ネロファウ

だいすきだからかぼちゃパイ

 外界から隠れるようにキッチンの椅子に座り込んで、ファウストはさっきから微動だにしない。
 静かにじっと蹲るかたまりは、孤高の黒猫か、はたまたそういう習性のまっくろなおばけかという感じだ。俺はくろねこおばけの気配をなんとなく視界の隅っこに収めながら、昼食代わりのパンプキンパイをオーブンへと突っ込んだ。
「こんにちは、ネロ! トリック・オア・トリートです!」
「こんにちは、ネロさん! トリック・オア・トリートです!」
 ちょうどそのとき、キッチンの入り口から元気な声が二つした。いたずらするぞなんて脅し文句を使うわりに、開口一番がきちんとお昼の挨拶なのが礼儀正しいリケとミチルだ。
「はい、こんにちは。リケ、ミチル。優しいあんたらが一体どんないたずらするのかも興味あるけど……今日のところは、いつも頑張ってるご褒美も兼ねて、お菓子をあげることにしようかね」
 わあい、と子どもらの声が、キッチンの空に虹を架けるみたいに跳ね上がる。
「ありがとうございます、ネロ! 今日のお菓子は、どんなのだろう……!」
「ネロさんのお菓子、大好きだから、とっても嬉しいです! ありがとうございます!」
 食べるどころか物を見せる前からそんなに喜ばれて、俺は今でもまったく居心地の悪さを感じないってわけじゃない。けど、俺にねだれば必ず自分たちのために用意された菓子が出てくると信じてくれたリケや、俺が渡す菓子は必ず自分たちのことを考えて手作りされた物だと信じてくれているミチルの、その信頼の向かう先の一つになれたのなら。つまりは、子どもらの安心して頼れる拠り所というものを一つでも多く作ってやれたのなら、それは俺一人の居心地の悪さなんかとは比べるまでもないほど、紛れもなく価値や意味のあることなんだとも思えた。
「……あっ、部屋の隅っこがなんだか暗いと思ったら、ファウストもいるじゃないですか」
「り、リケ……! 暗いは失礼ですよ……!」
 俺が用意しておいた菓子を取ってこようとごそごそする間、お子さまたちは漸くファウストの存在に気付いたみたいだった。漸くというか、ついにというか。参ったなあ、と俺は我ながら空々しい気持ちで考えながら、背中に彼らの声を聞いていた。
「ええっと……ファウストさん、そんなところで一体どうしたんですか……?」
「……傷つけるようなことを言ってすみませんでした、ファウスト。……ひょっとして、お腹でも痛いのですか?」
 ネロのご飯は美味しいですからね、僕もそれでお腹を壊したことが何遍もあるのでつらさは分かりますよ。知った声音でふふんと頷くリケと、なんでちょっと得意そうなんですか、と健気に突っ込んでいくミチル。それから、
「なんでもない。きみの言葉で傷ついたりもしていない。……今日は魔法舎中どこにいても落ち着かないから、ここで隠れていただけだ」
 億劫そうにしながらも、だんまりを決め込んだり子ども相手に当てこするようなことを言ったりしないのが、俺の好きなファウストだ。物言いはちょっと皮肉げだけれど、子どもをばかにするような険はなくてほっとする。そのまま何事もなければラッキーだな、先生。俺は胸中で彼に向かってそう話しかけながらも、別のところでは既にこうも思っていた。子どもの目敏さを甘く見ちゃいけねえよ、ファウスト。
「はいよ、お待ち遠。あんたらは二人で食べるかなと思って、この中に二人分包んでおいたから。たくさんあるし、誰も盗りゃしねえから、昼飯の後でゆっくり食べるんだぞ」
「わあ、大きな袋……! ありがとう、ネロ! ミチルと仲良くいただきますね!」
「わあ、綺麗な袋……! ありがとうございます、ネロさん! リケと大切に食べますね!」
 俺の渡した、まるで誕生日プレゼントみたいな包みを映して、四つの瞳がまあおそろしくきれいにきらっきらと輝いた。
 そうやってすっかり目の前のお菓子に夢中になってしまった二人のお子さまは、仲良くプレゼントを抱えて食堂へ走っていこうとした、ところで、しかしなにかを思い出したように突然くるっと振り向いた。その視線は俺、いや俺を通り越して俺の背後、もっと言うと俺の背後にあるであろう椅子の方を、じっと見つめていた。
「……そういえばファウストからは、まだお菓子をもらっていません」
「リケと二人ですごく探したんですよ。今日はみなさんのところを順番に回っているので……。そしたらファウストさん、こんなところに隠れているんだから」
 ――トリック・オア・トリート!
