ネロファウ

雨雫で世界を編もうか

「なにしてんの、あんた……」
 ネロは思わず惚けた声を上げた。
 ファウストが傘を閉じたからだ。勿論、まだ雨は降ってる。さあさあと雨滴が銀糸を引く中、屋根もないのに、ネロの目の前で、ファウストは差していた傘をいきなりなんの脈絡もなく閉じたのだ。
「言っておくが、僕は別に濡れるのが好きなわけじゃないからな」
 茫然とするネロに向かって、ファウストははっきりとした口調でそんなことを言った。は? ……ますますわけがわからない。ネロは取るべきリアクションも入れるべきフォローもまたは突っ込みも、何一つ把握できずにいた。
 途方に暮れたネロがぼうっとしている間にも、ファウストの身体はどんどん濡れていく。帽子を被っていない髪の毛も、マントにマフラーよりは軽装である筈の練習着も、しっとりと重さを増したかと思うと、見る間にぽたぽたと雫を落とし始める。サングラスもまるで窓ガラスみたいに、濡れてかわいそうなことになっているけれど、ファウストは頓着していないのか、それともほかに訴えたいことがあるのか、分からないけれど、その雫越しにネロを真っ直ぐに見ていた。
 上手く目は合わなくて、ネロはとにかく……狼狽えた。
「な、なに……どうしたの。なんかあったの?」
「……傘が壊れたんだ」
「嘘じゃん……。いや……嘘じゃなくて……?」
 なにしろあまりにも唐突なことで、彼らしくもない仕草だったから、ネロにはなにが本当でなにが嘘なのやらさっぱり読むことができなかった。咄嗟に彼の言うことを否定してしまって、いや状況も分からないのにそんな決めつけはあんまりだと思い直して、慌ててふわっと誤魔化した。ファウストはそれには答えずに、ふらふらと所在なさげに視線を外すと、そのまま先に立って歩き出してしまった。
「えっ、……待って。ファウスト、ファウスト!」
「……なに」
「これ、こっち使いなよ。両手が塞がって邪魔ってんなら、壊れた方は俺が持っとくからさ」
 我に返ったネロは漸くファウストの背中に追いつくと、自分の差していた傘をまるっとファウストの方へ差しかけた。当然、ネロの身体はそれと引き換えに濡れそぼり始めるけれど、ファウスト一人を冷たい雨に打たせておくのなんかよりはずっといい。ファウスト曰く壊れたという傘を、受け取ってやろうともう一方の手を伸ばしたら、しかしなぜだかファウストは、慌てたみたいにそれを後ろ手に隠してネロから遠ざけてしまった。
「……」
「……これは……自分で持っておく」
「あ、そう。いいならいいけどさ。……でもほら、こっちは受け取って。これ以上濡れたら、なんていうか、かわいそうなことになるよ。もうなってるし……」
「傘を僕に寄越したら、きみが濡れるだろう。きみだってかわいそうなことになるじゃないか」
「や、俺はいいから」
「きみは、」
 ファウストが思い詰めたような声を出すので、ネロは畳みかけようとしていた言葉を呑んだ。
「……きみは、どうあっても僕と同じ傘には入りたくないようだな」
 曇ったサングラスと、濡れて張りつく髪。傘の影が青く落ちていて、滴る雫をぶっきらぼうに舐め取る唇の小さな動きくらいしか、顔に出た表情は読み取れない。
 けれどその声はとんでもなくふてぶてしく、大仰で、つまり聞くからにとてつもなく拗ねているに違いないと分かるものだった。
 ネロは盛大にひっくり返りたくなった。なんだそれ。そういうこと? ネロがいつだったか相傘を断ったのを、今の今までそんなにも根に持っていたということなのか。あのとき傘を失って、濡れていたのはネロの方だった。それならネロがファウストの傘に入らなければ済んでしまうことだから、だから、今度はファウストは、自分が傘を捨てて、それで――こんなときならネロは果たしてどう出るのか、確かめようとしたってことなのか?
「……や、……えっと」
「もういい」
 果たしてネロは、自分の傘をまるっとファウストに譲ることを選んだのだ。そしてその選択はどういうわけだか、先生のお気には召さなかったらしい。呪い屋の心なんてネロに分かるわけがない。ちょっといいなと思ってる相手からなんの含みもなく相傘に誘われて、断ることでしか彼に対して誠実であれなかった男の心を、ファウストが砂の一粒ほどにも分かりっこないのと同じように。
「これで分かったよ。きみといるときには絶対に、傘を手放してはいけないんだということが。僕だってわざわざ移動の度に好き好んで濡れそぼりたくはないし、かといってきみの傘を丸ごと譲られて代わりにきみに濡れさせるのも、自分だけ濡れて行って隣で傘を差すきみに気まずく思われるなんてのもごめんだ。だから僕はほかのなにを見捨てたとしても、自分の傘だけは守り抜く。きみと歩かなければならないときにはなにを差し置いても絶対にな」
