「……ファウスト!」
そんなに大きな声じゃなかったと思う。
それでもファウストはびっくりした。身体が怖いくらいに大きく震えた。ファウストが足を止めるより先に、誰かの手がファウストの手を掴んでいた。
怖くて振り向けなかったけれど、ネロの手は懇願するみたいにそっと引っ張ってくる。どうして。ただ引き止める目的なら、手首でも肩でももっと軽々しく雑に掴んでくればいい。そんなふうに手のひらを、優しく、握り締められてしまったら、きっとネロは誰が相手であってもこうして優しくするのに、ファウストはどうしても、変な意識を持ってしまう。ネロの手のひらから、与えられてもいない甘さを読み取って、勝手にその甘さを食らってときめいて、また、また、ネロに恋をしてしまう。
無意識に握り返しそうになってしまう右手を必死に殊更に開いて、ファウストは怖る怖る、後ろを振り返った。
最初に目に入ったのは、彼が胸許に抱き締めてくれている、小さな紙袋。それから、日陰の所為で青みの増した、儚げなまなざしと目が合った。
「……ねろ……」
「ファウスト……あの……あのさ、……あのさ」
まだ行かないで。
ネロはそう言った。まだ、まだ行かないで。茫然とするファウストの耳に、また、電車のドアがぷしゅうと閉まる音が届く。人がそこそこ行き交っているホームの一角で、また、ふたりの空間が切り取られる。
ネロがもういちど、ファウストの手をそろっと引っ張った。でもファウストはうごけない。どうしても、動けない。ネロの真意が分からないから、応えるのが怖かった。
立ち尽くすファウストの方に、一歩、ネロが踏み出してくる。動けない。……うごきたく、ない。逃げないファウストの許に、ネロはさらに、踏み込んだ。言葉で会話をするときみたいに、境界線を探るようにそうっと。頬に風も感じないほど、ゆうっくりと距離が縮まって、ファウストはほんの少しだけ背の高い、ネロの顔を見上げていた。
「……ファウスト……」
「……なに?」
「えっと……」
ネロはもごもごと言い淀んで視線を伏せた。かさ、と小さく、紙袋が音を立てた。大切そうに抱えてくれている。二本の指先で抓んだって持てる程度のものなのに、こんな、丁寧に胸の上に抱いて。
ぼんやりとした視線を、ファウストは再びもたげた。ネロが小さな、それでいて意を決したような声で、なにかを呟いたからだ。
「俺は、……ファウストに石になってほしくなんか、ない」
「……え」
茫然とした声が、自分の口から漏れる。ネロは声に違わぬ張り詰めたまなざしで、ファウストの目を見つめ返していた。ファウストは彼の言葉の意味が上手く分からなくて、そして分からないなりに、怯んだ。
ファウストの表情を汲み取ってか、ネロが目許を気遣わしげにゆるめる。そんな心配りひとつで、ファウストの心は嘘みたいに安らいでしまう。自分を恋うている相手に向かって、そうと知らないネロは、優しい声で囁きかけた。
「嫌なんだよ。俺は……あんたに〝石〟でいてほしいとは、思わない。勿論、あんたが言ってくれたことは本当に、本気で、嬉しかったよ。俺なんかがこんなに愛してもらえるなんて、夢かなにかみたいで……ありがとう。けど、だからこそ、俺はあんたのことを自分のローズクォーツだなんて思いたくない。あんたは、石なんかじゃない。ファウストだ。俺の大事な友達で、ファウストっていういい名前を持った、一人の人で、たとえどんなに俺のために心を砕いてくれたって、俺に都合のいいだけの〝物〟になんかぜったいにならないんだ。