 俺は耐えた。
 耐えたぞ俺えらい。お子さまたちの声が異界の呪文を元気にハモるのを聞いて、噴き出さなかったんだから。俺は自己評価をそう下したのに、しかし先生の目はもうちょっと厳しかったらしい。刺さるような視線を感じて背中を振り返ったら、椅子の上のくろねこおばけは俺を確かに睨んでいた視線をふいっと外して、疲れたように首と右手首とをひらひら振った。
「面倒だから、僕の分はネロからもらってくれ」
 そしてファウストは、本当にそう言ってのけた。
 西の魔法使いから菓子をねだられた、双子はおろかオーエンにまで絡まれて愈々嫌気が差した、そう言ってキッチンに棲みついてしまったくろねこおばけの、次に誰か訪ねてきたら僕の分まできみが渡しておけと、そう拗ねてみせたその言葉どおりに。
「え! そんなのつまらないです! もうっ、そんなにネロのキッチンを暗くしておいて、僕たちにお菓子の一つもくれないなんて……!」
「えっと、リケの言ってることはあんまりよく分かりませんけど……でも、ボクもファウストさんからもらいたいです! くれないと、ほら、本当にいたずらしちゃうんですからねっ!」
 がおー、とか辿々しく呟いて、見るからにぎこちない動きでおどろおどろしいポーズを取って見せる二人に、愈々俺は声を上げて笑い出してしまった。ここまで耐えたんだからえらいぞ俺。すてきな先生のおかげでここ最近の俺の自尊心は過去最高ってくらいに高まっているんだ。だものでここで遠慮なく笑い転げてしまったって、自己評価はまずまずどころか花まるの域だった。
 ファウストが、必死にわるい子のポーズを取って見せるお子さまたちと、完全に悪い友達である俺とをしきりに見比べては、どんどんその綺麗な眉を困った形に下げていく。やがて愈々心許なさそうな顔になって、俺の顔を見上げて呼んだ。
「ネロ」
 と。
 それからこう言う。
「どうにかしてくれ」
 俺があんたに優しくしたいってこと分かってて、俺があんたを苦手そうなことから遠ざけてやりたくなるって分かってて、けどあんたが意地張ってるだけだなって確信を持てるときには、俺は子どもらの方を焚きつけることもあるんだっていうのも分かってる筈で。そのうえであんたは、俺をそんな目で見つめて〝どうにかしてくれ〟って頼るんだ。あんたは守るべき子どもじゃなくて、けれどもまったく別の意味で俺自身にとって大切なひとで、だから、だから俺は。
 俺は、どうすると思う?
「……あはは。しょうがねえひとだなあ……。先生、こないだ自分用に持ってたキャンディとか、まだ残ってねえの」
「……あるけど」
 ファウストがびっくりしたみたいに目を見張って、それからすごすごと懐に手を突っ込んだ。観念したみたいに力なく取り出された手のひらには、かわいい飴玉が二粒ころんと乗っかっていた。
「お。やったな、お子ちゃまども。俺もファウストから菓子なんかもらったことないんだよ。だからすげえレア物だぞ、よかったな」
「や、やりました……! ふふん、僕のおばけの仮装がそんなに怖かったんですね、ファウスト!」
「リケのおばけはとっても可愛いですよ! レノさんのお知り合いだから、やっぱりファウストさんも優しい人なんですね!」
 俺の気合いの入りまくった大袈裟な包みは二人で抱えたまんま、リケとミチルはぱたぱたとファウストの許に駆け寄った。それからそれぞれが片手をボウル型にして差し出して、ファウストの方からもらえるのを待っている。自分の手のひらにキャンディを転がしたまま固まっていたファウストは、一秒後、金縛りが解けたみたいに漸くふうっと小さな息を吐いた。気まずげに言う。
「……すまないな……。ネロの菓子と比べ物にならないのは当然としても、これくらいしか渡せるものがなくて」
 ファウストの静かで柔らかな声は、一粒ずつ抓み上げられたキャンディと一緒に、リケの手のひら、そしてミチルの手のひらの中へと、そうっと落ちていった。
「ありがとうございます、ファウスト。ハッピーハロウィン!」
「ありがとうございます、ファウストさん。いい一日を!」
 ファウストからもらった飴玉にじっと目を落として、それからぎゅっと握り締めて、ファウストの顔を正面から見つめて、リケとミチルはぱっと嬉しそうな笑みを咲かせた。
