ネロが、ソファに座って手の中の小物を弄っている。
切れた革紐を何回も結び直して、壊れた金具を何遍も取り替えて、何年もずっと根気よく使っている天然石のストラップだ。ころん、とメインの座に据えられた薄紅色のまろやかな石は、多少傷が入っているけれど、持ち主に大切にされていることがよく分かる。今だってほら、柔らかいクロスで、慎重な手つきで、憎らしいほど大事そうにその身を清められているのだ。
「……僕がいないときにやりなよ」
「あはは……いつもはそうしてんだけどな」
「じゃあ今もそうしろ」
ファウストが部屋の入り口に立ったまま言い放ったら、ネロは「もうちょっとだけ」と言って優しく笑った。
あの日の、ぐちゃぐちゃした感情や、青くさいにもほどがあった言動なんかをまるで鮮やかに思い出してしまうから、ネロが大事にしているストラップを見るのが、ファウストは少しだけ苦手だった。苦手といっても、嫌なわけじゃない。ただ、猛烈に気恥ずかしくなってどうしようもなくその辺をのたうち回りたくなるだけなのだけれど。
「……ファウストが、いてくれるからさ、」
キッチンに立ってコップへ水を汲むファウストに、ネロが相変わらず石を磨きながら話しかけてきた。自分自身の恥ずかしい記憶を辿るのはごめんだけれど、ネロから贈られる甘酸っぱい台詞ならファウストはいつだって大歓迎なのだ。今もまた甘い予感がしたから、水を飲む振りでにやける口許を隠しながら、いそいそと彼の言葉を待った。
「……だから、アミュレットとしての石は、ほんとはもうぜんぜん、必要じゃないのかもしれないんだけど。でも、これは……この石は、ファウストがくれたものだからさ。俺だってこれを見てると、まあその、いろいろ思い出すし、ものすげえ恥ずかしくもなるんだぜ? だけどさ……それでも、もしもあの日がなかったら、こんなふうにあんたと一緒にいられるようにはならなかったのかもしれないし。ましてや、あんたと恋人としていちゃいちゃしたりなんかは、一生できなかったんじゃないかって思えるし」
きっちり八分目まで汲んでしまった水を、飲み干すことをファウストは途中で諦めた。よろよろする手つきでシンクにコップを置き去って、溜息混じりに振り返ったら、うっかり目が合った。
「だから、あの日のファウストに感謝してる。それから、この石にも」
ネロは甘く掠れた声でそう囁いて。……指先に掲げたローズクォーツに、ちゅっと音を立ててキスを落として見せた。
「……………………」
「あっはは! やきもち?」
「そうだけど!?」
ファウストはつかつかと歩み寄ったソファに無言のままぼすんと座り込むと、揶揄うように笑うネロの脚を、がしがし蹴ったりばちばち叩いたりしながらやけくそみたいに喚いた。
「当たり前だろ!? ぼ、僕が……ちゃんとここにいるのに……! 思い出の石と、現実の僕と、おまえは一体どっちに恋してるんだよ……!!」
「あ、ははっ……えっと……あー……もー……かわいいな、ほんと、ファウスト、かわいい……」
「はぐらかすな……!」
本当に、恥をいくら過去に置いてきたって、またこの〝今〟に同じような恥を重ねてしまうんだ。この何年間、実際のところまったくそういうふうにして、恥を塗り重ね続けてここまでやって来た。だから少なくともファウストにとって、恋とは畢竟恥の歴史にほかならないのだけれども、それでも、そんなファウストの葬りたい記憶や、消し去りたい言動のひとつひとつを、ネロはきちんと覚えていて、それでいて大切に大切に、していてくれるのだ。
