「ネロ、好きなひとがいるのか」
思わず零したら、はっとネロがこちらを振り向いた。学校帰りに少し足を伸ばした、なんでもない雑貨屋の店内。連れの視線がつい今まで釘付けになっていた先には、彼が興味を持つには珍しいような、ファンシーグッズが並んでいた。
珍しいとはいっても、綺麗なものや繊細なものに感嘆する心を持っているひとだから、奇妙だとは思わなかったのだ。ネロが足を止めていたそのコーナーには、つるつるした淡い色の天然石をメインにした、アクセサリーや小物なんかが丁寧に陳列されていた。自分の買い物を終えてネロの姿を探したファウストは、そんな場所に彼の背中を見つけたとき、寧ろ嬉しくさえなったのだ。淡い色と繊細な光の中で、柔らかな視線を静かに落とす彼こそが、ああやっぱりファウストの好きなネロなんだと、どうしようもなく思えたから。
「……いや、えっと……はは」
ネロはぎこちなく笑った。頭を掻く振りで表情を隠しながら、ファウストから視線を外す。歯切れは悪いが、ファウストの問いそのものを否定はしなかった。やっぱり勘違いじゃなかったんだ。ネロがさっき見つめていたのは、ローズクォーツのストラップだった。
こう言ってはなんだが、それはべたな石だ。ご丁寧に商品の横には能書きも添えてある。恋愛成就。
ファウストは視線の置き場に少し迷った挙句、やっぱりきちんとネロの顔を見つめることにした。ネロ自身が隠そうとしているのではっきりとは見えないけれど、それでも、少なくとも自分が目を逸らしていたという事実をは作らずに済むから。ファウストは殊更に冗談っぽく笑むと、でき得る限り優しく潜めた声で、親友の水くささを突っついた。
「僕にも言わなかったのに、石に頼りたくなるくらいの、いいひとがいるの」
「ち、茶化すなよ……。べつにぜんぜん、さ、どうこうなろうって、相手とこれ以上どうにかなりたいって、思ってるわけじゃないんだ。ほんとに。だから……」
見なかったことにして、とネロは細い声で言った。
ファウストはそれで漸く、自分を取り巻く時間というものが止まってしまったかのような感覚を覚えた。漸く。漸く、ああこれはひょっとして、失恋というやつなのじゃないか、と思った。じわじわと理解が及んでゆく。まるでペン先から垂れた真っ黒なインクが、ゆうっくりと繊維の一本一本を伝って、白い紙に染み入ってゆくように。
ネロの細くて切実な訴えは、そのまま彼の心の誠実さを伝えていた。彼の想いの真摯さを物語っていた。彼には恋をする相手がいるのだということ。そしてそれは、この場にいるファウストではないこと。そういった事実をファウストの胸に、過たずはっきりと突きつけていた。
「……ごめん。茶化したりして」
「あ、いや……こっちこそごめん、なんか、マジになって変な空気にしちまって……」
「そんな悲しいこと言うな。本気なんだろ? 大切なもののために怒れるのは、きみの素敵なところのひとつだよ」
ファウストが真面目に伝えると、ネロは一瞬面食らったような、あるいはなんだか気まずそうな顔をした。
無意識にも、片恋の欲目が漏れてしまったのだろうか? 悪い想像に怯えたファウストの横で、ネロはしかし、気の抜けたように幽かに笑った。
「……ありがと。あんたのそういう真っ直ぐで優しいところを、俺も……素敵だと思うよ」
帰ろっか、とネロは踵を返す。穏やかな声。優しい足取り。ファウストを置いていくその姿でさえも、やっぱりどうしたって余すところなく、ファウストの大好きなネロだった。
ネロの背中がどんどん遠くなる。それにつれて、まるで自分自身を急き立てるようにファウストの脈はどくどく逸る。ごくり、喉が鳴る。ネロはこっちを振り返らない。それを確かめて、ファウストは素早く目の前のものに手を伸ばした。
「あ、待って、」
一人で電車を降りて行こうとするネロを追って、ファウストもホームを踏み締めた。
驚いたように振り返るネロの身体を、抱き着くみたいに押し遣って乗降口から離れる。ぽかんと立ち尽くすネロと目を合わせたとき、背中からドアの閉まる音が聞こえた。
「電車、……行っちまったよ。なんかあったのか?」
眉を下げて訊ねてくるネロは、連れの奇行に困っているのではなくて、普段と違う行動を取った友達を心配してくれているのだ。それが痛いほど分かったから、ファウストは嬉しくなった。つい今し方まで心の隅に蟠って消えなかった、不安や薄らとした後悔のようなものが、さっぱりと晴れてしまった。やっぱり、さっき手を伸ばしておいてよかった。こうしてネロを追いかけて来てよかった。今から伝えようとすることにも、手渡そうとするものにも、もう迷いも躊躇もなくなっていた。
