ネロファウ

料理人の一存

「ふふん。それでファウストを籠絡するって寸法だな」
 ちげえ。
 キッチンに入ってくるや妙な訳知り顔で笑ったシノの言葉に、ネロは頭を抱えた。それどころか、シノと連れ立ってやって来たラスティカまでも「なるほど。ネロはネロのやり方で、シノを応援するんだね」と感心したように微笑むので二倍頭を抱えた。だからちげえ。
 ともあれ二人の顔には案の定、微塵の邪気もない。ネロは却って文句の付け所が分からずに、辟易して二人をキッチンから追い立てた。
 お腹を空かせた彼らは夕飯の乗ったプレートをそれぞれ抱えて、おとなしく一言ずつだけ言い置いて食堂へと去っていく。上手くやれよネロ、いただきます。シノを応援するネロを応援しているよ、いただきます。ああどうぞ召し上がれ。まったくこれだから俺だってシノのこともラスティカのことも好きなんだ。ちくしょう。

「……!」
 ファウストが目を丸くした。
 いつもよりも遅い時間。魔法舎の住人たちがみんな夕飯を食べ終わってしまった頃。のそのそと部屋から出てきたファウストは、ちょっと気まずそうな顔でキッチンを覗き込んできた。そこで待っていたネロと目が合うと、安心したような、申し訳なさそうな表情に変わった。そうして、ネロが彼の遅刻を見越して遅めに焼き始めていたガレットを認めて、大きな目をいっそうまんまるく見開いたのだ。
「お疲れさま、ファウスト」
 ネロが手招くまでもなく、ファウストはとてとてと寄ってくる。少し戸惑っているような、不思議そうな顔でガレットの乗った皿を見つめる姿に苦笑して、労いの言葉をかけたら、ファウストはぱっと顔を上げて正面からネロを見つめた。
「……」
 そうして、ものすごく不機嫌そうな顔になってしまう。
「あはは、ファウスト」
「……ふん」
 だけどこれは、不機嫌そう、なだけだ。ネロはそれを知っていた。ファウストも、ネロが知っているということを分かっているから、あからさまにこんな表情を作って見せている。ネロはそのことをもまた十二分に心得ていた。
「あいつらのこと、止めらんなくてごめんな。これはお詫びと、お疲れさまのガレット」
「ほかのみなの夕飯もこれだったのか」
「ほかのみんなの夕飯もこれだったよ」
「そう」
 ファウストは小さく鼻を鳴らすと、ぽて、とネロの肩に頭を凭れてきた。そのまま淡々と呟く。
「それは気分がいい」