それは、今やファウストが見たくもないローズクォーツを、ずっと優しく手入れしてくれているのと同じように。また、自分の口から飛び出す恥ずかしい気持ちを、受け入れられず汚点だとしか思えないファウストのことを、甘く笑って〝かわいい〟と言って、愛おしげに抱き締めてくれるのと同じように。
ネロはまるで、ローズクォーツみたいに。ファウストの言葉を受け止めて、ありがとうって、嬉しいよって言ってくれる。ネロがファウストをけっしてばかにしないから、ファウストも恥ずかしい自分のことを、少なくとも、嫌いでは、ない。どうしたってままならなくて、怒ったり悲しくなったりすることはあるけれど、でも、ネロはそんなファウストだったからこそ、愛してるんだよって抱き締めてくれるから。
「あはは……あー……かわいい……あんたに決まってるじゃん、俺が恋してるのなんて。ずっとあんただけだよ。ファウスト」
「ふんっ……どうだか」
「ええー……」
ネロはしょぼくれたみたいに肩を落として、薄紅色の石をそうっとローテーブルに置くと、まるで眠っている猫の背中を撫でていいものかどうか悩むみたいに、怖々した手つきでファウストの手に手を重ねてきた。ファウストは仕方がないから、手の甲をくるりと返してやって、ネロの手のひらと自分の手のひらとが合うようにしてやる。指と指とがゆっくりと、絡んで、いわゆる恋人繋ぎという形になる。へえ。……嬉しい。
けれど手を繋いでしまったら、もう抱き締めてはもらえないってことだ。それに、こんなにものんびりした夜で、ほら、お互いシャワーだって浴び終えているのに。今夜はこれで、終わりになってしまうってことなんだろか。
ネロが隣にいるのに、確かにファウストへ恋心すらも向けてくれているのに、それでも満たされないような気持ちになることがあるなんて、想いが通じ合う前には想像もしなかったことだ。ソファの上で膝を抱えて、ファウストがきゅっと背中を丸めたら、ネロが繋いだ手に力を込めて、遠慮がちに顔を覗き込んできた。どきりとする。
「……ファウスト?」
「……ネロ……。……今日は、したくない?」
思い切って訊ねたら、ネロはぴくっと身体を跳ねさせた。ぎゅう、と繋がれた、手の角度が変わる。ネロの身体がこっちにぐうっと迫ってきて、ファウストはそれに慄く間もなく、優しい腕に抱き留められていた。
ぴったりと、胸と胸とが合わさってる。とくん、とくん、ファウストの恋心は、跳ねて、ネロに早くここへ触ってほしいって叫び出す。待って。ネロはなにか言葉をくれる筈なんだから。もう少しだけ、おとなしくして。まるで自分のものじゃないみたいにいつでも好き勝手に騒ぐこれを、ファウストは必死に胸の中で宥めようとした。ネロの匂い。お揃いの石鹸の香りの奥から、仄かに香る。ネロの吐息が首筋にぴたりと触れる。失敗する。御者の手を振り切った恋が、ばくばく暴れる。
「したくない……ってことはないよ。だけど」
ネロが小さな声で言った。この世界で、この部屋の中で、ファウストにだけ届けばいいのだから当たり前だ。そのくらいの、小さな声。ファウストのための声。ファウストはどきどきして、くらくらして、ネロのきっと優しい筈の言葉の続きを待ち望んだ。
「今、この会話の流れで誘っちまったらさ……まるで、俺はセックスがしたくてあんたのことを選んだみたいじゃん……。思い出とも石とも、セックスやキスはできないから、だからっていう理由で、現実のファウストを選んだみたいになるじゃん。そうじゃねえんだもん。違うもん……俺はキスもセックスもしなくてもファウストがいいよ。ファウストと一緒に生きたいから、ファウストの傍にいたいんだよ。それをあんたにもちゃんと知っててほしいんだよ。だから……だから今は」
俺からはさそえない、そうネロは言った。
