅ」
 気の抜けたような声に呼ばれて素直に答えてやったのに、相手の方を振り向くより先に、後ろから両肩を抱き込まれた。
 あまつさえ、こめかみどうしをくっつけるみたいに前髪を擦り寄せられたから、普段は絶対に出さないような声が思わず漏れたってそれはしょうがないのに。
「ふへ……なに、〝ひゃぅ〟って。かわいい……かわいい、ファウスト」
 ネロはまるで蜂蜜みたいな色の目を、きゅっと三日月形にして、繊細な指先でゆっくりと、ファウストの前髪を撫ぜてきた。
 おまえの方こそ、〝ふへ〟ってなんだ。なに、なんなんだ、なんだ、その、笑い方……ふわふわ飛んでってしまいそうな、ほろほろ蕩けてしまいそうな、そんな、綿菓子みたいなチョコレートみたいな、へんな、笑い方。
「……あれだけ手ひどく振ったくせして、よく、そんなことをしてくるよな」
 熱くなる顔でぎゅっと睨みつけたら、この男前な隣人は、ぎこちなさを絵に描いたようなといった、絶妙な芸当で微笑んで見せた。
「う……っ、……あ、はは……。
 なんていうかさ……俺、あんなこと言っちまったけど……本当はあれからずっと、あんたに言われたことが忘れられなかったんだ。……悪い意味じゃないぜ?」
 ネロは目を逸らし逸らし、辿々しく言葉を繋ぐ。ファウストの胸は、なんだかどきりと高鳴った。
 ファウストの肩に、優しく触れている左手。癖の強い前髪を繊細に梳き続ける、右手。むずむずと淡く痺れるような感覚が、どちらからも触れられていない筈の胸の、それも内側の奥の方から染み出してくるみたいだ。わけがわからない。分からないから、ファウストはネロを見つめた。ネロから与えられる奇妙な感情の答えは、ネロが紡がんとする言葉の中に、あるのかもしれなかったから。
「……あの日。あんたが逃げ道与えてくれたおかげもあって、俺、ちょっと落ち着けたから……単純に、〝なんでファウストはあんなこと言ったんだろう〟って、不思議でずっと考えてたんだ。
 そしたら、なんだかそのうちさ――ほかでもないあんたがああ言ってくれたんだから、ひょっとしたら俺、俺が思ってるよりも実は上手くやれてるんじゃないかって、これから先も……もしかしたら、ファウストとなら、心配することなんかないくらい上手くやっていけるんじゃないかって、ファウストはそれを、俺より先に気付いてくれただけなんじゃねえかって、そんなふうに、思えてきたんだよ」
 目の前が、真っ白になった。
 ような気がした。眩しかった。不意に、なにも考えられなくなる。すべての雑音が凪いで空っぽになった頭の中に、ネロの声だけが、すとん、すとんと、ただただまっすぐに落っこちてきていた。ぽちゃりと水面を打っては、ファウストの心に、ひずまない波紋を広げてゆく。うつくしい音。ネロの、ネロの、声が。
「俺さ。あの夜、考えすぎて……考えながら寝落ちたらさ、……はは、とうとう夢にまで見ちまったんだよな。その日の、あの晩酌の場面を。
 ファウストがあの言葉をくれた後、夢の中の俺は……二回目だからかな、怖いって気持ちがあのときほど湧いてこなくて、だから、思いきって正直に答えてみたんだ。〝うん、俺もずっと、あんたに俺を好きになってほしかったんだよ〟って。そしたら、あんたがさ……あんたが、俺の答えを聞いたあんたが、……なんていうか、見てるこっちが幸せになっちまうような、ああ生きててよかったって思っちまうような、そんな笑顔、見せてくれたんだ。
 あ、俺、間違えたのかもって思った。だって、あのときの現実の愛想笑いなんかより、ずっとずっと、今の夢の中みたいなあんたの笑顔の方が何百倍も見たかったって、思ったんだよ。
 勿論、夢の中のあんたは、ただの俺の妄想だけど、でも……俺に、あんなこと言ってくれたファウストなんだから、もしかしたら、あのとき俺が正直な答えを伝えてれば、本当のあんたも、あんなふうに笑ってくれたのかもしれないよなって……。俺、そう思って。
 だからさ、だから……今からでも、間に合うかな」
 ぎゅうっと、手を握られた。眠る花のつぼみみたいに、柔らかく、ネロの両手が、ファウストの両手を包み込んだ。
 とこんとこんと、鼓動が跳ねている。ああ、ずるい、狡い、狡い、ひどい男、本当に今更だ。どうして。どうしてだ。あんなにずたずたに殺した筈なのに、僕はあの後一人になって泣いたのに、その間、きみはまさかそんな呑気な考察をしていて、それで、こんな、こんな、……。
 こんな、幸せみたいな答えを、探してくれていたと言うの。
「ファウスト――好きだよ。
 隣にいて楽なら、誰でもよかったんじゃない。俺に気を遣ってくれる、ほかの誰かでもいいんじゃない。なにかをくれるから傍にいるっていう、そんな次元もとっくに過ぎたよ。俺は、ファウスト、あんたがあんただから、だからこんなに、大好きだ」
「……ばか!」
 ファウストは、握り締められた手を勢いよく振りほどいた。
 そのまま思いっきりネロの首目がけて飛びつく。ぎゅうっと腕を回して抱き締めた。ネロの両腕が迷いなくファウストの背を抱き留める。抱き締める。疑いはない。伝わっているんだ。ファウストの告白は、ネロの答えは、確かに互いの水面を揺らしていた。
「僕も、僕も……ネロが好きだ。誰かじゃなくて、きみがいい。僕に優しくしてくれたきみが好き、構ってやらないと拗ねるきみが好き、変なきみのこと、もっと知りたいよ。ネロ。ネロ、僕はね、僕の思いどおりになる誰かじゃなくて、いい人である誰かじゃなくて、面倒くさいけどとってもかわいい、ここにいるネロのことが大好きだ」
 睫毛がぶつかりそうなほどの距離で、見つめるネロが笑った。
 見ているこっちが幸せになるくらいに、ああ生きてきてよかったと、きみの隣で生きていられてよかったと、狂おしいほどの想いが溢れ返ってしまいそうになるくらいに、優しくて、柔らかい、温かな、笑顔だった。

 ほら見ろ。
 やっぱり、いけないことなんかじゃなかったろ。

 きみとなら、きっと。

 恋は始まる。

タイトルとURLをコピーしました