ネロファウ

おおかみのきもち

 ファウストが気に入るから、偶に羽織るようにしている。
「わっ……ねろ……!」
「はは」
 今日も魔法でぽんっと着替えてやったら、出し抜けな俺の行動にファウストは肩を跳ねさせて、それから感激したように声を高く潜めて、ホットワインのグラスを両手でぎゅうっと抱えたまま、隣に座る俺の格好をまじまじと見つめてきた。
「……かわいい」
「あんたにそう言われんのももう慣れたな……」
「さ、触ってもいいか?」
「どーぞ」
 あんたのためのわんこだからね。そう茶化して笑ったら、ファウストは真に受けたみたいに「わあ……」と感嘆の声を漏らした。まるでプレゼントの包みを差し出された子どもみたいだ。きらきらした目で静かに俺を見つめながら、そろっとした動きでこちらへ手を伸ばしてくる。
 特別大サービス。俺はちょっと首を傾けて、自分の頭を自らファウストの方へ差し出した。先の任務で使用した、狼の姿を模した外套には、もふもふした豊かな毛並みと、ふこふこした綺麗な耳とが付いている。ファウストはこれを触るのが好きなのだ。ヒースやシノも、クロエが誂えてくれた同じような衣装を持っているけれど、流石に子どもには手を出さないまともで信頼の置ける先生は、もっぱらこうして俺のもふ耳をもふもふすることをもふもふ習慣としているのだった。もふもふ。
 ぴくっと固まったファウストは、すぐに仮初めの緊張を解くと、もふ耳に負けないくらいの柔らかさでふわふわと笑った。ああ、かわいい。かわいいな。かわいいよ。あんたがかわいい、一番かわいい、間違いなく。かわいいなあ……。
 飼い主に懸想するだめな犬を、そうとも知らずファウストは丁寧に慈しむ。勿論、単なる衣装なので感覚なんか通っていない毛並みを、それでも優しく、気遣わしげに撫で始めた。大切にされている。この場合大切にされているのは、毛並みを纏っている俺なのか、衣装を作ってくれたクロエなのか、この服が敬意を持って模している動物なのか、分からないけれど。でも、フード越しに確かに伝わってくるファウストの手のひらの感触は、彼が優しいというその事実でもって、俺の心までぽかぽかあっためてくれるみたいだった。
「……ねえ、ネロ。こっち見て」
「……うん……?」
 ふう、と一先ず満足げに息を吐いたファウストが、やにわに俺を呼ぶ。その声が明らかにとても近いところから聞こえていたから、俺は一瞬、言われるままにすることをひどく躊躇った。けれど、ファウストの声は柔らかくて、小さくて、何よりも穏やかで楽しそうだった。そんな声に背くなんてことしたら、たぶんこの人の心を、ささやかにでも傷つけてしまう。ファウストが傷つくのも、自分がファウストを傷つけたという事実を作るのも嫌だから、俺は躊躇いながらも、そっと顔を上げた。
 瞳が近いところでばちんとぶつかった。俺は、シュガーが目の前でいきなり弾けたんだと思った。そうじゃないということに、二、三度瞬きをしてから漸く気が付く。きらめいているのはファウストの瞳だった。晩酌を始めるときにサングラスを外してしまったまなざしが、遮るものを持たずにぴか、ぴか、と惜しげもない輝きを零していた。
 恋に落ちたと思った。
 もう何度目の感傷なんだか数えるのも忘れてしまったけれど。
 俺はファウストに恋をしたと思った。
「……狼の目、だな」
「……えっ」
 だから俺は動揺した。言い訳もできずに狼狽えた。俺が彼に劣情を抱いていること、見透かされてしまったんだと思ったから。
 だけど、そうじゃなかった。俺の目を至近距離でじっと覗き込んでいたファウストは、興味深そうに食らい付くようだった視線を、俺の反応を見てふにゃんと緩めた。
「アンバーの瞳。〝狼の目〟っていうだろう? 魔力を持たない種類の狼は、きみと同じ、綺麗でとろける夕陽みたいな、はちみつ色の目をしてるから」
 ファウストは茶目っぽく首を竦めながら、控えめに笑って見せた。砕いたキャンディをまぶしたマシュマロ、そういうイメージがふと浮かぶ。子どもがいとけない内緒事を耳打ちするみたいに、きらきらして、幸福な、実際の子どもの頃の俺は見たことのない筈の綺麗な景色が、さあっと目の前にいっぱいに広がった。遮る物のないファウストの瞳が、俺の目を真っ直ぐに見つめている。糾弾するためではなく、瑕を抉り出すためでもなく、ただ、〝綺麗だ〟なんていう、そんなわけの分からない感想のために。
 友達にいたずらを打ち明けるような表情で笑ったファウストは、それからちょっとだけ、声を低めて続けた。優しい顔で眉を下げたまま、まるで、冗談なんかじゃないよって柔らかく諭しながら、ぎゅっと俺の手を握ってくれようとするみたいに。
「綺麗だね。……けど、きみはあの獣みたいに、孤高でなくていいからね。ネロも……僕も、ここを新しい群れと思って落ち着いても、もうそろそろ、いいんだろうから」
 そういえば彼らは群れの子どもをとても大切にするんだって、とファウストが手癖悪くもふ耳を擽ってきながら付け足した。どこか、心ここにあらずという感じがするから、流石に先の自分の言葉に照れているのかもしれなかった。
「きみに愈々ぴったりだ、狼」
 両手で一心に俺の――狼の、耳の後ろを掻き撫でながら、ファウストは変な発言を重ねてゆく。変で、そして優しい声は、それこそはちみつみたいに俺の心をとろかして甘やかす。
 いっぱいいっぱいになった俺が目を閉じて、もうどうにでもなれと体重を傾けたら、「わっ」とファウストは驚いた声を上げた。この声、好きだ。最近こいつは俺が傍にいるときに気を抜きすぎるから、普段ならそこまでびっくりしなくて済むようなことにも、心構えが追い付いていなくて無駄に意表を突かれたような顔をするんだ。それが何となく、擽ったくて、それからかわいくて仕方がない。俺はどうやら、ベッドに倒れ伏さずには済んだようだった。降り掛かってきた体重を、驚きつつもそのまま肩で受け止めてくれたらしいファウストは、相変わらず俺の身体を退けようとはせずに、じっとしてくれている。
「じゃ、俺とあんたで番いってことになるのかな……それもいいのかな」
 冗談を装いきれなかった気がする声で俺が呟いたら、ファウストは、俺の大好きなとても真面目な声で、淀みなく、こう返してくれた。
「番いでなくたって子育てはできる。僕らはオオカミじゃなくて魔法使いなんだからな」
 ああ、まあ、うん。そうなんだよな……何だか脱力してしまった俺がへなへなと笑ったら、ファウストはぎこちなく身動いだ。でかいもふもふを肩口に抱えさせられているもんだから、毛並みがほっぺにでも当たって擽ったかったんだろう。それでも俺をベッドの上へ放り出そうとはせずに、どうにか受け止め続けてくれていることが、ちょっとだけ申し訳なくて、それから得難くて、嬉しかった。

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