 誰もいない食堂の隅っこで遅い夕飯を摂ろうとするファウストの、向かいの席に座って、ネロもお茶を飲むことにした。
 ファウストは、かわいかった。好物を目の前にしてずっと嬉しそうな表情を隠せていないのもかわいかった。隠せていないくせにネロに甘えて不機嫌な顔を作り続けているのもかわいかった。「……おいしい」と、結局ほっぺたを緩めて囁いてくれてしまうのもかわいかった。ネロはファウストが好きだから、だからほかのやつの夕飯までぜんぶ巻き込んで、ファウストの好物を作ってやってしまってよかったと思った。
「きげん、なおった?」
「……なおってない。直るもんか。僕はずっと不機嫌だ」
「はいはい。がんばったな、ファウスト」
「……ふん」
 行儀は悪いけれど、ネロはそれを承知でやおら手を伸ばした。テーブルを挟んだ向かい側。そっと、柔らかい髪の毛に触る。頭をゆっくりと撫でてやったら、食事中のファウストは怒ることもなく、寧ろ見るからに嬉しそうに目許を緩めた。
 けれどもやっぱり、そんなうっとりした表情を曝け出してくれたのは一瞬だけで、それより後には彼はまたむうっと眉を顰めて、くちびるを尖らせて、さも不機嫌そうな顔を繕い直してしまった。隠せてもいないのに、だ。
「これを食べ終わらないことには、直らないだろうな」
 と、ファウストは本当に下手くそな不機嫌声で言った。だからネロも隠しきれずに甘ったるく笑って、
「そっか。心ゆくまで召し上がれ。なんならもうひとつ焼いてもいいし、スープもたくさんおかわりあるからな」
 と返してしまう。むくれた振りをしても律儀で友達に甘い人なままのファウストは、ネロの言葉にちょっと弱ったような顔をして、「……そんなには、入らないかもしれない……」なんて言った。
 それは知ってる。分かっていてもつい口を衝いただけだ。だって料理人が使える甘やかし文句なんて、『いっぱい食べろよ』か『無理はするなよ』くらいしかないから。ネロがファウストを見つめたまま笑ったら、ファウストはほっとしたみたいに、強張っていた肩の力を抜いた。
「シノとラスティカにさあ。……このガレット、あんたを絆すためのものなんだろうって言われて」
「……僕が地下宮殿にシノを連れて行く気になるようにって? きみのガレットに釣られて?」
「そう」
 ネロは穏やかに白状した。ファウストは難解な言葉を聞いたみたいに眉を顰めた。
 後々、シノやラスティカの口からまことしやかに伝わってしまうとまずいと思ったから、ネロの意図がうっかり捻じ曲がったままファウストに伝わってしまうと嫌だと思ったから、ネロは先に直接、自分の口からファウストに真意を伝えておくことにしたのだ。
「二人はそう思ってるんだけど、これはそうじゃねえからな。これは、さっき言ったとおりにお詫びとお疲れさまのガレットで、俺は、ちょっと疲れちまってるだろうあんたに、少しでも好きなもん食って癒されてほしくて。だから、俺はただあんたのことが好きだから、ガレットを焼いたんだよ。それで……そう、だからあんたは、なんにも考えずに、楽な気持ちで、ただ美味い美味いって、あんたの好物を食べててくれていいからな」
 ファウストなら、言わなくても分かってくれたかもしれない。けれど、そこに甘えて、甘えを積み重ねて、彼の信頼を日々ちょっとずつ磨耗していくようなことになるのは避けたかった。それに、自分の料理を取り引き材料になんかしたくない。自分の料理は、ネロが唯一自分自身のことで信用できる事柄だったし、それに、食事というのは万人にとって重要なものだからこそ、それを他者を操る手段みたいに使うということをネロはあまりにもしたくなかった。
「分かっているよ」
「うん……」
「けど……ありがとう、ネロ」
「……うん」
 穏やかな声で紡がれた丁寧な返事に、安心する。ネロがほっとして、込み上げてくる幸せをそのまま顔に表したら、向き合うファウストの表情もふにゃ、と崩れた。通じ合っている。ああ、かわいいな。……。
 ネロは不意に泣きたくなった。やっぱりこの人の隣にいたい。
 頭に触れていた手をそっと離したら、ファウストはすっと不機嫌顔を取り繕ってしまう。意地でも、ガレットを食べ終わるまでは絶対に機嫌が直らない人を演じ続ける気なんだろうか。嘘は下手くそなくせに。そんなことをしなくてもいいって、たった今ネロが言ったばかりなのに。
 機嫌がとっくに直っていたって、ネロのガレットを食べてくれればいい。それほど疲れていなかったんだとしたって、ネロという彼の友達に甘えてくれればいい。だってファウストひとりのために、いや、ファウストを好きで仕方がない自分自身のために、魔法舎中の住人の夕飯をぜんぶガレットにしてしまったのはネロだ。そんなことを憚らず敢行してしまうほどに、そもそもファウストに甘えたのはネロの方なんだ。
 ファウストは切り取ったたまごを多めにガレットに乗せて、食べた。
 彼は口に物を入れたまま喋らないので、少しだけ静かな時間になる。優しい沈黙に耳を傾けて紅茶を啜ったネロが、手にしたカップを下ろしたちょうどそのとき、ファウストがぽつりと言った。
「ネロって、僕のことがかなり好きだよね」
 ぎくりとした。
 ファウストは食べかけのガレットを見下ろして、しみじみといった様子でなにか物思いに耽っている。その表情に分かりやすい嫌悪は見えないけれど、ネロはやにわに不安になる。ティーカップの細いハンドルを、きゅっと握る。
「……うん。でも、重たかった……?」
「いいや」
 怖々と訊ねると、返ってきたのは意外なほどあっさりした声だった。
「まるで、きみから特別に気にかけられているみたいに思えるのは、悪くない」
 そう言って、言葉に違わず気分よさそうに、ガレットの端っこを小気味よく切り分けていく。そんなファウストをなにも言えないまま見つめる、ネロの心臓の音は、なぜだかどんどん大きくなっていく。
