「ネロ、〝がおー〟ってしてみて?」
「……はい?」
何の冗談、と言いかけた声は、クロエのあまりにもきらきらした視線を受けて喉許で霧散してしまった。
試着のために訪れた二人きりの部屋で、クロエは言葉とともに御丁寧な身振り手振りを付けてくれる。なるほど、このようにやって見せよという親切なレクチャーだ。西の授業がどんなものなのか詳しくは知らないが、うちの先生が西の先生役をそれなりに買っているので、質が悪くはないんだろう。それが証拠に今、ネロの目の前のクロエは、相手に要求せんとすることを先ず己の身体でやって見せているのである。そういうところは確かにうちの先生のやり方とも通じるところがあって、そうかこの子もきちんといい教育を受けているんだなあ。
「が、…………がおー……」
「ひゃーっ! かわいい!!」
脈絡ない思考で意識を飛ばしながらやりきったネロの項垂れるつむじに、間髪を入れず高い賞賛の声がぶっつけられる。しかしその台詞にネロは二度愕然として、あんぐりと絶句した。
「かっ……〝かわいい〟……!?」
「かわいいよ! 流石ネロ、着こなしばっちりだね!」
「い、いや、仕立て屋くんの腕がいいんだろ……って、そうじゃなくて……」
ネロは上目遣いに顔を上げると、クロエの華の咲くような笑顔を見た。その拍子に、自分に着付けられた擬似毛皮のフードが揺れて、そこから生えた狼型の耳が本物よろしくぴょこんっと震えたのが、さらにクロエを喜ばせたことなんかは当然知る由もない。
「怪物に襲われないために、強い獣に擬態するんだって話じゃなかった? だったら、〝かわいい〟ってのは……えっと……またの機会にした方がよくねえか……?」
気が優しく繊細なクロエを傷付けたいわけではないので、ネロはやんわーりと、探り探りに、言葉を取っては差し出した。子どもらはともかく、いい歳した自分がこんな〝かわいい〟お墨付きをもらった格好でみなの前に出て行くのは気が引ける。そういう本音を伝えずに、どうにかこの〝かわいさ〟を何とかしてはもらえないだろうかとネロは目論んだ。
けれど、ネロがかわいいということをとっても素敵なことだと信じ込んでいるクロエの心に、その真意は届かない。「それは大丈夫!」と仕立て屋の頼もしい笑みで、ネロにとっては全然大丈夫じゃない答えを返してくれた。
「ブデラグロッサ……だっけ? 今回ネロたちに討伐してもらう怪物は、何より生きた人間が好物だって話だから。ぶっちゃけ、似せるなら狼でもうさぎでもいいんだってさ。狼を選んだのは俺の独断……今回、ネロたちと動くのは東の狩人さんなんでしょ? 強くてかっこいい彼女たちの隣で、みんなにも自信を持って一緒に闘ってきてほしくてさ……えへへ」
はにかんだような笑みでそんなふうに呟かれてしまったら、もうネロには受け入れる以外の道がなかった。たとえその先が崖だと分かってたとしてもやけくそで飛び込んでやりたいような気持ちにもなる。なるだろうか。そこまで言ってしまったら、物の例えだとしてもうちの真面目な先生に眉を顰められてしまうかもしれない。
まあ、落ちたとしても魔法でも何でも使って這い上がって来ればいいのだ。這い上がって、心配性を心配させないよう、何でもなかったふうにおどけて見せてやればいいだけだ。
……どうせ、落ちると思った先にはふかふかのマシュマロみたいなクッションがいっぱいに敷き詰められていて、ネロを〝素敵〟にしてくれたクロエや、自分とお揃いの衣装を誂えられているというヒースやシノや、それから最近ネロを〝かわいい〟と言うことに注力しているおかしな友人兼先生が、かわいい格好したネロを揶揄いでも何でもなく心の底から素敵だねと言って、ネロにせがんで、果てしなく広がるマシュマロで脈絡もないティーパーティなんておっ始めたがるに決まっているのだった。
「……獣の擬態、衣装の造形だけでどこまでできるかちょっと不安だったんだけど……これなら全然問題ないね。あとはファウストに、相手の嗅覚を混乱させる魔法を掛けてもらえば完璧だよ!」
改めて、ネロの格好を全身見回したクロエが、ほっとした顔で一人頷く。仕立て屋の仕事をやり遂げたという誇りと、高揚感と、そして彼自身の優しさのために、穏やかでありながらもいつまでもきらきらと光彩を放っているような、それは不思議な微笑みだった。
クロエの笑顔をどこか遠い気持ちで眺めながら、ネロは暫し茫然としていた。茫然とする中にもふと疑問が湧いたのは、ゆっくりめに二呼吸した後のことだ。
「……え。ファウストの魔法があるなら、服は擬装しなくてよかったんじゃねえの……?」
「あっ……そんなことないんだよ!? 気分って大事だし、似せた衣装を見ながらだと擬態魔法も掛けやすくなるんだってシャイロックが言ってたし、それにジュラの森は寒冷地だって聞いてるし……だ、だからさ、やっぱりそれ着てよー! ね、ネロ。お願い!」
まろやかに収まりかけていた気持ちが何やら胡散くささを訴え始めてネロは頭を抱えた。
邪気はないものの、小さないたずらがばれちゃったとはにかみながら懇願するクロエの姿に、果たして己が身に纏わされたこれは仕立て屋の善意なのかはたまた挑戦心なのか、若しくはシャイロックの悪戯心なのか善意なのか、そしてもしかするとうちの先生の完全に個人的な好みなんだろうかなと思うと何か、なんだかもう、分かったよ好きにしてくれよと持ち前の倦怠さが首をもたげてくるので、どのみち好意による押しに弱かったネロは早々に匙を投げ安らかな境地に至り白旗を上げた。
狼さんと仕立て屋くん
