「偽装?」
「そうだ。案外、見た目に騙されるものだからな」
たとえ相手が人型以外の魔法生物であっても。そう付け足すファウストの言葉に、クロエはふんふんと頷いた。
――東と南の魔法使いたちが、狩人の森へ怪物退治に行くことになった。クロエがそれを聞いたのはついさっきのことだ。窓の外が夜色になって久しく、子どもなら今しも夢の入り口へ立とうかという頃合いに、部屋へ訪ねて来たのがファウストだったからびっくりした。
ファウストは彼らしく丁寧に夜分の訪問を詫びた後、先の件についてクロエの耳に入れた。おそらく他の魔法使いたちには、明日知らされるものだったと思われる。それでもファウストがクロエを今夜中に訪ねて来たのは、件の討伐に関して、仕立て屋の自分に相談があってのことだった。
「今回の討伐対象である怪物――ブデラグロッサは、伝説によれば人間の生き血を何よりも好む。だから、なるべくそう見えないように、人以外の生き物に擬態できるような装備を作ってほしいんだ」
クロエに彼の依頼を断る理由はなかった。誰かが任務に赴くならば、どのみち作ることになった衣装だ。入り用を早めに知らせてもらえて助かったし、具体的なリクエスト付きというのもありがたい。クロエは純粋な興味を持って身を乗り出した。
「人以外に……っていうことは、森の獣なんかの見た目に似せた服を作ればいいのかな?」
「ああ、それがいい。……そして、特にうちの生徒三人には、念入りな偽装を頼みたい」
今回、任務を主に請け負ったのは東の魔法使いたち。舞台が深遠な森ということもあり、その中でもシノには前衛で動いてもらうことになるだろう。ヒースはそんなシノの働きの要になる。そして、場合によっては後方での治療や指揮に掛かり切りになることもあり得る自分の分まで、子どもたちのフォローへ回ってもらうかもしれないネロにも、彼らと同じく慎重な装備を。
ファウストは静かな声で注文を終えると、どこか自身の記憶を顧みるような表情で、伏目がちに視線を逸らした。
クロエはなるほどと頷く。森の獣に擬態する服。怪物に負けない威厳、且つ東の彼ららしい繊細さ、気高さ。毛並み。もふもふと。そういえばファウストは中庭で猫の世話をしているんだっけ……ヒースからお喋りがてら聞いたことのある情景を取り留めもなく思い浮かべながら、クロエは魔法で浮かせたティーセットをくるくると回す。今晩の内に大枠を決めておきたいと思って、珍しい客人に椅子を勧めて、お茶を淹れた。
スタンダードで美味しそうな茶葉の匂いが立つ。部屋に立ち込めるもてなしの雰囲気にお礼を言ってくれつつも、その香りにそぐわない話題を出すことにやや気後れしたような声で、ファウストは呟いた。
「……より直截的な方法としては、本物の毛皮を纏ったり、獣の生き血を肌に塗り込めたりという手もあるにはあるんだが……」
「……あー……ああ……」
それは、とクロエも、きっと目の前のファウストと同じような弱った顔をして俯いた。言葉を選び選び、探り探りに返す。
「今から獣を狩ってきて、生き血を抜いたり皮をなめしたりなんて、魔法を使ってもすごく大変な仕事になるよね? ……それに……」
切ない気持ちで喉を詰まらせたクロエの言葉を継いで、ファウストが頷いた。
「ああ。……気の優しいヒースにとっては、かなり厳しい方法でもある。心が乱れて、怪物と対峙する前に魔法の調子を崩してしまうかもしれない。
逆にシノは、そういう意味では考えや意志のしっかりした子だから、方法については割り切るだろう。寧ろ、ヒースやネロの分までも、自分が獣を生け捕ってくると言い出しかねない。実際、あの子にはそれを成すだけの力があるが……しかし、大掛かりな任務の前に、消耗させることは避けたい。シノ一人に働かせた成果を、二人がいい気持ちで受け取れるとは思えないしな。
そしてネロは、やれと言われればやるだろうが……僕が、あいつにやれと言いたくない。……そんなところだ」
頬を掻きながら明後日の方を向いたファウストの瞳、その色を見るまでもなく、クロエはほっと胸を撫で下ろした。知らず竦んでいた胸の中を、ゆっくりと寛げるように苦笑が漏れる。
「うん……たしかに、ヒースにとってはすごくつらいことかも……。それにネロだって、お料理するときに自分で鳥や獣を捌いてるけど、それはきっと、自分自身の手で調理する命に、きちんと責任を持ちたいからなんじゃないかな。そして、それってたぶん、命を貰うことに対して少しも心が動かない、ってこととは、必ずしも同じではないんだと思う……」