どくどくどく。ばくばくばくん。ファウストのこいごころは歓喜に跳ね回っていた。すき。すきすきすきすき。ネロがすき。さあ今、また恥の歴史を上塗りしよう。もうどうだっていい。それでも、いい。どうせ、どうしたって、ネロだけは、ファウストが今から紡ぐこの時間を、どんなに恥ずかしいものであろうと大切にしてくれる筈なんだから。
「……そんなの、知ってるよ。僕はちゃんと知ってる。ネロがセックスするために僕といるわけじゃないことも、僕のことを本当に好きでいてくれてることも知っているし、僕が今もこうしてきみの傍にいるからこそ、僕との思い出の品を大事にしてくれていることも、わざと僕の目にも見えるようなやり方で、ローズクォーツを大切にしようとしてくれているってことも分かってる。ちゃんと分かってるよ。それは、ネロが、いつも僕に丁寧に伝えてくれるから。誤解を生まないように、不安にならないようにって、いつだって言葉を尽くして伝えてくれているから……。
だから、だからね、分かっているから、そのうえで……僕は今夜、きみと、抱き合いたい……それで、それから、きみといっしょに……くっついたまま、朝までふたりでねむれたなら……」
しゅおしゅお、失敗したシュークリームみたいに萎んでしまいそうに、なる。ファウストは必死でネロの背中に、それから繋いだ手のひらに縋りついた。
大丈夫、失敗なんかじゃない。ネロはちゃんと聞いてくれてる。どんな情けない言葉になろうとも、ファウストが伝えようとするかぎり、ネロは真剣に聞いてくれる。それを示すみたいに、彼は縋りつくファウストの指を、ぎゅうっと丁寧に、まるで一本一本、存在を確かめるみたいに、優しく握り返してくれた。
「……ふぁうすと」
ネロが、丁寧なカスタードクリームみたいな声で、ファウストのなまえを呼ぶ。
ぎこちなく固まるファウストの、髪や、背中を、ネロの手が何度も撫でさすってくる。……慰められている? ファウストは思い至って、愈々鼻白んだ。こんなみっともない自分に、そんな丁寧なフィリングはやっぱり不釣り合いなのだ。俄かに変な自尊心が奮って、ファウストは手を突いて彼の胸を押し遣った。
ゆっくり、拳一つ分くらいだけ離れたネロが、俯くファウストの頬をそっと撫でた。
何度も根気よく擽られて、それで漸く、ファウストはふと視線を上げた。ネロは一瞬も遅れずにそれを受け止めて、ふや、と蕩けるように微笑む。ネロの綺麗な瞳は、欲情していると、不思議に少しだけ色が濃くなるように思う。そして、今もそんな色になった深い琥珀色のまなざしは、とろりと重たげに輝いて、ファウストの目の奥を覗き込んだ。
「うん……ファウストが、そう言ってくれるなら。嬉しいよ。俺も、今日はファウストと抱き合いたいな。いっぱいいちゃいちゃしよう。……朝まで」
ファウストはびくっと身体を震わせてしまった。朝まで、って、いったいどっちの意味だろう。朝まで隣で眠ってくれるってことなのか、それとも、……朝まで、ねむらずに、……。
顔を熱くするファウストのことをひたむきに見つめて、ネロはとびっきり甘ったるく笑う。まるで黄金色のはちみつが、とろとろと手足の自由を奪いながら絡みついてくるみたいだ。繋いだ手をそうっとほどいてゆきながら、ネロはファウストの指先、指の股、手のひらを、淋しさなんて一陣たりとも吹き抜けさせないと言うみたいに、ぴったりと愛撫してゆく。
「……ね、ろ……」
「……ふぁうすと」
掠れた声が、甘い囁きと指一本分の距離でぶっつかった。期待に震える瞼を下ろしたら、少しだけ、ネロは待ってくれて、それからそうっと、唇が重なった。