ファウストは、ファウストだ。俺は、ファウストが好きだよ。陰気で人嫌いで不器用のくせに、真っ直ぐで優しいあんたが大好きだ。こんなにいろんな顔を持って確かに生きてるあんたのこと、どんなにきらきらして見えたって、石だなんて、思うような俺にもなりたくない。俺はあんたに、……石じゃなくって、ファウストとして傍にいてほしいし、俺だって、できたら……その……ファウストにとっての、〝ローズクォーツ〟みたいなのに、俺も、なりたいよ」
ごにょごにょ、と、どんどん覇気を手放していった声は、最後にはフェードアウトするみたいに、小さく掠れた。けれど、誤魔化そうとはしていない。最後まで言い切ろうとしてくれたんだという健気な意思が、痛いほどファウストに伝わっていた。
胸の底が震える。擽ったいなんてものではなくて、ファウストは俯いた。繋いだままだった手を、ぎゅっと握り締める。びく、とネロの腕が震えたけれど、構わず握り続ける。嬉しかった。頬どころじゃない、瞼が、目の奥が、熱い。ネロのことが好きだ。ファウストはやっぱり、ネロのことを好きでよかったんだ。
「…………うん、」
思い切って顔を上げたら、少し驚いた。目に涙をいっぱいに溜めて顔を顰めて堪えているのが、ファウストだけじゃなかったから。
「……嬉しいよ、ネロ。こんなに優しい言葉を、僕に伝えてくれて、ありがとう。それに……僕にとってきみはとっくに、ローズクォーツみたいな存在だし、それでいてぜったいに、石とおんなじなんかじゃないよ。
隣にいて心が安らぐのも、少しずつ自分自身のことを受け入れられそうな気がしてるのも、ネロがほかのなにものでもなく、きみの人生を生きてきて、今、ここにいるネロだからだ。ネロ、っていう名前を持ったかけがえのないきみと、……僕は、ファウストとして、一緒にいたい、な」
ネロの手が、ファウストの手をぎゅうっと握り返してきた。心臓からはずいぶん遠い部位だけれど、とくとくとくと、なんだかあったかい音さえも、繋いだところから伝わってくるような気がした。
「ありがと、ファウスト……すげえ嬉しいよ……。あの……えっとさ、もしよかったらこのまま、俺の部屋、寄ってくれねえ? お茶淹れるからさ、ちょっと待たせちまうけど茶菓子も作るし……なんなら夕飯だって食べてってよ、あんたの好きなもの作らせてほしい、えっと、ほら、この石のお礼がしたくてさ……」
「……ふふ」
なにやら必死に言い募ってくるネロの様子に、思わず笑いが溢れた。ネロは、ちょっと鼻白んだように口を噤んでしまう。ああ、違うよ。拗ねないで。ファウストはネロの反応が愛おしくて、いじらしく思えて仕方がなくて、堪えきれない笑いを薄く湛えたまま、繋いだ手の甲を親指でそっと撫でた。
「お礼なんて、僕の方からしたいくらいだよ。それに……僕とばかり連んでいないで、その意中のひとというのを、少しは誘ってみたらどうなの」
ファウストはネロに恋をしている。だけどもそれと同じくらいに、ネロのことを愛してた。
ネロはぴくりと固まった。まったく、こいつはなにをそんなに怖がっているのだろう。ファウストは、不思議と凪いだような心地で苦笑した。
……こんなに優しいひとのことを、好きこそすれ嫌う者がいるとはとても思えない。ネロ自身がどうやら弱さだと考えている、彼のそういった部分はその実、柔らかさと言い換えられるだろうとファウストは思っている。それがあるから、ネロはネロなのだ。こんなに優しくて繊細で、ファウストがここまで好きになったネロなのだ。
ネロは、大丈夫だ。そんなに怖れなくたっていい。彼が石に頼りたくなるほど恋をしたその相手だってきっと、彼と話せば、彼の料理を食べれば、彼の優しさに触れればたちまちネロを好きになる。
