晩夏。残暑。
とんでもない。真夏だ。
「不愉快………………」
雲間から再び太陽が顔を覗けた瞬間、思わず零したら、木陰の反対側から笑い声が聞こえた。
はは、と、その場の空気に溶けてゆきそうな幽かな吐息。
まったく耳障りでないどころか、ファウストの心にいつだってしゅんと染み入って、ささくれや強張りなんかを宥めてくれるような声。
ネロだ。
「今日もあちいなあ」
「……暑いし、眩しい」
「ああ、だな。子どもらなんかは遅くまで活動できてのびのびしてるけど、あんたは日が沈んでる間に動きたいタイプだから、逆にこの時期はストレス溜まっちまうだろ」
「……うん」
あまりにも暑いので素直に頷いたら、ネロがまたくすくすと笑った。こちらが軽んじられている笑いではないと分かるから、心地いいのだ。
「ネロは、眩しいのは平気?」
「うーん……。ずっとキッチンにいると、正直あんまり関係ないとこもあるんだけど。でも強いて言うなら、朝は朝の光の中で作業できた方が気分がいいし、夜は手許だけ明るくして、ほかは真っ暗っていうのが落ち着くかな」
ファウストは頷いた。朝の光を頼りにてきぱきと仕込みをするネロ。夜にランプの明かりの中で、眠るように静かに鍋を見守っているネロ。
どちらも好きだ。
雨が降っても雷が鳴ってもネロは調理をするけれど、長雨の中で、昼間なのに明かりを灯してキッチンに立っていた背中は、確かに、ちょっと淋しそうに見えた気がした。
なあう、と猫が鳴く。空腹を満たしてころりと横になったお腹を撫でてやって、ファウストは小さく溜息を吐いた。
「それ、起きるまで傍にいてやるの」
「…………そのつもり」
「はは。日陰っつっても充分暑いんだから、気を付けてな。はい、これ」
ネロは、どこからともなく小さな水筒を取り出して、手渡してくれた。中身はアイスティーらしい。
「すまない。この子のご飯だけじゃなく、僕のことまで気遣ってくれて……。ありがとう、ネロ」
「ん。どういたしまして」
ネロはマリーゴールドみたいにぱっと笑ったかと思うと、あっという間に猫の餌皿を回収して、立ち去ってしまった。黄色い花弁の残像だけが、ファウストの目の奥に柔らかく残る。
「――なあ、ファウスト」
ネロに倣って手作業で水筒を洗い終え、水切りをしていたら、その彼から声がかかった。
振り向くと、いつの間に取り出したのか、酒瓶を作業台に置いて蓋に両手を重ね、その上に顎を乗せた姿勢でネロが笑っている。
「一杯どう?」
上目遣いにファウストを窺って悪戯っぽく誘うので、
「いいね」
とファウストも、ネロの瞳を大袈裟な素振りで見つめ返して、くすっと笑った。
「――……夜風は心地いいな」
「だよなあ」
いつもの場所でほっと息を吐いたら、ネロもグラスを傾けながらのんびりと返してくる。ぼうっと星空を見上げている横顔がきれいだったから、そんなにいいものだろうかと思って、ファウストもつい同じように空を見上げた。
「……暗くていいな」
「……あっはっはっは!」
神妙な面持ちで感想を漏らしたら、ネロがろまんちっくのかけらもない声を上げて笑った。ファウストが言えたことじゃないが。それでいいので、気にはならない。
「そうだな。ファウストといると、夜でもあんまり変なこと考えずに済むよ。ほっとする。俺、あんたのそういうとこが、ほんとうに好きだな」
「ありがとう。僕も、そんなふうに言ってくれるきみといられて嬉しい。……本当に、安心するんだ。僕もきみの隣が好きだよ、ネロ」
「うん。……ありがとう」
あんなふうに人を茶化すようにも笑えるのに、静かに頷く声はほんとうに柔らかくて、たとえば小さなガラスのすずらんをふわっと一振りしたように、複雑で繊細な思慮の重なりが音として垣間見える。
こちらが言葉に乗せた意味を、限界まで丁寧に咀嚼して、隅から隅まで確かめて、きちんと飲み込んでくれたのだということがありありと分かる。稀有で難儀な才能を持って生まれてきてしまったネロの、一つ一つの仕草が、本当にどれだけ、ファウストの呼吸を楽にしてくれたか。
「……虫の声が聞こえる」
「……ああ。耳障りなほどじゃないし、却ってこのくらいの音はあった方が、耳が痛くならなくていいよな。俺は好き。あんたも?」
「ああ。嵐の谷の夜はもっと騒がしかった……ここは少し、寂しいと感じるくらいだな。もっとも、人里に近ければ近いほど虫にとっては棲みにくくなってくるから、彼らがこんな冷たい土地のことを見放して森の方へ引き籠もってしまうのは、当然のことだとは思うけれど」
「うん……うん。騒がしいくらいの虫の声を、うるさいだとか、煩わしいっていうふうには言わずに、寧ろ自分の方をその中にそっと溶け込ませるみたいにして暮らしてた優しいファウストのことが、俺、やっぱり好きだよ」
「……うるさいな。人の話を聞いてた?」
「聞いてるよ。だから好きなんだ」
照れ隠しにカナッペを口へ放り込んだら、「その具、気に入ってくれたんだな。よかった」と微笑まれたのでファウストは墓穴を掘った気分になった。
「……これから秋になると、この時間は冷えてくるよな」
「まだ当分その心配はないだろう」
「かもな。……けど、俺、これがちょっと気に入っちまったかも」
むくれていた機嫌をアルコールでどうにか精算して、ネロの顔を見た。ネロの言う〝これ〟がなにを指しているのか分からないけれど、でもたぶんきっと、ファウストも同じく〝それ〟を悪くはないと、今、感じている。
それでも確信が持てなくて口を開くのを一瞬、躊躇ったら、ネロはそんなファウストを見逃してくれるように、甘じょっぱく笑った。
「……ああ、いい天気だなあ。夜風に当たりながら晩酌するのに、ちょうどいい時期だ」
彼は誰にともなく呟いて、また、夜空を仰ぐ。瑠璃紺の大気が、途方もない上空でとろりと溶けて、世界に落ちる。満ちる。
そのどうしようもない自然の事実にこそ救われる夜があること。
くだらない偶然の末路で、思いもよらない息の仕方を知るという運命もあること。
「……そうだね。僕も、こんな夜は、好きだな」
そう答えるうちに、ごく当たり前に、唇がゆるんでゆく。
ネロは暗い空を見上げたまま、そっか、とどこか擽ったそうに声を揺らした。
ネロと二人で、夜風に当たる。
ファウストもネロと同じように、〝こんな時間〟をちょっと気に入ってしまったんだ。
けれど一日は有限で、定まった量の時間の中、昼間の分を長く取れば取るだけ、夜の時間は短くなる。
「寒くなってきたら、部屋で飲むしかないな」
「そうだなあ。まあ、俺の部屋ならつまみの追加も出しやすいし、それはそれでいいか」
「そうだな、それはそれで」
小さく、嘘を吐く。
本当は妥協なんかじゃない。天秤にかけるまでもなく、ファウストは願ってしまってた。願ったところで時間は止まらないし、急かさなくとも季節はそのうち巡るのだと分かってはいても。
静かに吹き抜ける夜風のように、この時間も一瞬で攫われていってしまうくらいなら、
ただ、きみといたい。
――早く、夜が長い季節に、なってしまえばいいのに。