ネロファウ東の国

東の国のスペシャリテ

「誕生日おめでとう、ファウスト」
 暫く振りに口を開いたネロがそう言ったので、ファウストは一気にへなへなと脱力してしまった。
 見れば、置き時計の長短の針はきっかり天頂で重なっている。
「……ありがとう……なんだ、そういうことだったのか……」
「わ、どうしたんだよ。いきなり、打ち上げられたわかめみたいになって」
 何にも気付いていないらしいネロが大きく目を見開くので、ファウストはこれ見よがしに拗ねた表情を作ってやった。
「きみが珍しく、ずっと時計を気にしてるから……今夜は誘っちゃいけなかったんだろうかとか、無理をさせているのかとか、退屈に思われているのかとか面倒がられているのかとか、いろいろ考えて。僕は気が気じゃなかったんだぞ」
 そんなファウストの言葉に驚いたように目を瞬くと、ネロはグラスのふちをぎこちなく指で撫で回した。
「……そんなに分かりやすかった? ごめん、気を遣わせるつもりじゃなかったんだけど」
「分かるさ。だってネロは近頃、僕がきみの方を向いていないときでもずーっと僕のことを見つめているのに。今日はそれがなかったんだから」
 わざとそういうふうに言って、口を尖らせてみる。
 ヒースからあの時計を貰ったというのは随分前のことだから、今になって殊更にそれを気にするというのは、素直に時刻が気に掛かっているか、若しくはファウストとの晩酌に上の空になっているかのどちらかでしかない。ヒースについて何か心配事があるのならファウストにも共有してくれる筈だし、彼自身の都合が悪いという事情やお互い明日に響くからもうお開きにしようとかいう思惑があるならば、ネロはきちんと言葉にして渡してくれる筈だ。
 だから、何も言わずにひたすら時計ばかり盗み見ているネロに、何と声を掛けていいのか、ファウストは本当にずっと考えあぐねていたのだ。
 じーっと見つめると、ネロはもにょもにょと唇を引き結んで、眉をぎゅうっと顰めて、終いにはふらっと顔を逸らしてしまった。代わりに正面に晒された耳が、見る間に真っ赤に染まってゆく。それを目にしたファウストは胸の空いた気分になって、くすくす息を揺らした。
「……そんなことまで、バレてたのかよ……」
「隠しているつもりだったのか。かわいいな」
「…………ごめん、俺、」
「いいよ。……嬉しいと思ってるんだ、僕は。少し擽ったいけれど、きみの柔らかくて、ちょっとだけ熱っぽい視線が」
 ふうっと、音が途切れる。
 ネロも何も言い返してこなくて、ファウストも流石に気恥ずかしくなったから、そこで言葉を終えた。
 日付が変わる前みたいな、沈黙が据わっている。けれどもそんなベッドの上で、図らずも幽かに触れ合った指先を引かないまま、並んで、お互いに寛いでいる。ネロが不意にグラスを呷った。衣擦れや喉の鳴る音が立つのに合わせて、ファウストも息を吐いて身動ぎをした。沈黙の穏やかさがそのまま、柔らかな言葉を引き出してゆく。
「……夜が明けたらさ、今年は四人でお祝いしよう。あいつらといろいろ準備してるんだ、楽しみにしててよ」
「本当か? ……ありがとう。きみたちと水入らずで過ごせるときが、今の僕にとって一番落ち着く時間だ。嬉しいよ」
「うん、そう言うと思った」
 漸くこちらを見たネロが、きらきらと睫毛から光を跳ねさせて笑った。それははにかむような、照れ隠しに相手を冷やかすような、気安さの中にも誠実さを込めて、ファウストのことを見守ってくれようとするような、うんと甘い笑顔だった。
「……俺だけ抜け駆けしちまったこと、後でシノとヒースに謝らねえと」
「なんだ、抜け駆けしてくれないつもりがあったのか? きみが言ってくれなければ、きっと一番は、朝起こしに来てくれるカインのものになってしまっていたんだけれど」
 笑っていたネロの表情が、その途端、ぎしりと固まった。それがおかしくて、ファウストは冗談の振りをして、少しだけ触れ合っていた指先をぎゅっと繋ぎにいった。自分でやったことなのに、どくんと心臓が跳ねて、もっと笑いが止まらなくなる。
「……そ、れは、えっと……いや……」
「あははっ、冗談だ。きっと今日のあいつは寝坊する。祝日だからな」
