――ファウストが今さっきした買い物は少しだったから、提げている袋も小さくてずいぶん軽いものだ。どちらの手に提げようか一瞬、悩んで、傘を持つ方の手首に引っかけた。傘を持つ手と、荷物を持つ手が同じ。そしてその手は傘を共有する相手から遠い方の手だ。不自然極まりない格好。相手から遠い方の手がまるっと荷物を請け負って、そのうえ二人の真ん中で傘を差していて、そしてネロに近い方の手が、すっからかんのまま二人の身体の間で所在なさげに揺れている。
ネロの方は見れなかった。歩き出しながら、どんどん恥ずかしくなる。なにしてるんだろう僕は、そう思って衝動的に引っ込めかけた手を、一瞬早く掴まれた。
照れくさくて死んでしまいそうになったから、俯いた。いや、違う。死んでしまいそうなくらい、嬉しかったんだ。
ネロはまるで初めっからそうするつもりだったみたいに、片手で自分の荷物を軽々抱えて、空いた方の手で、空っぽだった筈のファウストの手に焼けるような体温を与えていた。
だるかったんじゃないの、と揶揄うみたいに心の中で呟いた筈の声は、けれどもまったく違う意味を持って、自分の胸に響いた。だるかったのが、本音でも、嘘でも、ネロがそのどちらをも蹴っ飛ばして自分の手を握り締めにきてくれたことが、信じられないくらいに幸せだと思えたのだ。
胸がいっぱいになる。どうにか応えたくて、ネロの手の中で指をもぞもぞさせたら、不意に掴む力を強められて拙い動きを封じられてしまった。
「……にげないでよ」
そうして、呟かれたネロの言葉に、ファウストの頭は一瞬、真っ白になった。
けっして責めるような口調じゃない。けれど、甘えるというよりも、なんだか純粋に焦ったような声色だった。狼狽えてファウストが顔を上げると、至近距離で目があったネロは、確かに必死そうに眉根を寄せていた。いつの間にか足は止まっていた。
「嬉しいんだよ、俺。照れくさいけど、照れてるだけで、嫌なんかじゃちっともねえんだよ。あんたと同じ傘に入って歩けることも嬉しいし、あんたが俺と同じような意味で照れてくれてるっていうのが伝わってくることも、嬉しいし、手も繋ぎたい。……このまま繋いでたい。あんたから繋ごうとしてくれて、本気で嬉しかったんだよ。ファウスト。だからさ、お願いだから、やめようとしないで……」
ネロが、ファウストに優しくしようとして、けれど彼自身の気持ちを必死に訴えようともしてくる、その声を聞いて、ファウストは茫然と立ち尽くしていた。ぼうっとしていると無意識に、不自然な体勢で差していた傘がネロの方へ極端に傾いていく。両手が塞がっているネロはそれに気づいて、ファウストを見て、傘を見て、それからもういちどファウストを見て、やきもきしたみたいに「ね、濡れるよ、ファウスト」と声をかけてくれた。
だから我に返ったファウストが、濡れないようにもっとネロの方へ身体を寄せたら、ネロは自分で言ったくせに変にびっくりしたみたいに「えっ」と大きめの声を上げた。
「……なに」
「いや、あの、……傘……傾いてる、俺の方に……」
「……。……ああ……」
「……うん……」
ファウストは漸く得心して、屋根の取り分を二人に平等になるように戻した。ネロはほっと息を吐いて、けれどファウストは、ネロの方へぴっとりくっつけてしまった身体を離す気にはなれなかった。
「あのね、ネロ」
「うん……?」
「手をほどくつもりだったんじゃない。もっと、ちゃんとしたかっただけだ。……指を絡めたかったんだよ。下手くそで悪かった」
「…………へ」
悪かった、の一言は謝ったんじゃなくて拗ねるつもりで投げつけた。ちっぽけな八つ当たりを鼻の先で受け止めて、ネロははちみつみたいな色の瞳をキャンディみたいにまんまるく見開いた。間抜けで甘ったるくて、かわいい顔だ。かわいい。かわいいな。憎らしくて、ファウストは本当にその綺麗な鼻先にでも嚙りついてやりたくなる。
「そっ……そう、なの……」
「そうだよ。そうだった」
「…………ごめん、早とちりを」
「もういいよ」
そっぽを向く振りをしてみたら、ネロの手が焦ったみたいにうごめいて、あっという間にファウストが作りたかった手の形を完成させてしまった。
ファウストの指の間に、一本一本、ネロの指が入り込んで、握り締めて、離さない。嬉しくて、ファウストも応えて、きゅっと自分の指を折り畳んだ。ネロの手の甲、指の付け根の出っ張った関節を、指先でくるくる撫でさする。吐息を揺らしたネロが、仕返しみたいに、親指で皮膚の柔らかいところを撫でてきた。擽ったい。嬉しくて堪らない。
「……はあ。そっかあ……いや、いつもと違う感じだったから、てっきりさ……」
ネロが本当に安心したみたいに、お腹の底から息を吐いて、ゆるゆると微笑んだ。ゆっくり歩き出す彼が、傘からはみ出てしまう前に、ファウストも追いかけて、隣に並ぶ。
