ネロファウ

愛してよ、僕のシェフ

 昼間は中央の若者たち三人に連れられて、猫が集まると評判だとかいうスポットに出向いた。猫と聞けば当然のようにくっついてきた賢者と一緒に、噂どおりに集って寛いでいた子たちにおやつをあげた。
 このおやつは、初対面の猫たちにもとても気に入られた。それもその筈、今日ファウストが持参したのは、ファウストの知る限り世界一の腕利きであるシェフの、お手製おやつだったのだ。いや、仮にこの先、他のどんな料理人を知ったとしても、ファウストの中の世界一が変わることはないだろう。これがたとえ欲目ゆえの評価なのだとしても誹りを受けるいわれはない。ファウストの持つ欲目のお陰で、ファウストの思う世界一の味が生まれているのだとすれば、それこそ、この世界一を生み出せるのはネロを置いて他にはけして存在し得ないということになる。ファウストにとっての世界一はネロだ。ファウストはそれで満足だし、ネロだってそれで充分に安心する。誰にとっての世界一が誰であろうと一向に構わないが、ファウストにとってのそれは絶対にネロであるというだけの、それはそれだけの話なのだ。
 さて。
 そんな世界一のシェフと、もう二人、ファウストにとっての世界一かわいい教え子たちと共に、今日の夕方からは里帰りをすることと相成った。泊まり掛けのこのイベントは、そして中央の三人に連れ出された昼間のそれは、さらに言えば里帰りのために夕食時ではなく昼食時に予定を繰り上げて開催されたパーティも、どれもが、今日を誕生日とするファウストを祝うために催されたものだった。
 里帰りといっても無論、生家などを訪ねるわけではない。ファウストが〝東の国の魔法使い〟として生まれ直す起点となった嵐の谷の住居へ、一時帰宅するという意味だ。ヒースはそれを〝先生のお家にお邪魔する〟と言い、ネロは〝先生ん家に俺らで押し掛ける〟と言い、シノは〝オレたちの隠れ家に久々に遊びに行く〟と言う。おまえのじゃない。
 しかしシノの言葉に苦言を返すのが、殆ど形骸化してしまっているとすら言えるほどに、実際ファウストの家には、今や東の国の三人が頻繁に訪れるようになっているのだった。
「……どお? せんせ」
「……ネロ」
 後ろから近付いてきていた、慎重な気配には勿論気が付いていた。穏やかな声をそっと振り仰げば、声の主はファウストと同じ姿勢を取って、気安く隣にしゃがみ込んだ。
「おお、めちゃくちゃいい食いっぷりだな」
「うん。やっぱり、この子たちもとても気に入ったみたいだよ」
 こちらの手許を覗き込んだネロが嬉しそうに声を弾ませたから、ファウストも自然に自分の頬が緩むのに任せた。隠れ家の庭にしゃがみ込んで、ファウストは手ずからおやつを食べさせていた。白いのと、黒いのとの、二匹の猫。猫好きなファウストにとってもいっとうかわいいこの子たちは、嵐の谷で隠者生活をしていたときからの付き合いだ。近頃ではすっかりファウスト以外の気配にも馴れた猫たちは、現れたネロにも少しも警戒することなく、一心不乱におやつに食らい付いている。
 寧ろ、そのおやつを作ってくれたシェフの登場に少しは顔を上げて、感謝のポーズくらい取って見せればいいのにと、保護者たるファウストでさえも思ってしまうような食べっぷりだ。それでもネロ自身が満足げに目を細めて、その姿を見つめているから、ファウストも薄く苦笑を零すに留めた。
「ありがとう、ネロ。この子たちにも食べさせてやれてよかった。中央の猫たちが本当に、きみの作ってくれたおやつを喜んでいるようだったから」
「あはは、そりゃよかったよ。……まあ、実はあれと全く同じものではないんだけどな、こっちは」
「あ。やっぱりそうなのか」
「えっ」
 ぽそりと落とされた呟きに、やはりと納得してファウストが頷くと、ネロは何に対してか驚くように目を見開いた。数秒見つめ合って、お互いにぽかんとした顔を晒し合う。その間放っておかれた猫らは、やがてファウストの差し出していた分をすっかり食べ切ってしまうと、次の一口を催促するように飼い主の膝へと乗り上げてきた。
