ネロファウ

そのこころは

「あはは」
 不意にフィガロ先生が笑ったので、レノックスはぱちぱちと瞬きをして、ゆーっくりと隣を振り返った。
 食堂の窓際のテーブル、四人揃って朝ご飯を食べた後、ルチルとミチルはお茶を頂いてきますねと言って、まるでスキップするみたいにそわそわっと、空いたお皿を運んでいった。
「窓の外に、なにかありましたか」
「いいや。確かに今日はいい天気だけれど、そうじゃなくってね」
 レノックスの素朴な問いに答えながら、フィガロ先生はまた目を細めた。
「昨夜のことを思い出してた」
「昨夜、……ネロの誕生日パーティですか?」
「そう」
 燦々と窓から降り注ぐ、柔らかい水晶みたいな陽光。ペリドット色の瞳を縁取る眦は、今は空席の向かい側にいた、ルチルとミチルを見るときみたいに、静かにゆるんでいた。
「みな、楽しそうでしたね」
「他人事みたいに。レノも楽しかったでしょう?」
「……ネロには、いつも世話になっていますから。……ファウスト様がいらっしゃらなかったのは、少し意外でしたが」
「あはは。俺が思い出してたのもね、そのことなんだ」
「……なるほど」
 レノックスは、それ以上自分になにを言えるかと悩んで、結局、微妙な頷きだけを一つ返した。
 ファウスト様は昨夜、パーティ会場であったここに、ついにお見えにならなかった。今は賑やかな場が苦手だと常々おっしゃっているから、そういう意味で考えれば、とりたてて心配をし申し上げるようなことではないのだけれど。
 それなのにレノックスが〝意外だ〟と思ったのは、ファウスト様がいらっしゃらなかったのがほかのどのパーティでもなく、〝ネロの〟誕生日パーティだったからである。
「あの子、せっかくネロといい感じだったのにね。馬に蹴られる趣味はないんだけどさあ、俺も流石に心配になっちゃって。いや、もしもほかの理由で欠席してるんなら、それはそれでお医者さん先生の出番かもしれないしね?」
「……趣味ではないんですか?」
「趣味ではないよ。ほんとあの子たち、危なっかしいんだから」
「……心配にしては、毎回楽しそうですね」
「まあ、浮いた話の一つもなかった可愛い弟子に、漸く春が来たと思えばね。師匠としても多少は、浮かれちゃったって仕方がないだろ?」
「どの口が、……いえ、なんでもありません」
「よくみなまで言わなかったね、レノ。えらいえらい」
「……」
 レノックスは一度、ぎゅう、と瞑目して、それからゆっくりと瞼を持ち上げた。目の前には変わらずに、楽しそうに笑うフィガロ先生がいた。
「まあ、そうして探ってみたらね、なんのことはない。あの子、ちゃんとネロをお祝いしていたよ」
 けれども、続く言葉に、レノックスの心はふうわりと凪いでいった。ぱちぱちと瞬きをした後に、思わずふーっと両目を見開いた。
「どうやら、あの後二人っきりで晩酌でもしてたみたい。よかったね、レノ」
「それは……よかったです、本当に。……でも、先生は、他人事ですか?」
「あはは! まさか。よかったと思ってるよ、俺も。……本当に、よかった」
 安心した、と呟く瞳が、水晶の陽光を遮って伏せられた、睫毛の束に陰る。そのままそっと閉じられたまなざしに、茫漠とした思いを馳せて、レノックスは所在なく窓の外を見遣った。
 今日はとても晴れている。
「……ねえレノ」
「なんでしょう、フィガロ先生」
「きみも、ネロに言ったよね」
 俺と同じことを。
 ――フィガロ先生が、普段と変わらぬ抑揚の声でそう告げたから、レノックスは一瞬、彼の言う意味を取り零しかけた。もっとも、この人が重大なことを、中身と同じだけ重大そうな声音で語ってくれることなんて、ほぼまったくないと言っていいのだけれど。
 青々とした空の色から、室内へぐっと目線を転じた。ペリドットの瞳は、レノックスのそんな動きを追いかけるように、改めてこちらに向けられていた。
 レノックスは、己の胸に文字どおり手を当てて、考え込んだ。
「……たぶん、言いました」
「おっと、逃げる気?」
「いいえ。ただ、俺の想像したもので本当に合っているだろうかと思って……心当たりは無論、あるのですが」
「いいね。じゃあ、せーので答え合わせしよう」
 フィガロ先生が、にやっと笑う。よくよく観察していなければ分からないような、意地悪そうな微笑みだ。
 レノックスは胸の中でそっと、溜息を吐いた。昨夜、ネロにかけたのは、そんな笑みを浮かべて語らなければならないような、後ろ暗い意味を込めた言葉だったわけはないのだから。
 自分にとっても、フィガロ先生にとっても。