 言っていることは明らかにふて腐れていてめちゃくちゃなのに、ファウストの声は、なんだか静かな決意でも秘めたかのように、格好よかった。黙って恨まれなくてよかった。言葉にして怒りをぶつけてもらえて、顔に出して拗ねてもらえるなら御の字だ。
「……あるいは僕が傘を手放すと同時に、きみの傘もぶっ壊す」
「おっ、二人で敢えて濡れて歩くってのも、なかなか乙だろな」
「乙なもんか。ただのばかだよ、そんなのは」
 ファウストは、ちょっと淋しい詩歌を諳んじる人みたいに、呟くと、ネロから遠い方の手にぶら下げた傘を、ぐるんぐるん大胆に振り回した。これまた普段の彼なら絶対にしない、遣り切れない感情を持て余す子どもみたいな仕草。流石に五、六回転振り回したところで収めて、何事もなかったかのように再びすたすたと歩き出す。ネロの差しかけた傘を受け取らぬまま。
 一人で濡れて行く、ファウスト。きっと壊れてはいない傘を頑なに畳んだまま、片手にぶら提げて、いつものように背筋を綺麗に伸ばしたまま、白銀の雨足に霞んでいく。
 ネロの爪先はぱしゃんと水溜まりを跳ねた。
 ファウストは足を止めた。足音に振り向く彼と目が合う前に、ネロは。
 ――肩くらいは、少し濡れているかもしれない。けれど、髪の毛には雨が当たらない程度まで自分はその下に収まったまま、もう一人、誰かがぎりぎり入れるくらいの場所を空けて、青い陰を半分、傾ける。
「入りなよ。……見てられない」
 ネロは雨音に掻き消されないように、囁いた。
 ファウストがびっくりしたみたいに顔を上げる。その表情を見た瞬間、さっきまでの鬱屈が嘘のように、ネロの胸には愉快な気持ちがいっぱいに込み上げた。なかなかこっちへ寄ってこないファウストの方へ、えいっと自分から一歩、歩み寄る。傘が揺れてぱらら、と雨滴が落ちる。まるで二人のことを世界から切り取るカーテンみたいに。……なんて。鳶色の癖っ毛がくしゃくしゃにへたってしまったファウストの頭も、ネロのと同じように今、この傘の下へ入って、雨を免れた。
 ファウストはますますびっくりしたみたいに、大きな目をもっと大きくしてネロの顔を見上げてきた。ネロは、なにか言いたいことがあるならどうぞと、にやける口許をそのままにして、煽るように小首を傾げて見せる。ファウストは慌てたように口を開いた。
「……いいよ。僕は濡れるのが好きなんだ」
「濡れるのが好きなわけじゃないって、さっき自分で言ってたろ」
「……そ……それは……えっと」
 いきなりごにょごにょと遠慮し始めたファウストのことが、おかしくて、でもだめだ、それ以上にかわいく思えて仕方がなくて、ネロはによによと際限なくゆるむ唇から、堪えきれずに微かな笑いを溢した。
「……いいから。ファウスト。ほら、もっとこっち」
 傘の柄を持ち替えて、空いた方の手でファウストの腕を掴んで引き寄せた。肩を抱き寄せるみたいな真似は流石にできなかったけれど、濡れた服越しに触れた手のひらが、邪な恋情なんかじゃなくて優しい親愛の熱で、ファウストの冷えた肌を少しでも温めていたならいいのにな。
 ファウストは、こっちがびっくりしてしまうくらいに真っ直ぐにネロの顔を見つめている。こんなのどう転んだとしたって、確かに〝いい雰囲気〟になんてとてもなりそうにない。そのことを惜しく思わないわけではないし、恋が叶わない痛みは淋しく胸を衝くけれど、ネロは、こんなふうに自分のことを見てくれるファウストで、よかったと思った。
 照れくさく思いながら竜胆色の瞳を見つめ返していると、ファウストははにかむ様子もなく少しも目を逸らさないまま、けれど、胸の内でなにかがほぐれだしたようなあどけなさで、彼の目の前にいるたった一人に向けて、やわらかく微笑んだ。
「……ありがとう。ネロ」

 これ以上、手は伸ばさない。伸ばせない。
 ネロとファウストは、〝そんな雰囲気〟になるような二人じゃないから。
 肩が触れ合う距離で、囁き合うようなことはなにもなくて、お互い世界に二人きりではいられないことを、嫌というくらいに知っている。
 けれど、この傘の中の世界は。優しい青色が落ちる、呼吸が安らぐ、歩調の違わない心地いい、とてもとても小さな世界は。ネロの隣にファウストがいるからかたちづくられるもの。きっと、ファウストの隣にいるのがネロだから作り上げられているもの。
 あんたと俺の、なんだ。

 二人だけのものなんだ。

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