「わっ。こら、やめなさい。待ちなさい。……ふふ、あははっ」
 往なし切れずに尻餅をついて、観念したファウストはけらけらと声を上げて笑い出した。隣で静かに息を吐いたネロも、同じようにぺたんと草の上に座り込む。彼は胡座をかいた足首を両手で抱え込むと、ふらふらと幼い仕草で身体を前後に揺すった。
「……同じじゃねえって、分かったの? あんた……」
 二匹掛かりで腹を胸を踏まれて笑い転げるファウストに、ネロが小さく問い掛けてくる。先程の遣り取りの続きだとファウストはすぐに理解して、涙の浮かんだ目でネロの顔を見上げた。
「勿論。きみはこの子たちの食の好みを知っているし、わざわざこっちは白い子へ、こっちは黒い子へと分けて渡してくれたしな。それに匂いも見た目も、昼間に貰ったものとは少し趣が違っていたから……ふふ、待ちなさいってば」
 ファウストは漸く、群がる二匹を引き剥がすと、草の上へちょこんと下ろした。そうして、白い子には〝白い子へ〟のおやつを、黒い子には〝黒い子へ〟のおやつをそれぞれ差し出した。猫は再びがっつき始め、瞬く間に二匹ともがおとなしくなる。ファウストはその様子に目を細めながら、言葉だけはネロに向けて真っ直ぐに継いだ。
「初対面の子たちには、少しお行儀よく、くせを少なく。この子たちには、この子たち好みに、ちょっと特別に。そういうふうにしてくれたんじゃないか? ……きみが僕の大切な子たちのことを贔屓してくれて、とても嬉しいよ。本当に、ありがとう。ネロ」
 黒い子が勢い余ってファウストの手を噛り、白い子が残り香まで食らい尽くすようにファウストの指を舐めたので、ファウストの意識はまた二匹の方へ引っ張り戻されてしまう。「分かった、分かったから」と今度は少し多めにおやつを取り出したところで、不意に耳許へ生温かい気配が触れた。
 混乱して思考を止めた頭の真横、耳たぶに、ふうと熱い風が掛かってびっくりする。それは、湿った吐息だった。ごく小さな囁き声が風と共に吹き込まれたことで、そうと分かった。
「……ふぁうすと」
「……えっ……あ、あ、うん……」
 咄嗟に応えた声はぎこちなさの極まる、上擦った、ついでに震えまくったものになってしまった。不本意な醜態に泣きそうになりながらも、どうにか頷くと、ネロの吐息がふっと笑った。それは優しくて、とても穏やかな微笑みで、なのにこの距離の所為で、そしてネロとファウストが大事に大事に築いてきた甘く特別な関係性の所為で、ファウストの方はどうしてもただ単純に優しい気持ちになったり穏やかな心地になったりするということができない。
 どぎまぎして目頭が茹だるほど熱くなってきてしまったファウストのことを、慮ったのかは分からないけれど、ネロの気配は近付いてきたときと同じように、不意にふっと離れてしまった。……揶揄われただけだったのだろうか? ファウストが胸にぽっかりとした喪失感を覚えるよりも、しかし少しだけ早く、ネロはファウストの視界へと覗き込むように割って入ってきて、安らかな表情で微笑んだ。そして、
「……どういたしまして」
 と、さっきのお礼への返事を寄越してきた。
 ファウストの肩からは、そしてお腹からも、へなへなと力が抜けていった。いつの間にか地面にぺたりとくっついていた両手の上へ、猫たちが背をぎゅっと屈め込んで、やや大儀そうにしながらもやはりおやつに夢中になっている。
 すっかりどくどくとうるさくなってしまった心臓を隠し籠めるように、熱くなった顔を俯けると、ネロはそんなファウストを置いて、頓着する様子もなくあっさりと立ち上がってしまった。
「さ、俺はぼちぼち夕飯の支度でも始めますかねえ……昼にパーティ料理食べたばっかだから、抑えめにするようには気を付けるけどさ。やっぱりちょっと〝特別〟にしちまうのは、許してくれよな、先生」