 お礼の言葉に当たり前みたいに祝福の言葉を添えて、子どもらは今度こそキッチンを出ていった。俺とファウストの方をもう一度だけ振り返って、「いただきます!」と改めて挨拶をしていった。
「あはは。可愛い嵐だったなあ……あんなもんなら、あんたも今まで逃げ隠れしてた理由が分かんなくなっちまったんじゃねえの?」
「……きみも欲しかったのか?」
「……へ?」
 俺がほっと一息吐いて軽口を叩いたら、ファウストからは文脈のよく分からない言葉が返ってきた。なんのことやらと考えていると、ファウストはあまりにも無垢なひかりを湛えた視線で、俺の目をまっすぐ見上げてきた。
「キャンディ。〝俺でももらったことがない〟と言っていたから。……欲しかったのかと」
 ぱちくりする俺に向けて、……まだあるよ、とファウストは懐に突っ込んだ手を控えめに差し出してくる。俺は取り敢えず先生の傍に歩み寄って、力の抜けた身体を調理台の端っこに凭せかけた。
「……俺は子ども扱いされてんの? それとも、いたずらでもすると思われてる……?」
「前半の問いに答えるなら、そんなわけがないだろう。後半に関しては、おまえならまあ否めないが」
「ちょっと……」
「それはそうだが、これはそうじゃなくて。そうじゃなく……ネロがこんなもの欲しがるなんて思わなかったから。分かっていたら、僕はきみにならハロウィンなんか関係なしに、キャンディくらいあげたのに」
 ファウストは特に照れたり逆にめんどくさがったりする様子もなく、淡々と話した。その声は優しくて、けれどもその中身はちょっと的外れだ。俺はキャンディが欲しかったんじゃない。ファウストから菓子や、あるいはもっと別のものをもらいたかったわけでもなかった。
 けど。
「あの台詞は完全に言葉の綾だよ。別に欲しかったわけでも、お子ちゃまたちが羨ましくて拗ねたわけでもねえから安心してくれ。けど……あんたが今言ってくれたことは、なんかちょっと、嬉しかった。……俺のこと、友達として気にしてくれてありがとな、ファウスト」
 俺があったかくなった胸の中から言葉を取り出したら、ファウストもようやっと眉間を開いて、ゆるゆると優しく微笑んでくれた。
「俺いつも、あんたからそういうちょっとした言葉や気遣いをもらう度に、大好きだなあって思うよ。ファウストのこと。だから今も、そういう意味で嬉しくなった。俺さ、あんたと、……出会えてよかったな。こんなふうに一緒にいられて、ほんとに嬉しいよ。ファウスト。大好きだ」
「ふふ。きみはいつも情熱的だな……。僕もネロが好きだよ。それに、こちらこそ、ありがとう。今日はこうしてずっと甘えてしまっていたし、子どもたちの前で〝どうにかしてくれ〟なんて困らせるようなことを言ってしまったけれど……邪険にせずに傍に置いておいてくれて、それにあのとき、〝しょうがないな〟って笑ってくれて、嬉しかった。僕はね、ネロ、きみのあのとき見せてくれたみたいな、あの笑顔が大好きだ……どういうときの笑顔なんだろうって考えるんだけれど、たぶん、……僕のことをそういうふうに〝好き〟って思ってくれているときの笑い方なんじゃないかなって、今のところは、そう勝手に推理してる」
 ファウストのこんな声が俺は好きだった。内緒話をするみたいに潜めた声が、甘く高くなっている。たぶん、普段取り繕っている陰気な低さを、ふっと気の緩んだ拍子に落っことしてしまった声なんだと思う。そう勝手に妄想している。俺と二人っきりでいて安心してくれているから、だからファウストが結果的に、俺にだけ特別に聞かせてくれてる声なんじゃないかって。
 そう勝手に思い巡らす俺のそれは、ただの妄想だけれど、ファウストの方の推理は、きっと当たってる。だって俺はファウストのこと大好きだなって思ったからだ。確かにあのとき、彼のことをしょうがないひとだなって笑ったあのときも。
 ファウストのことを俺が、俺だからできるやり方で甘やかしたいって、そう思って俺は笑ったんだ。
「……いい匂いがするね」
「……ああ」
 ファウストがくんくんと鼻を動かして、照れたみたいに笑う。彼の言うとおり、パンプキンパイの焼けてきた匂いがキッチンにあったかく漂い始めていた。
「ファウスト」
「なに?」