「フィガロ先生!」
「レノさん! お待たせしました!」
 ミチルとルチルの元気な声が、ぱっと咲いたひまわりみたいに、自分たちの名前を呼ぶ。
 キッチンからぴょんぴょん、歌うような足取りで戻ってきた二人は、なにやら豪華なプレートを、両手いっぱいを使って抱えていた。
「おっと、手伝うよ。――わあ、すんごいデザートの盛り合わせ!」
 豪華だねと、レノックスの内心の感想と同じことを言って、フィガロ先生が二人に笑いかける。
「はい! ネロさんが昨日のお返しにって、たくさんクレープ焼いてくれたんです!」
「ふふ。私たちは日頃のお返しにって、ネロさんにおめでとうを言ったのに……。これじゃあ、またネロさんに貰う方が多くなっちゃうね」
 フルーツとクリームがおとぎばなしのように乗っかった、綺麗で美味しそうなクレープを前にして、朗らかな兄弟はくるくると手を取り合って話し合う。
「そうだ。ミチル、今日は食べ終わったらお皿洗いを手伝って、ネロさんにうんとありがとうをお返ししようか」
「そうですね、兄様! お誕生日にしかお返しができないなんてこと、ありませんもんね。ボクらはいつだってありがとうを思ってるんだから、これからも毎日、たくさんお返ししていきたいです!」
「あっはっは。二人とも、いい子だね。それじゃあ、今日はみんなでお皿洗い。終わったら、食堂の掃除でも手伝おうか」
 フィガロ先生が大らかに声を上げて笑う。レノックスは三人のはしゃぐ声を聞きながら、四人分のカトラリーと取り皿とを並べ終えた。
「……さあ、先ずはいただきましょう。ネロもよく言っています。美味そうに食べてもらえるのが、作り手にはいちばん嬉しいことだと」
 二回目のいただきますが、窓際のテーブルから鮮やかに跳ねた。
 窓から燦々と降り注ぐ、柔らかい水晶みたいな陽光。今は先ほどよりもほんの少し、薄黄色が混じってきて、照らされる世界がよりいっそう、温かく見えた。

 ――せーの。
「〝これからもよろしくね〟」
「〝これからもよろしく頼む〟……」
 二人の声が重なった。
 フィガロ先生は、少し悪戯めいた声で。レノックスは、昨夜あの言葉に乗せた、あの信頼を思い返しながら。
「正解でしたね」
「正解だったね」
 レノックスは、胸に手を当てたまま、瞬きをしながら、再び考え込んだ。温かく脈打つ、なにか。これか、と思う言葉を取り出して、顔を上げたら、興味を持ってこちらを覗き込んでくる、南の先生ときちんと目が合った。
「……俺からも、一つ、問題を出してもいいですか。一緒に答え合わせをしましょう、フィガロ先生」
「……うん。いいよ?」
 ペリドットを縁取る眦が、やや弱ったように、ふやける。
 軽い返事と相反するようなその表情を見つめて、レノックスは想う。自分が今、言えること。フィガロ先生と確かめておきたいこと。優しければ優しいほど、いい。
 そちらへ向かってゆけたなら、いい。
「では、問題です。
 これからもよろしく、の、主語は。
 俺たちは、なにを――もしくは、誰のことを、ネロによろしく頼みたかったのでしょうか」
 言葉を選び選び、作問する。
 少し苦心したレノックスに、フィガロ先生は、ふふっと訳知り顔で吹き出した。
 そこに誤魔化しは、ない。
 それが分かったから、充分だった。レノックスは小さく息を吸って、答え合わせの音頭を取った。
 せーの。

「……可愛い、ファウストのことを」
「……ファウスト様のことを、どうか」

 ――これからも、どうか、よろしく頼むと。

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