「……ああ。そうだな」
クロエが自身の胸許を撫でさすりながら、友人二人についての心当たりを紐解いてしんみり呟くと、ファウストは何か安心したように眉を下げて、口の端を優しい形に緩めた。
「……その点シノは、傷つくことにも傷つけることにも動じないところがある。あの齢にしては残酷なほどに……慣れ切っていると言ってもいい。自分が生きるため時には他者を殺す必要があるという、残酷で真っ当な理にな。
けれどもそれは、獣の世界の理だ。あの子にはこれからは、それ以外の術を教えてやりたい。奪わなくてもいいときには、奪う必要はないということ……奪わない道を模索したとしても、己も何も奪われずに生きていけるのだということを。そういう選択肢を、ここでは採れるのだと。ここは、獣の世界よりもより公平な意味での真っ当さを、もう一つの真っ当な選択肢として採ることができる場所なのだと。
ここではきみは獣としてではなく、一人の魔法使いとして生きていいんだということを。何度でも、何度でも、きちんと伝えてやりたいと思ってる」
ファウストの口調は穏やかで、けれども少しも淀まなかった。クロエに語るようでいて、彼自身が彼自身を確かめているようでもあった。ただ一つ、はっきりと言えるのは、クロエはそれを美しいと思ったということだ。ムルの好きなきらきら。シャイロックの謳う愛情、ラスティカの教えてくれた、幸福。そういう全てと同じように。
「うん……。シノも、ヒースも、ネロも。ファウストにすっごく愛されてる生徒で、それから俺にとっても、すっごく大切な仲間だよ」
クロエは目を閉じ、息を吐いた。
息を吸い込んで、瞼を開けた。
「だからさ……俺たちの愛がいっぱい伝わって、みんなを必ず、どんな弱さからも、どんな悪いものからも、身体も、心も、守ってあげられるような……そんなとびっきりあったかくて、強い服を作ろう! そのために、今日はもっといろいろ教えて? 物知りなファウストと、仕立て屋の俺で、みんなへの愛をちゃんと形にしよう。うん、きっとできるよ……あー、わくわくしてきた!」
クロエはしっかりと顔を上げて、ちゃんと胸を張った。声を出した。心からの笑顔で、東の先生の注文を請け負った。
ファウストの気持ちはファウストだけのもので、勿論それはクロエとは違う。けれどもクロエはクロエだけのやり方で、ファウストの大切な人たちと同じ人たちを、ファウストとは違う気持ちですっごく大切に思っている。愛情と愛情と、知識と技術が、生地の上で果たしてどんな模様を織り成し始めるのか、クロエには楽しみで仕方がなくなった。
「は? 別に僕は、……、……」
ファウストは、クロエの言葉にまるで老猫が今更顎を撫でられたみたいな、驚いた顔をした。ふうっと大きく見開かれた目が、サングラス越しに、けれどもあまりにも明け透けに、クロエの目を真っ直ぐに見つめる。
クロエはファウストの人となりについて、最近ではだいぶ分かってきていた。魔法舎で一緒に過ごすうち、その人嫌いそうな言動に反して、彼の心はとても優しい色をしているのだと気付いた。今も、彼がきっとこちらを値踏みしたり逆に警戒したりしているわけではないと、すとんと信じられるから、こんなふうにまじまじと見つめられても、穏やかな心持ちでそのまなざしを受け止めることができたのだ。
そして。
「……そうだね。愛しているよ」
やがてファウストは、クロエの思ったとおり――思い描いていたよりももっとまざまざと優しさを滲ませた顔で、そっと、繊細に微笑んだ。
「だから、僕の大切な子どもたちと友人のことを、任せられる人がここにいてくれてよかった。
クロエ。……ありがとう。きみの仕立ての腕と、そしてその優しい心を、僕もみなと同じようにいつも頼りにしている。面倒な注文をしてしまうことは申し訳ないが……どうか、よろしく頼む」
クロエは飛び上がりたくなった。
隣の部屋から、今すぐラスティカのチェンバロの音色が聞こえてきやしないかしらんと思った。目の前で真面目に頭を下げたファウストの、手を取って、二人で軽やかなターンを。お祭り騒ぎには、ムルのきらめきとシャイロックの優しさを。今すぐこの部屋に散りばめて。踊り出して。この素敵な夜に乾杯したい。
クロエは頷いた。大きく頷いた。
こんな人がヒースのお師匠さまで、本当に本当によかったと思った。
いっぱいになった胸を押さえ、浮かぶ笑みを浮かぶまま満面に乗せて、今日の喜びに、これからの幸せに、大きく大きく、頷いた。
ご注文はもふもふの愛