よろこびが溢れた。やわく触れ合っているだけなのに、きもちがよくて仕方がない。やがてネロの手は、ファウストの手のひらから、手首の内側を辿って、寝巻き越しに腕を這い上ってきた。その感触はあったかくて、気遣わしげで、たったそれだけでファウストの身体はぞくぞく震える。キスでやわらかく縛りつけられたまま、服の上から背骨を探るみたいになぞられたり、薄っぺらい胸をそっと撫で下ろされたりして、ファウストはネロに慈しまれる。
器用にたくし上げられたネグリジェの裾から、いつの間にか手が滑り込んできて直に太腿を撫でるから、びっくりした。一瞬、緊張してしまって、それでもすぐに力を抜いて、ファウストは、自分のいいところのひとつに触れてこようとする指を受け入れる。料理をするネロの硬い手のひらは、いつでもひどく優しくて、とろけてしまいそうな優しさのまま、ファウストにみだらな快感と熱の知り方とを教え込む。
ネロの手の許そうとしてくれるまま、少しずつ、欲を解放していって、ファウストも、ネロの身体に触れる。背中にぎこちなく縋りつきながら、少しだけ、舌を差し伸べたら、ネロは浅く絡めて応えてくれた。猫が毛繕いし合うくらいの淡さで触れ合っているだけなのに、泣きたくなるほど心地いい。内腿を執拗く擽る手のひらがどんどん熱くなっていって、ああ、背中や肩を撫でてくれる温度のことも、はやく、早く直に知りたいと、思う。やわらかいクリームみたいなキスが、ほどけてゆく。甘い吐息が、まなざしが、キスの代わりにファウストのこころをどうしようもなく縫い留める。
ネロがゆうっくりと、覆い被さってきて、ファウストの背中はずるずるとソファにしなだれた。熱くなったネロの身体が、ファウストの同じように火照った身体をぎゅうっと折り畳むみたいにして、全身をまるごと抱き竦めてくれる。ああ。うれしい。嬉しい。嬉しいと思っているうちに、いつの間にか身体がふわっと浮いていた。
思わずぎゅっと目を瞑る。ファウストは、ネロに横抱きにされていた。身体がくるりと揺れて、たぶん、ネロはソファから離れていく。どくんっと、また跳ね上がった鼓動が、風呂上がりの皮膚に汗を滲ませていた。
びっくりした。……恥ずかしくって目が開けていられなくて、ファウストは咄嗟に開き直ろうと躍起になった。嬉しくて抱き返しかけていた腕を、さも自然な流れを装って彼の首へ回し直す。あたかも最初っから彼の行動を読んでいて、自ら高飛車に抱き上げられにいってやったんだとでも言うみたいに。ネロの吐息がうなじを擽る。こんなファウストに、まるで、大好きって言うみたいに、あどけなく笑ってくれている。
屈託なく甘やかされたら、却って恥ずかしさは増してしまうのだ。ネロの首にしがみついて、ファウストは熱い額をその辺りへぐずぐず押しつけた。ネロが耳許で、ふふっとご機嫌に吐息を揺らす。ファウストはほんの小さな溜息とともに、すっかり諦めて肩の力を抜いてしまった。……こうして暫く目を閉じて拗ねていたって、だいじょうぶなんだと知っている。どれだけ気をゆるめていたって、自分がここから突き落とされることも、放り出されることも、暴かれることも痛めつけられることもないんだと、ファウストはちゃんと知っている。
だってここはネロの腕の中なのだ。誰のことも傷つけようとしない優しいネロの、誰にだって優しいけれどファウストにだけ恋をしているネロの、恋をしてもずっとファウストに優しくしてくれるネロの、ファウストが世界でたったひとり恋をしたネロの、ほかの誰でもない、ネロの、ネロの腕の中なのだから。
穏やかに揺れるリズムに合わせて、とん、とんと、優しい足音が生まれてく。柔らかなベッドはもうすぐそこ。その上へネロが、ファウストの身体をうんと優しく、横たえてくれるまで、きっと、あと少し。
いちごミルクのラプソディ