「たぶん、そうだよ。俺あんたのこと大好きだって、そのとき、やっぱりそう思ってたから……だからさ、だから、俺……俺がファウストのこと好きだって思って笑う顔を、もしもあんたがほんとに、好きだと思ってくれてるんだとしたら……それってなんていうか、すごい……すごく、相性いいってことなんじゃないの、俺たち」
「……。なに言ってるんだか」
 お手本のように綺麗にぽかんとした後、ファウストは呆れたみたいに、またはなにかにひどく安心でもしたかのように、はっと吹き出した。
 意図の読めないその反応に戸惑う俺を、ファウストはくすくす笑いながら追い立ててくる。
「ほら、オーブン見てなくていいの」
「え……あ、ああ……うん」
 釈然としないまま、俺はファウストに背中を向けて、オーブンの中身に向き合った。そりゃ、下手な言葉だったよとは思う。思うけど、頑張ったのに。俺はあんたのことを好きで、あんたはそんな俺のこと好きでいてくれて、それって実はものすごくすごいことなんじゃないのって、俺は、思ったから、だから。
 こんな感動、あんたとどうにか共有したいって思うのは、一笑に付されてしまうようなことだったんだろか。
 なんだかだんだん、パイの香りが美味しそうには思えなくなってきてしまって、焦る。ハロウィンに乗る気のないオズみたいなやつや、ヒースとシノにも、悪くない日だなって満足してほしくて焼き始めたものなのに。作る方がこんなんじゃだめだ。俺はだめだ。今日はなんだか浮かれてんだ。だめなやつなのにだめじゃないみたいに錯覚することが多すぎた。自分のことを。
 ――ファウストが傍にいたから。
「……ひゃわっ⁉︎」
「ねーろ」
 俺はびっくりして変な声が出た。首の後ろからはファウストの声がした。なんで俺の首の真後ろからファウストの声がするんだ? それに、背中になにか等身大くらいのものがひっついていて、あたたかい。俺の肌をじかに震わせるほどの距離から聞こえるファウストの声は、甘い。高い。やわらかい。そんな信じられないくらいに俺をときめかせる声が呼んだのは、聞き間違えでないのなら、なんてことだ、俺の名前だ。
「え、……え、なん……なに……、ファウスト……?」
「うん。ネロ。僕の大切で大好きな、ネロ」
 オーブンの火力を落としたきり茫然としていた俺の背中を、いつの間にか傍に寄っていたファウストがぎゅっと抱き締めてくれてる。その事実を認識して、それからファウストのその言葉を聞いたことで、俺の呼吸は漸くすうっと楽になった。楽になったことで、今まで息がつらかったんだと知る。
「相性がいいかもなんて、今更。今更そんな、客観的な根拠を求めるみたいな、あるいはたった今気が付いたみたいな、そらとぼけた言い方をしなくたっていいだろ。僕はネロが好きだ。ネロも僕を好きだって、こんなにも伝えてくれてる。それはすごいことだね。嬉しいね、ネロ」
 ファウストはゆっくり、噛み締めるみたいに言って、優しく穏やかな声で言って、俺に噛んで含めるようにも彼の方が甘えているようにも聞こえる声で、そう言って、そして俺の首筋に頬か額を寄せた。ファウストは笑っていた。それかたぶん、泣いてた。ちょっと震えた声で、ははっと息を吐いたのが、俺の髪を揺らしたから。
 あったかい。窓から見える外の風景がなんだかきらきらして優しい色に見える。甘くて香ばしくてこくがある、美味しそうな匂いがキッチンに満ちていることに気が付く。世界に俺がいる。いることが怖くない。一人でいるのに、一人じゃない。だって今、俺の背中には、くろねこおばけが一人、ぴったり取り憑いている。
「愛してる。ネロ。……僕はきっと、きみに会いたかった」

 パンプキンパイは、少し焦げた。それで甘くてほくほくでぱりぱりで、リケもミチルも美味しいと言って、ヒースもシノも流石だって言って、オズも悪くなさそうにしていてシャイロックが今度はこれでお酒を飲みたいですねと言ってくれた。そのどれもを俺は受け取れた。ちゃんと受け取れた。いい料理が作れたなって、自分でも思えた。
 くろねこのおばけがくれた奇跡は、ハロウィンの魔法だったかもしれない。だけどきっと、今日が終わっても解けないで。いくつの朝を過ごしても、何度の昼を暮らしても、数えきれないような夜を越えたとしてもきっと。
 あんたの呪いなら、もしかしたら、きっと。

 

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