立ち往生している目の前で、見る間に雨足が強くなる。
やってしまった。雑貨屋というのはどうもいけない。雨の街というのもよくない。前者はファウストの時間を狐につままれたみたいに溶かしてしまうし、後者は雨雲のかからない地形の所為で降雨への予測を立たせてくれないからだ。
まあ狐というか猫なんだけど。
それはどうでもよくて、とにかくファウストは身動きできなくなった。店の戸を開けたとき、店内にいては気づかぬほど静かにぱらついていた霧状が、息を呑んでいるうち、あっという間にそこそこの〝雨〟に変わった。取り敢えず店の軒先で佇んで、今出てきたばかりの店内へ戻ろうかどうか逡巡する。
己の中の小さな恥と睨めっこしているときだった。
「ファーウスト」
間延びした、落ち着いた、楽しそうな、親しげな、つまりファウストにとってとてもかわいい声がした。
はっと視線を向けると、目の前の通りに、水色の傘を差したネロが立っている。買い物帰りだろう、バゲットの端っこや野菜の葉が覗く紙袋を、片腕いっぱいに抱えていた。
「傘、持って出なかったのか?」
「いや。たぶん、途中で誰かに持っていかれた。この街で白昼堂々盗みを働くやつはいないだろうから、きっと自分のと間違えたんだろう」
「そっか。まああの色気のない蝙蝠傘じゃな」
「うるさいな」
傘で目立つ必要もないだろ、と頬を膨らませてみたら、ネロはへにゃんとした顔で楽しそうに笑ってくれた。青い傘に隠れていつもより少しだけ遠く見えたけれど、その気の抜けた笑顔は、ことんことんとファウストの心臓を温かく逸らせた。
「間違われたなら、持ってったやつの傘を代わりに使えばよかったのに……。しょうがねえなあ。優しい先生のことは、俺が連れて帰ったげるよ。一緒に入ろう」
傘、とネロは片手で差したその水色の陰を傾けた。彼の横に、ファウスト一人が入れるだけのスペースを空けて、やわらかい目で促してくれる。
ファウストは途端、酔ったみたいになって、うっかりそちらへ歩き出しそうになったけれど、はっとして慌てて踏み留まった。
「……ありがとう。でも、いいよ。まだ寄る所があるから」
残念だけれど、首を振る。珍しく穏やかに滞在できている雨の街で、まだ行ってみたい店が残っているというのは本当だった。待っていればじきに止む類の雨だろうし、荷物を持ったネロにわざわざ場所を空けさせるのも悪い。
「へえ……。なあ、そこって、俺が見てもいい場所?」
「……? なに……別に、悪くはないよ」
ネロの探るような言い方に、ファウストは面食らって目をぱちぱちした。別に呪具を取り揃えたいかがわしい店ってわけじゃない。寧ろ至って平穏な、強いて狂った点を挙げるとするならば、店主と少しの従業員が一様に抱く古今東西あらゆる猫グッズへの収集熱が、尋常ではないという、せいぜいその程度の平凡な店だった。魔法舎のほかのやつに隠すならともかく、ネロに対してはやましいことなんてなにもない。
「……じゃあさ、俺も一緒に、ついてってもい?」
やましいことはないが誘ったつもりもない。ネロが出した声があんまりにも穏やかで甘やかだったから、ファウストはびっくりしてしまった。慌てて、さっきよりもずっと激しく首を横に振った。
「きみは宿に戻るところなんじゃないのか。荷物も多いし、そこまでしてくれなくていい」
「けど、あんた傘ないんだから、一人じゃどっちみち動けないだろ」
「だから、ここで暫く待ってるから……」
ファウストは困った。ネロも、ファウストの向かいで困った顔をした。差している水色の傘の所為で、彼の顔色はすごく切なく見える。その表情にふと目を遣るだけで、ファウストの胸も締めつけられそうになってしまう。分かった、僕も帰るから、一緒に入れてと言おうとした矢先、けれど、ネロの方が一拍早く口を開いた。
「……俺と相傘は、嫌?」
ファウストは目を見張った。