「それに、」
 フォークが一口分のガレットを突き刺す。
「偶には、僕も恋人をひとりじめしたいと思うことだってある。
 ……な……なんてな。……」
 ファウストが、俯きがちに顔を背けた。
 その肌が、見える範囲はぜんぶ赤くなっていることに気付いて、ネロは頭の中が真っ白になる。……冷や汗? いや、ネロの身体も火照っているのだ。あつい。あつくて一気に全身が汗を噴いた。袖で口許を覆う。でもここにあるのが、自分の腕なんかじゃなくてファウストの肌だったらいいのにと、脈絡もなくわけのわからないことをふと思った。
 ファウストはぎこちない動きで、突き刺したガレットを口に運んでいる。せっかくの好物を、味なんて分かっていないんじゃないかというような顔でもごもご咀嚼する。拙いくちびるの動きを、見ていてはいけないような気がして、なのにネロは、ファウストから少しも目が離せない。
 視線を明後日の方に投げながら、ファウストは口の中の物を飲み下す。いつもは滑らかに行われる動きがぎくしゃくとして、不自然に音が響くくらいに、大きく喉が動いた。ファウストは顔を逸らしたまま俯いた。汗を刷いた頬が癖っ毛に隠れる。ものすごく恥ずかしがっている彼を、笑う気なんか勿論ネロには少しもなくて。
 テーブルの上を這うように、手が伸びていた。震えながら構え直されようとしている、ナイフを持つ左手に、触れる。手の甲をそっと包み込むみたいに握り締める。
「……ぁ……」
 手の中で、力が抜けた。ファウストの口からはかない声が漏れた。包んだ左手からナイフが落ちかけて、慌ててファウストの指ごとぎゅっと握り込む。かろうじてナイフが音を立てることはなかったけれど、その代わり、ネロの胸の中ばかりがばくばくとおそろしく鳴っていた。
 汗をかいた手のひらから、ファウストは逃げない。か細く震えているのはどっちの手なんだろう。諦めたように、ファウストがそっと右手のフォークを置いたとき、皿とフォークがぶつかった音は一度じゃなくて、かちかちと僅かにトリルが入っていた。
「ファウスト。……後で、部屋、行ってもいい?」
 直截に申し込むと、ファウストの身体はびくりと震えた。
 餌を求める獣みたいに、映っていたら嫌だと思った。彼の紫の目の中に、今の自分の姿が。泣きたくなって、けれどどうしたら本当のところが伝わるだろうかとネロは懸命に考えを巡らせている。
「えっとさ……もうちょっと、一緒にいたくなっちゃって。でも、やっぱり疲れてるんなら、無理にとは言わないよ。だって、俺はあんたのことが好きだから、あんたが健康で穏やかにいられるのが、俺にとってもいちばん大切なことだからさ……」
 大切だから、そっとしてやりたいし、大好きだから、構いたい。二つの間のやわらかいところを、いつでも行ったり来たりしながら、ネロはファウストを見つめている。好きでいる。自分はなにならしてもいいのか、彼にはなになら受け入れてもいいと思ってもらえるのか、そういうことをずっと考えている。
 ファウストの顔は俯いたまま、それでもネロの方へ向き直っていた。やがてその視線が、そ、っと持ち上がる。夜明け直前の木立の色の睫毛、その陰から、夜明けのうっとりする滑らかな空みたいな色の瞳が、ネロを覗く。
 喉の異様な渇きも忘れて、見入る。美しかった。
 美しい人影の備え持つくちびるが、ゆっくりと、開き出す。本当にただただ美しいばかりに見えるそれが、一体どんな声をかたどるのか、ネロにはまったく予測もつかなくて固唾を飲んだ。
「……うん。……いいよ。だって、このガレットを食べ終わったら、僕の機嫌は直っているんだから」
 そうして、ネロは笑い出した。
 ファウストの答えに茫然とするうち、気が付いたら笑っていた。思いも寄らない言い草だった。
 顔の筋肉って、ここまで緩むものだったっけ。ほっぺや額の皮膚はこんなに軟らかいものだったのか。そうやって新鮮な驚きを感じてしまうほどに、ネロは心から笑んでいた。かわいい。ああ、かわいい! ファウストがかわいい! 耳を擽る甘ったるい笑い声が本当に自分のものなのか信じられない、けれど、それを気恥ずかしいとは思えど、醜いことだとは、今のネロには不思議と少しも思えなかった。
 まなざしの先、なんだかきらきらする光に霞んでいるかのような夜の空気の中で、ファウストは目に見えてそわそわとし始めていた。両手にぎこちなくカトラリーを握り直して、普段の彼らしくない、焦ったようにも見えるせかせかした所作でガレットに刃を入れている。そんな姿が、少しおかしくて、堪らなくかわいくて、ネロは自分でも分かってしまうくらいにいっそうとろけきった笑いを溢した。
「ああ……けど、飯はゆっくり食べててよ。あんたに味わってほしくて、作ったんだから」
「……そ、そう? ……うん。わかった」
 いただきます。
 ファウストは、食べ始める前にもきちんとしてくれた挨拶を、もう一度言い直した。そうして、時々漏らす「美味しい」という言葉どおりに、今度は素直に表情を綻ばせながら、じっくりと食べ進めてくれた。
 料理人にとってはこのうえなく嬉しい、またファウストを好きで仕方ない身としてはこのうえなく幸せな、その姿を、目に焼き付けようとでもいう無駄な努力をするみたいに、ネロは、じんわりと見つめた。料理を好きでよかった。かわいくて仕方のない相手のことを、こんなふうに甘やかすことができるんだから、料理という手段を得意で本当によかったと思った。自分の対面で食事をするファウストに倣うように、手許でぬるくなり始めていたストレートティーへ再び口を付ける。
 けれど、なんだろうか。とろんとした今の頭でも分かるくらいの小さな違和感を捉えて、ネロは思わず首を傾げてしまった。
 おかしいな、砂糖なんか入れたんだっけ。

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