ぴっとり、手を繋いで、くっつく。まるで、いたいけな友達どうしか、さもなくば初々しいカップルみたいに。
「……初めてだな。こういう繋ぎ方、するの」
ネロが果物漬けのシロップみたいに、とろっとはにかんだ声で言ってくれた。その表情がとても幸せそうだったから、ファウストも意地を張らずに、こくんと頷いた。
「してみたくなったんだ、本で読んで……」
「へえ……。恋愛小説?」
「ではないんだけど」
「そうなんだ。面白い?」
「わりと。もう少しで読み終わるんだけれど、そうしたら貸そうか。読む?」
「うん。あんたが気に入るようなものなら、俺も気になる気がする」
「そんな気がする」
くすくす笑って、穏やかに囁き合う。なんでもない会話が、心をささくれ立てずに流れていってくれるのは、当たり前のことじゃない。魘されるほどに知っている筈なのに、けれどネロの隣にいると、そんな奇跡がまるで当たり前みたいにファウストの目の前に現れる。肺を満たしていく。安らかな呼吸。
ふっと目が合うと、青い影の中で、ネロの瞳がきらきら瞬いていて、うわあ、すごく綺麗だなあと思った。ひとの睫毛が一本一本光っている様なんて、日頃あんまり観察しようと思うものじゃない。普通は意識すら向かない。それなのにネロの笑顔を見たら、ファウストの目は一瞬で、そういう光の一粒一粒全部に無意識にフォーカスしてしまう。ネロのどんなささやかな表情も何気ない仕草も、具に拾い上げて目紛しいほどに一々かわいいと思ってしまう。どうしようもなく。どうしようもなくそうなる。それは恋だった。ファウストが思うに、ネロにこうなるまでは生まれて一度もなったことのないこれ、これがファウストの恋だった。
「……誰に教わったのかなって、思っちゃった。……なんてな」
「……?」
「手の繋ぎ方」
ネロは相変わらずぱちぱちとシュガーみたいな光の弾ける笑顔で、変なことを言う。ファウストが正直に首を傾げたら、彼はそのシュガーを一個ずつ、温めたミルクに入れるみたいにして柔らかく消していった。
「本で安心した。って言ったら、冗談でも怒る?」
「……? ……やきもち、焼いてたってこと……きみが……?」
「……うん。はは。もしそうだとしたら、どう? しんどい?」
ネロはファウストの視線を受け流すように顔を逸らしながら、弱ったみたいに笑った。なにかを控えめに投げ遣ったような口調がいつものネロらしくて、けど、さっきから言っていることは、ファウストの目にはひどく新鮮なネロの姿として映り込んだ。
ファウストは溜息を吐いて、少しの呆れと重度の感嘆とを逃してから、繋いだ手をそっと握り直した。
「仮にの話なのか素直な話なのかどっちだよ。……まあ僕は、仮にの話じゃなかったら、楽しいなと思うけど。ネロがなにかに執着して、その対象が僕なんて、……信じられなくて、面白い」
「…………面白い…………」
「ふふ」
目を細めて、少しの身長差を見上げた。「かわいい、ネロ」口を衝くまま舌に乗せたら、ネロは困ったみたいだった眉をますます顰めて、唇をみゅっと噤んで、魔法舎の仲間に褒められてものすごく照れてるときみたいな顔になった。傘の青みがかった影の中でも、彼のほっぺたの色が真っ赤に変わっていることが分かる。素敵なことだった。
「……ほら先生、次の道どっちなの。まだ真っ直ぐでいいの?」
「ふふっ……ん、ここを左だ。たぶん」
「たぶんて」
俄かにきちんとしてる人ふうな声になって、ネロが年長者の素振りでファウストを急き立てる。けれどファウストはふにゃんとしたまま、いい気持ちで適当な指示をした。いい。うろ覚えの道でたとえ迷ったって、ネロとこんなふうに歩けるならそれもいい。呆れたふうな言葉で返してくるネロも、結局甘やかすみたいに笑って肩を揺らすから、きっとファウストとそう変わらない思いでいるんじゃないかと思えた。
触れているネロの肩に、ちょっとだけ、こめかみを乗せてじゃれてみる。歩きにくいし、ネロはあんまり人前でべたべたするのを好きじゃない気がする。けど、らしくないことをしているのはファウストだって一緒だし、それに、ほら、今の二人には傘がある。すぐに止むだろうと踏んでいた雨は、その実、未だたゆまぬテンポで降りしきる恵みの雨だった。初心な恋に浮かれる二人の大人を、まるで子どもみたいに優しく、抱き留めて、今だけはどんな煩わしい世界からも匿って、許してくれる、恵みの雨。
銀の雨糸が紡ぐ柔らかな繭みたいな世界の中、ネロは甘え返すみたいに、じゃれつくファウストのつむじに音を立ててキスをくれた。
レインドロップス・ステップス

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