だから、踏み出してみればいい。いつかファウストを気遣ってくれたみたいに、いつかファウストを甘やかしてくれたみたいに、いつかファウストを頼ってくれたみたいに、彼の愛するひとの方へも、そうやって踏み出してみればいいのだ。勿論相手のいる話だから、恋になるかは分からない。それでもきっと、二人の関係は上手くいく。ネロはきっと愛される。ファウストが、ネロの専属アミュレットがそう言うのだから、これはきっと間違いないことなのだ。
それだというのに、彼はなにを、そんなにも躊躇っているのだろう。
「……だって、言ったら来てくれないだろ」
「……え?」
ふて腐れたような……いや、細く擦り切れてしまいそうな、痛々しく切ない声がした。
ファウストは一瞬、放心して、それから我に返って自分の言動を果てしなく悔いた。今の声は、確かにネロが絞り出したものだった。無神経なことを言いすぎた。彼の柔らかいところへ踏み込みすぎてしまったのだ。
ファウストはネロの相手が実際どういう人なのかまったく知りもしなかったし、二人の間にどんな事情が横たわっているか、きちんと想像もしていなかった。それになにより、彼がどんなに自分の恋に思い詰めているか、さっきのあの店先で、見なかったことにしてくれと言われたその声で、まるで自分の心まで締めつけられてしまったように感じるほど、痛いくらい分かっていた筈なのに。
俯いたネロの、肩が震える。繋いだ手は強く握り締められたまま、もう一方の手に抱かれた紙袋が、くしゃっとさらに音を立てた。ネロを傷つけた。暴れる心音が、熱くなった目の奥からファウスト自身を激しく責め立てていた。
ネロが涙の代わりのように、悲痛な声を絞り出す。
「そんなこと、言ったら……! あんたが俺の意中の人なんですって、だから一緒に来てくださいなんて言ったら! あんたに一方的に恋をしてるから、だから俺の隣にいてほしいんですなんて言ったら! そんなこと、言っちまったらもう、俺の部屋になんか来てくれないだろ!? 俺といたいって言ってくれたことなんか、ぞっとして取り消したくなるだろ! 俺と手を繋ぐのなんか……もう、これっきりで……今すぐ振りほどいて、二度とこんなことするもんかって……もう、近くにすら寄りたくないって、顔も見たくさえないって……思う、だろ……?」
「……え……な、に……」
……なんの話、ファウストは掠れた声で呟いた。なにかがおかしい。ネロは誰のことを言ってるんだ。ここにいるファウストではない? それでは想い人の? でも、彼の言った言葉は、全部この場になぞらえてあって、それじゃあネロはなにが言いたい。ファウストになにをぶつけている。ファウストと重ねて、一体誰を想ってるんだ。ネロは、ネロは、だれのことを。
「ファウスト、……好きだ。さっき言ったこと、全部嘘なんかじゃない。俺はあんたのローズクォーツになりたいし、あんたの幸せを願いたい。愛してる。けど、……でも、でも、だけどそれと同じくらいに、あんたのこと好きなんだ。恋になっちまったんだ。俺が結ばれたかったのは、俺が自信を持って愛せるようになりたかったのは、俺の意中のひとっていうのは、あんただよ。ファウスト。俺、ファウストに恋してる。ファウストだけに恋してる。あんたの傍にいて、あんたにずっとずっと恋してた。好きだ。好きなんだよ。好き。ごめん……。だからって、これ以上どうこうなりたいとも、こんなこと打ち明けようとすら、本当に、思ってなかったのに……ごめん、さいていだ、俺、ほんとにうれしかったのに、あんたが俺の傍にいたいって言ってくれて、友達だって、愛してるって、それがほんとに、ほんとに嬉しかった、の、に……」
ファウスト、とネロの声が呼ぶ。ぱた、と雫になって彼の腕に落ちる。