「これ、きみに持っていてほしくて」
「……え、なに……、……え?」
ネロの胸許にぐいと押しつけた、メッセージカード大くらいの小さな紙袋。それを思わずといった感じで受け取りながら、彼は目を白黒させた。それから、そうっと視線を落とした先で、紙袋に書かれたロゴの店名を読み取ったのだろう、小さく息を呑んだ。
ファウストはちょっとはにかみながら笑った。
「たぶんだけれど、さっききみが見てたもの。……ローズクォーツって、愛の石とはいうけれど、これが先ず真っ先に加護するところは、他者への愛よりも前に自分自身への愛なんだ」
ネロは、静かにファウストの話に耳を傾けていた。二人とも俯きがちに紙袋越しに、ミルキーピンク色の石ころを見つめていた。
「この石は、持ち主の心をあるがままに受け入れて、自己肯定感を高めてくれる。そうして自分自身を愛せるようになった分だけ、他者に対しても自信を持って愛情を与えることができるようになる――勿論諸説はあるけれど、大体そういう効能を持った石だといわれてる」
「……すごいな。流石、っていうのか……〝呪い屋〟さん、石にも詳しかったんだな」
「……詳しいって、わけではないけれど」
ネロの声は柔らかい。柔らかくて、誠実だ。擽ったいと思ってしまったから、ファウストはほんの一瞬だけ、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「とにかく……その石はそういう意味でも、ネロが持っていていいんじゃないかと思ったんだよ。勿論、石にばかり頼ってろなんて言うつもりはない。先ずは誰よりも僕自身が、きみにとってその石のようでありたいと思ってる。
きみの持っている優しさとか、誠実さとか、傷つきやすさとか、だからこその思慮深さとか、そういったものをきみがどうしても自分で認められないと言うのなら、だったら僕がきみの傍にいて、きみ自身よりもきみのことを認めたいし、きみ自身よりもきみのことを愛したい。きみの中のどんな綺麗じゃない部分も、きみがきみ自身を嫌いでいる部分だって、きみが僕に見せたいと言ってくれるなら僕はそれを受け止める覚悟をしているし、見せたくないと思うのなら、僕はその望みごときみを愛してる。
僕がネロを許すから。ネロがネロを許せない分、僕がネロを許して、きみがきみを愛せない分は、僕がきみを愛してるから。だから……ネロは安心して、人を愛せばいい。自信を持って、きみの愛する人を心のまま愛せばいいよ。僕はそのための、石でいる。きみの素敵なところは、誰よりも僕が知っておく。きみの弱さや暗がりは、誰が許さなくても僕が愛してる。優しいきみが大切な人を愛して、ちゃんと幸せでいられるように、僕は誰よりもきみの傍で、きみのローズクォーツでいる」
ファウストは顔を上げて、ネロを見つめた。ネロもゆらゆらと目をもたげて、ファウストの方を見た。視線が思いのほかしっかりと絡まって、そこでファウストは漸く恥ずかしくなった。
「……な、長々喋ってすまなかっ、た……なんとなくそういうことだけ、今日はどうしてもきみに伝えておきたいと思って」
せっかく交わった視線が、またふら、ふら、とほどけてしまう。ファウストがそうしたのだ。今更、とんでもなく顔が熱かった。鞄の肩紐をわけもなく握り締める、手のひらに汗が滲んでいた。
「僕は……きみに出会えて本当によかったと思ってるし、今までのことにすごく感謝してるんだ。だから、きみの友達として、できることを、できる限りしてやりたいと思ってる」
冗談で言ったわけじゃない、口から出任せでも勿論なかった。ファウストは心から願ったのだ。生まれて初めて抱いた淡い恋が、破れたのだと知ったそのときに。
ネロの御守でいたい。恋人になれないのだとしたら。それでも、ファウストの隣にいると安心できるんだって、本当に安心したみたいに穏やかなまなざしを伏せてくれた、ネロの隣で。人付き合いの苦手な彼が寄せてくれた、不器用な信頼を裏切りたくない。恋じゃなかったんだとしても、ネロがファウストだから許して、ファウストだから傍にいて、ファウストだから好きでいてくれたんだということは、もはやファウストにとっては疑いようもないことなのだから。
「……じゃあ、またな」
「え、あっ……ファウスト?」
居た堪れなくて、頭がぐちゃぐちゃになったままおざなりな台詞とともに踵を返した。最後にネロが名前を呼んでくれた、それだけで幸せだと思いたかった。
ああ、嫌だな。視界から一切のネロが消えたら、すうっと寒風が頬を撫でていった。世界はおかしなくらいに灰色だった。好きだった。好きだった。好きだ。
好きなんだ。