ネロファウ

愛を知ってキャンディ

 外界から隠れるようにキッチンの椅子に座り込んで、ヒースはさっきから延々唸っている。
 俺がそんな彼を調理の間中ほったらかしにしておいたのは、けれどもその呻きが苦しみや悲しみではなくって、幸せな溜息とでも言うべきものに聞こえたからだ。
 今日は賢者さんの世界の風習だという〝ハロウィン〟とかいう行事に乗っかって、魔法舎中がお祭り騒ぎだった。ハロウィンというのはどうも主にお菓子を貢がせるか奪われるかするイベントらしく、俺は入れ替わり立ち替わりキッチンに現れるお子さまやお子様じゃないやつらにひっきりなしに菓子を提供していたし、西のやつらが談話室を貸切にして開いていたパーティには、ヒースもシノと一緒に参加したと言っていた。
 そんな調子なので、今夜の飯は殆どのやつらが軽く済ませたいだろうとみた。カナリアさんが隙を見て焼き足しておいてくれたパンと、俺が今漸く拵えたミネストローネ、トマトが苦手なやつ用にオニオンスープ。あとフリッターを添えたサラダを大皿に盛っておく。これで今日の夕飯。これもハロウィンの習わしのために大量に残っているかぼちゃの処遇は、取り敢えず明日以降、賢者さんを交えてじっくり考えることにする。
 さて。
「どした、ヒース。麗しの貴公子がそんな物憂げな顔して」
「……ネロ……」
 手の空いた俺が茶化しながら近寄ると、膝を抱えていたヒースは困ったような顔で俺を見上げた。俺の不躾な冷やかしに困ってるのと、彼が延々唸っていた理由の所為で困ってるのと、どっちもあるだろう。
 時に、ヒースみたいな礼儀正しいやつが部屋の隅っことはいえ、人前で、椅子の上に足を上げて膝を抱えてるなんて可愛らしいことだ。ひょっとしたらもしかしたら俺の素行がだんだん移ってってるのかもしらない。分からんけど。真似するなら先生の立ち姿の方がいいよ。まあ、綺麗で整った身のこなしなんて、あんたも今更誰の真似をするまでもないか。
「……聞いてほしいことがあるんだけど、ネロに」
「……俺? 勿論、聞くけど……。一体、なにがあったんだよ」
 ヒースが困ったような顔のまま、けれども意を決したみたいな声音になってそう切り出してきた。ぼんやりしていた俺は、物憂げな貴公子から名指しされて一瞬、戸惑う。出逢ったばかりの頃ならも少し腹の底から身構えていたろうが、けれども今となっては、俺たちの大切な子が俺の前だからと楽に構えて、俺にだからと頼ってくれるんだと思うと、不思議と気分が高揚するような感じがあった。
「……これ、なんだけどね」
「……ああ」
 ヒースは泣きそうな声で言うと、握り締め合わせていた両手をようやっと開いて、その中に持っていた物を、そうっと見せてきた。俺は思わず、知ったような顔で頷いてしまった。ヒースから見せられたのは初めてだけれど、〝それ〟自体を見たのは初めてじゃなかったからだ。
 俺はそれを知っていた。
「ファウスト先生が、下さったんだ……」
 そう。ヒースがそう言うとおり、それは、ファウストが最近よく持ち歩いているキャンディだった。
 ファウストにトリック・オア・トリート――ハロウィンの菓子を強請るための決まり文句――をシノと一緒に言いに行った。ファウストは偶々、自分の糖分補給用にキャンディを持っていて、それをひとつぶずつ二人に分けてくれた。それがこれである、と、ヒースはその飴玉を持っている経緯を、俺に訥々と説明して聞かせた。俺はヒースの、秘めた悩みをようやっと打ち明けだしたような細い声を聞きながら、頭のもう半分では、ほんの少しだけ過去のことに思いを馳せていた。
 ――疲れたときの糖分補給用に。
 そう、確かにファウストはそう言って、このキャンディを持ち歩くようになったのだった。思えば以前、俺の作ったマシュマロをにっこりと綺麗な笑顔して巻き上げていったときもそうだった。あのときもその言い分に、俺は今と同じように、お、と思ったんだった。