透明で儚い、彼のきれいな雫、が、ぽたん、ぽたん、と小さくいくつも彼自身の袖に染みを作っていく。ファウスト、と濡れた声が細く呼ぶ。ファウストを呼ぶ。擦り切れそうな声は、――ファウストを。
「一緒に行くよ」
ファウストは地面を蹴った。
がば、と体重をかけて、反動で引き戻される動きのまま、今度は腕の中に捕まえたものをこちら側へぐっと引き寄せた。どっどっと心臓が鳴っている。心が跳ねる。目の前が、白飛びする。眩しかった。
「きみが僕に恋をしていても、僕はきみと一緒に行くよ。謝らないで、ネロ。だってお互い様なんだ。僕もきみが好きなんだから。ずっと好きだったんだから。きみの傍にいて、きみの友達でいながら、きみのことを好きだったんだから。僕はずっと、本当にきみを愛してた、だけどそれと同じくらいに、ずっとずっと、きみに恋をしてたんだよ。だからきみと一緒に行く。手も繋ぐし、傍にいたいっていうのも取り消さないし、きみの部屋に行って、今日はきみの作ったオムレツと紅茶と、りんごジャムたっぷりのクレープが食べたい。ネロ。ネロ。……だいすき」
地面を蹴った、ファウストはネロの首に飛びついたのだ。思いっきり抱き締めて、たたらを踏んだネロの身体を、後ろへ転んでしまう前に自分の方へ引き戻した。ぎゅうっと抱き締める。抱き締める。ネロ、と呼ぶ。耳許で呼ぶ。ぴくんと跳ねた彼の身体が、嫌悪を表しているわけじゃないことはもうすっかり分かっていた。その証拠にネロの両腕は、怖ず怖ずと、けれど確かに、ファウストの背を這った。くしゃ、と肩の後ろで紙袋が鳴る。温かい力がじんわりと背中を圧しつける。
ファウストは、ネロに抱き締められていた。
「……!! ファウスト……っ、ファウスト、ファウスト、ファウスト、ファウスト……!!」
「あ、ははっ……ネロ……!」
一瞬だけ見えたネロの顔は、見たことがないくらいにあどけなくて、日差しを一身に浴びる美味しい果物みたいに、赤くって、きらきらしていた。すぐに頭ごと抱き潰されたから見えなくなってしまったけれど、それでも嬉しそうなネロのことが、ファウストも嬉しくて、思わず笑った。
ひゅうっと、高い音が空気をつんざいた。――口笛だ。そしてそれを皮切りにぱちぱちぱちぱちと、いくつもの乾いた音が辺り一帯に湧き上がる。
俄かに二人を取り囲んだ割れんばかりの拍手の合間から、まったく聞きも知らない声が、やはりいくつもいくつも飛び上がった。ブラボー、おめでとう! 通りすがりのひとびとが、まったくわけもわからないだろうに抱き合う二人を口々に囃し、茶化し、真っ直ぐな言祝ぎをくれている。ああ、なんだこれ。なんだこれ? なんて愉快で、なんて気恥ずかしくって、なんて滑稽な、一体ここは、なんて鮮やかな世界だろう!
足の浮いたファウストの身体を抱き竦めたまま、ぐるぐると映画のワンシーンみたいに回り躍ったネロが、そっとファウストを地面に下ろしてくれてから、照れくさそうに笑って俯いた。ややあってちらっと上目遣いに顔を上げると、〝ありがとう〟と、口の動きだけで周囲からの祝福に礼を述べた。答えるように、人の輪がまた温かく拍手と指笛の音を沸かせる。
こういう雰囲気は得意じゃないだろうに、律儀でなんだかんだ人からの好意に弱いやつなのだ。やっぱりファウストはこんなネロが好きだと思って、またこのおかしな雰囲気に酔い始めていたこともあって、心のまま、桃色に染まる愛しいほっぺたにキスをした。気のいい街中がまた歓声を上げて、ネロはべた惚れの恋人と交わしたファーストキスへの反応とはおよそ思えないような、たとえるなら轢かれる寸前で側溝に飛び込んだものの暗がりでおばけに出会って驚いて頭をぶつけた蛙みたいな、ものすごくあわれで色気のない、堪らなく可愛い悲鳴を上げた。
いちごミルクのラプソディ