「分からねえよ、もう今のあいつにとってはきっと、今日は〝仲間の誕生日〟なんだから。しかも、縄で縛って引き摺り出さねえとパーティにも顔を出さない、捻くれ者の……」
「うるさいなあ」
 ファウストは笑いながら、ネロのほっぺたを抓んだ。視界の端でネロの右手が、グラスを取り落としかけて狼狽えている。
「それは去年の話だろ。今の僕がきみたちの好意を撥ねつけないことくらい、カインなら分かっているさ。それとも、何? ネロはそんなに僕の〝一番〟になってしまったことが重荷なの。だったらさっきの言葉、聞かなかったことにしてやってもいいけど」
「えっ」
 二度、グラスを取り落としかけたほどにネロが動揺した。焦った顔でファウストを見て、グラスを見て、それからサイドテーブルにグラスを置いて、もう一度、ファウストを見た。
 そして、
「お誕生日おめでとうございます、ファウスト先生」
「……? うん」
「誕生日おめでとう、ファウスト」
「ああ」
「今のは、」
 首を傾げるファウストに祝福の言葉を繰り返すと、ネロはぐっと真剣なまなざしで、ファウストの目を真正面から見つめてきた。ぽろっと、頬を抓んでいた左手が滑り落ちる。今やとうに笑みの引っ込んだファウストは、ただただぽかんと、ネロの綺麗な瞳の有り様に見惚れているしかなかった。
 ネロはまなざしに違わぬ真摯な声で、堅く、言葉を継ぐ。
「――ヒースとシノの分、の予約。だからあいつら以外の誰にも渡さないで。あいつらが実際にあんたに言うより先に、他の誰に祝われたとしても、あんたの中で、あいつらの席だけはもう取ってあることにして。ファウストのことはみんなが愛してるし、できることなら自分が一番に祝いたいってやつも、もしかしたら俺たちだけじゃないのかもしれないけど……でも、あんたの〝生徒〟は、俺たち三人だけだろ? そういうよしみってことでさ、頼むよ。ちょっとだけ特別扱い」
 そう言い終えたネロは、もういつもの、あの調子のいい顔でからっと笑っていた。ぎゅうっと右手を握り返されて、ファウストは漸く、自分が彼の手に指を絡めにいったこと、その手がまだ彼の方からは握り返されていなかったことを思い出す。
「……しょうがないな」
 厳しい顔を取り繕おうとしたけれど、上手くいかない。呆れたふうを装おうとして、ファウストは結局、台詞の途中から既に笑ってしまっていた。これじゃあ、想いが通じたばかりの相手を甘やかす、恋人の態度そのままだ。
 くすくす笑いながら、顔を近付けて、ネロのひたいに自分のひたいをぴったりくっつける。照れくさそうに肩を竦めたネロが、ちょっとだけ顎を引いて、その代わりに繋いだ手をきゅっと握り直してくれた。
「……今回だけだぞ」
「あはは! ありがと、先生。流石は俺たちの大好きなファウストだ」
 最後の最後に建前を崩して、ネロはわざとらしく茶化して見せた。
 生徒だから、なんて言い訳を連ねなくても、ファウストだってとっくに分かっている。自分がただ、ただ好きなのだということくらいは。
 ヒースのことが好きで、シノのことが好きで、ネロのことが、好き。だからファウストは〝特別扱い〟したい。この国で生誕を祝われる聖人とは違う。東の国の呪い屋だから、自分は超絶我儘なのだ。自分の気の向くままに人を好いて、心一つで誰かを特別扱いして、勝手気儘に恋だってする。そういう気紛れな魔法使いなのだ。けらけらと笑いが止まらないのは、呪わしい己の酒癖の所為だ。英雄になり損ねた呪い屋は幸せになんてなったりしない。ただ、今という時を好きでいるだけ。どうしようもなく好きになった相手を、とことん好きだと思っているだけだ。
 緊張が解けた身体には、驚くほど簡単に酔いが回ってしまうらしい。そのまま戯れにハグをしたら、あんなに飽きなかった筈の笑い声は、なぜだかしゅうんっと引っ込んでいった。代わりに顔がどんどん熱くなってきて、同じように黙りこくったネロの手が、そんなファウストの頬をそうっと、震えながら、撫でた。

 今日はきっと授業をしない。
 ……けれど、かわいい子どもたちとネロが誕生日のお祝いをしてくれるというのなら、夜更かしはしない方がいいのだろうか?

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