 魔法舎で暮らすようになったばかりの頃、今と違ってファウストは食というものにまるで頓着していなかった。案外身の回りのことをてきぱきとこなす様子から、日常生活レベルの調理もそこそこできはするんだろうと窺えたものの、炊事場に向かうだけで必ず他人と顔を合わせなければならない環境に警戒してか、あいつは「数日くらい食べなくても平気」なんて、あろうことか料理人の目の前で諦めてみせたりしたんだっけ。
 あれは、俺は今でも覚えてる。ファウストが初めて食堂でご飯を食べてくれたときのこと。ファウストの、俺の料理に対する褒め方は本当に丁寧で、ああやっぱりこの人は、食べることを知らないわけじゃないんだって嬉しくなった。リケのように端から知らなかった子には、ちゃんと知ってほしい。ファウストみたいに、忘れてしまったり、あるいはなんらかの理由で放り出したりしてしまったやつには、思い出してほしいと思った。
 いつか、ファウストが、食事の時間が来る度に当たり前みたいにこのテーブルに着く日が来たらいいのにな。いいや、本当に苦しいのなら部屋から出たりなんかしなくたっていいから、差し入れならいくらでも俺が部屋まで持っていくから、俺がちゃんとあんたに美味しく食べてもらえるように作った料理を、どういうふうにでもいいから、ほかの誰でもないあんたが、美味しく食べてくれたらいいのにな。
 俺はあの頃、ずっとそう願いながらファウストのために料理をしてた。きちんとご飯を食べて、美味しいと思う感覚や、お腹が満たされるという感覚が、どんなにつらいときであってもどんなに悲しい心をも、いくらかは癒してくれるものなんだってことを、この優しそうな俺たちの〝先生〟に思い出してほしいと願っていた。
 俺の小さくて、不遜な願いは、だけども少しずつ叶っていった。
 今ではファウストは俺が朝食に作ってやるガレットに分かりやすく目を輝かせるし、勉強を頑張った子どもらに偶にはお茶会でもしようかと自ら持ちかけてくれるし、俺の作ったマシュマロは口止め料と称していたずらっ子の笑みで掻っ攫っていくし、疲れた身体には甘い物が必要なんだということをようやっと思い出してくれて、自分でキャンディなんかを持ち歩くまでになったんだ。
 ――だから、たった今、俺たちのかわいいヒースが美しいほど悩ましげな顔して取り出してみせたこの飴玉は、俺にとっては、恥ずかしさを憚らずに言ってしまうとするならばある意味〝幸せの具現化〟みたいな、すごく、なんというか胸があったかくぎゅっと締めつけられるような月並みに言えばそういった感情を喚起する類の、代物なんだった。
 そんな、俺にとってはどっちかというと好意的な存在であるところのこの飴玉ひとつぶが、一体全体どんな理由で、この優しくて聡明な子を困らせてるって言うんだろう。俺はまるで予測ができなくて、けれどもだからこそ、繊細な彼を万が一にも怯えさせてしまわないように、なるたけそっと促した。
「そのキャンディが、どうしたんだって?」
 ヒースは今にも泣きそうな顔をしている。頬が紅潮して、綺麗な鼻と噛み締めた唇とがふるふる震えていた。やがてその薄桃色の唇が、わななきながらも開きだす。それは自分の外に助けを求めるように、また己の内側に自分の現在地を捜すように、あるいは、気の置けない仲に甘えて、相手との間に自分の居場所を確かめるみたいに。優しくて、しっかりしてて、でも今だけ、俺や俺たちの前でだけ、ちょっと甘えたにもなっている、ヒースの声が、まるで舞台役者を熱烈に追っかけるファンの悲鳴みたいに震えながら愈々打ち明けた。
「ど、どうしよう……まるでネロが作ってくれたうさぎのマシュマロみたいなんだ……!」
「……その心は?」
「勿体なくて食べられない!!」

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