ネロの声は悄気ていたけれど、けっして独り言じゃなかった。淋しそうだけれど、一人でそれを抱え込もうとするネロらしい声でも、まして自分の感情のことで他者に八つ当たりしようとするネロらしからぬ声でもなかった。それはネロの、強いて言うなら、ネロがファウストと共に育ててきた声だった。
ファウストに本気でその字面どおりのことを訊ねている。ファウストが首を振ると分かっている、とも言い切れない、ファウストが頷く可能性をも想定して、それでも口にした、そういう声だった。
ファウストは驚いたような、呆れたような、嬉しいような、怖ろしいような、残酷なような、泣きたいようなおかしいような気持ちをいっぺんに持った。全部ひっくるめて愛しいと名指す。そういう大雑把で大胆な括りをしておいて、会話の端々で〝かわいい〟と発露したい。そういう思いを持っている。ネロに触れながら知っていく。ネロに触れられて育ってく。だから、ネロが、傷つく可能性も傷つける可能性もいっぱいに含んだ質問を今、ファウストにしたこと、それが特別で、こんなにも眩しい。
ファウストは努めて不満げに、目を細めた。
「こないだまで嫌がってたのは、おまえだろう」
「……やだったわけじゃないよ。照れくさかったんだ。あんたのことが、好きだから……」
ネロが紙袋を抱え直し、傘を持ち直す振りをして俯く。跳ねた食材たちが重力に従う質感を見て、本当に魔法を使っていないんだなとファウストはしみじみする。なら、さぞ重たいことだろう。腕が疲れやしないだろうか。
「だから……」
ネロが呟く。持ってやりたい、と思った。
「……今は、一緒に歩きたいな。だめ……?」
ネロが顔を上げて、ファウストのことを真っ直ぐに見た。独り言じゃない声で言っていた。生徒が先生に甘える声にも、恋人が恋人に甘える声にも似て、懇願するような、願うみたいな、ネロがファウストと一緒に育ててきたやり方。
「っ……だめじゃない、……けど、」
ファウストの靴先は水を蹴って、手のひらがぎゅっと、傘の冷たさを感じている。
身を引きかけて踏み留まったネロの、肩口に額を押しつけて、顔を伏せた。
「……きみはずるいよ」
「あはは……、……ごめんな」
ネロの手がゆっくりと傘から離れて、ファウストの手にその重みを全て預ける。傘を揺らさないよう強くシャフトを握り締めたファウストの、震える背中に、自由になったネロの腕が回ったかと思うと、優しく抱き締められた。
「……別に謝るようなことじゃないし、それに、今はこうして一緒に歩くことができるから、もういいよ」
「うん……ありがと」
ぱらぱら雨が傘を打つ音。大きくない二人の声が傘の中に籠もって、全身を包むみたいに響く感覚。ファウストとの相傘を照れくさがったネロの、あのとき言った意味が、ファウストにはここ最近になって漸く分かってきた。ネロに恋をしてから知った。それはなるほど、照れくさいとしか言いようのない。
少しの間、静かに身体を寄せ合った。そろそろ離れようと顔を上げたら、そんなつもりじゃなかったのに、おでこにキスをもらえた。その瞬間、ファウストの胸の中には、ネロがくれるシュガーみたいなきらきらした星がいっぱいに飛び散る。驚いて身体が固まったから、照れた所為で咄嗟にネロのことを雨の中に突き飛ばしたりせずに済んだ。
「んじゃ、行くか。傘、持っててくれたら助かるよ。片手でこれ抱えてるのだるかったんだよな」
ネロがきらきら笑いながら、さっきまでファウストを抱いていた方の手で、食材の入った紙袋をよいしょっと抱え直す。ファウストも小さく笑って、二人の身体がちゃんと同じだけ収まるように、傘を持ち直した。
「どっち?」
「あっち」
ネロが楽しそうな声を作って訊ねてくれるから、その優しい気遣いが嬉しくて、ファウストも少しだけ素直に、弾む心を隠さないで進行方向を指差した。
レインドロップス・ステップス

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