 軽妙な声が降ってくるのに、顔を上げることも、軽口を返すこともファウストはできなかった。視界の端に見切れる形で、猫たちがおやつを咀嚼している。小さな牙が触れ、薄い舌が触れる度、どうしてだか、ネロの熱が頭を過る。いや、どうしてだなんて分かり切ってる。ネロの所為だ、こいつがあんなことしたからだ。何気ないお礼の言葉に返事をするためだけに、耳許で思わせ振りに名前を呼ぶ必要なんて一体この世のどこを探せば見つかると言うのか。
 確かにそれまでの会話とは脈絡もなかったその仕草に、けれど期待してしまった自分が恥ずかしくて、期待させてきたネロのことが憎くて、その期待を受け止めも往なしもどうともしてくれずにネロが自分を置いていくことが、寂しくて悲しくて、仕方がない。どうしようもない。珍味の塩を運んでくるこの谷の竜巻みたいに、ぐるぐる忙しなくて、わけの分からない感情に、ファウストはあっという間に打ちひしがれてしまっていた。
 ああ、ネロは本当に、こんなファウストを置いていく。来たときと同じようにのんびりと足音が離れていく。猫がこれを食べ終わる前に、次をせっつき始める前に、この重たい腕を一人でちゃんと動かせるようにならなくては、いけないのか。
「……あ、そうだ」
 ファウストはだから気付かなかった。鉛みたいに重くなった身体を持ち上げることに、しかも涙を零さないように持ち上げることに、躍起になっていたから。だから、遠ざかりかけた気配が踵を返して、またファウストのすぐ後ろまで戻ってきたことにすぐには気付かなかったのだ。
 気付いたのは、温もりが触れてからだった。
「言い忘れてたことが、あったんだった。口に出さないまま、自分だけで満足しちまったから。……でもそれじゃあんたに伝わらないのは当たり前だよな。ごめん。だからやっぱり、ちゃんと言うよ。……えっとな、」
 静かな声が、柔らかく降りてきて、背中側からファウストのことを身体ごと包み込む。温かい二本の腕と、辿々しいけれど真っ直ぐな言葉に、ぎゅうっと抱き締められている。凍えかけていた心臓の裏側から重ねられた、熱く跳ねる心音に、思わず大きく目を見開いた。
「――愛してる。ファウスト」
 耳許で囁かれた紛れもない真心に、ばくんっと鼓動が飛び跳ねた。
 とくとく、とくとく、血が温かく全身を巡り出す。一息に視界が輝き出して、溢れ来る喜びに胸の中が騒ぐ。ファウストの気持ちは一気に奮い立って、けれども逸る想いに反して、猫たちのために差し伸べている手では彼の腕を抱き返すことができない。
 そわそわと目を瞬き、ともすれば荒らぎそうな呼吸を必死に抑え込む。一人葛藤するファウストを余所に、目的を果たしたネロは今度こそ誤魔化しのない晴れやかな身振りで、ふわっと身体を離すと、勝手口の方へと歩き去っていってしまった。
 それからすぐに、家の裏手から、シノやヒースと炊事の役割分担をする声が聞こえてきた。ひょっとしたら物陰から、子どもらにはこんな情けない姿をずっと見守られてしまっていたのかもしれない。情けない。面目もない。けれどそれも、もはや今更かもしれない。
 ……ぺろぺろ。がぶがぶ。両の手に気儘な刺激が与えられたことで、ファウストは漸うはっとした。視線を遣った先には、己のしもべが正体を取り戻したことを察してか、空っぽになった手のひらから顔を上げて、愛くるしい瞳でじっとこちらを見つめてくる小さな生き物たちがいる。
 ファウストは苦笑した。それから漸く、飼い主然として、二匹の猫の頭をそっと撫で付けた。
「そろそろにして、ご飯までお腹を空かせておきなさい。……きっと今日は、世界一の〝夜食〟もご馳走してもらえるんだから」
 今日のファウストの夜更けの時間は、実のところ、今朝の早いうちから既に予約が入って取り置かれている。
 この家で、ネロの晩酌に付き合ってやるのだ。
 不器用な大人どものために気を遣わせてしまうその代わり、世界一かわいい子どもらや、いっとうかわいい猫らには、うちのシェフが腕を振るって、晩酌の肴にも遜色ないほどのとびっきりの夜食を献上してくれるに違いない。

タイトルとURLをコピーしました