あたたかな月光がほろ、ほろ、綿の実のような滴となっては葉の隙間から稀に落ちてくる森の中で、行ってしまいそうな晴久の袖を緩く引いて留めていた。じっと見詰める彼の視線から逃れるように顔を伏せて、
「晴久……口付け、を」
殆ど呟くような声音で乞う。届かない、だろう。……何をしてるのだろう。気恥ずかしくて、何か悲しくて、顔を上げることもできなくなっていた。聞かない振りで行ってしまっても、いい。そうしてくれたらいい。そのときはたぶん、とても、淋しく思ってしまうのだけども。
かさ、と落ち葉を踏む音がして、いよいよ頭の両隅がじんじんと痛みだした。……ああ、もう。もう。
ふわ、と晴久の匂いが迫った。温かい。抱き締められていた。頬に節立った指が滑るたおやかな感触にはっとする。細いそれはそのまま顎の骨を辿って、なぞるようにしながらそこを持ち上げた。目が、合ったのかは咄嗟に分からなかった。ただ、きらと静かに瞬いた、瞳に映った星の光がこちらの目の中へ飛び込んできて、その刹那後、熱が一層近付いたのだけをようやく覚えた。
気が付くと、血の巡りが耳元まで届いてばくばくといっている。その音に合わせて引っ切りなく圧される胸元が苦しい。詰まった喉が、痛い。それらの、うずもれそうなほどの粘こくまつわりつく切迫感の膜を、ある一点から晴久が破っていた。唇。そこから移ってくる熱が、吐息が、きりきりと切ないばかりの膜を溶かして替わりにどんどん浸食する。きつく回る腕が、頭を抱え込む手が、真綿のような強度で捕らえて縛りつけて離してくれない。
晴久、の、温度。吐息を触れさしたまま幽かに遠退いた唇が、角度を変えてすぐにもういちど降ってくる。触れる瞬間鼻へ抜けた息の、その響きの低さに耳の底がぞくりとわななく。情けなく震えかける下唇を、彼の唇で柔らかく食むように擦られた。そうされる度に薄い皮膚から染み出す気恥かしい甘みを、幾度もいくども念入りに味わわされる。そうしてやがて、湿った、途方もない熱さが、唇と口腔との境の際をゆっくりと、辿った。
びくり、とそれに固まる隙も与えず強引に舌が押し入ってくる。熱い。中から温度に満たされて熱くて、けれども躰を掻き抱かれて逃げられない。ああ、甘い、甘い、あまい。口移しで腹へ落ちていく銀色の飴も、蜜も、その甘さが逃れる場所がなくて募る、積もる。森の澄明な空気にすら触れることが許されないくらいに、晴久から与えられる熱と、甘さと、感触が、二人の周り、指二本分の厚さほどだけをのったりと濃く取り巻いて、とろりと重たいそれは四肢を絡め取る。
弱いところをなぞられて、擽ったいようなじわりとした痺れに鼓動がじくじく焦る。僅かな距離の隙間に息を継げば、その吐息さえ強欲に食らおうとするように再び唇へ噛み付かれて、顔が火照る。きゅ、と無意識に手に力を入れ直してから、自分が彼の羽織を掴んでいたのを知った。こわごわ、その指をほどいて、彼の背中のほうへそろそろと回す。気付いてくれたのか、晴久は支えていた手の力を緩めて、その手で優しく頭を撫でてくれた。けれどもそのあいだにも口付けの深さは不遜なままで、高慢な舌に自分のそれが殆ど貪るように吸われ続けている。その嬉しさにふたがってしまいそうになる息を、彼から与えられる蜜を空気に変えようとするように必死に継いだ。
ちゅう、と音をさせて唇が、離れた。ぬくい残滓をそっと舐め取ってくれている、口の端に晴久の舌が這う。それは確かにとても優しくて、突き放されたとは思われようのない仕草だったのだけれども、思わず、手に触れている布を引くようにきつく握り込んでしまった。晴久の吐息と体温の流れがふいと止まる。
刹那、追いやられた筈のあの不安がまたじんじんとこめかみを圧し始めて、ああ嫌だ、行かないで、と声が喉元で引っ掛かる。色気も素っ気もない短い髪に添えられていたてのひらが、するすると滑って、頬に添った。ゆっくりと、瞳を覗き込まれる。こんどは確かに目が合った。桜で染め抜いたような深い色が、じ、と自分を見詰めている。躰が、僅か強張る。
目の前でひとつ、長い睫毛が瞬いて、桜色が、月に透けた薄光を放ちながら猫の目のようにきゅっと笑んだ。今、見ることになるとは思われなかったその茶目げな表情に、混乱してただただ見詰め返していると、
「足りねえ?」
淡い笑いを含んだ声で囁かれた。ぎくり、と竦む。嗤われているのか、微笑んでくれているのか、判別がつけられずに大きく惑う。それでも、やはり悟られてはいけないような気がして、視線をぽとりと引き剥がすと、こごった指先をどうにか広げて身ごと手を離そうと、した。
瞬間、く、と、晴久の腕に力が籠もってなんとなく引き止められる。それだけでもとくりと脈が跳ねたのに、「……もういいの」と悲しげな問いを降らされてますますわけが分からなくなる。どう、答えるべきなのか。どう答えれば離れないでいてくれるのだろう。どう答えれば許してもらえるのだろうか。発するべき言葉は掴みあぐねたまま、はく、と口だけが先走って動いた。震える息だけが途切れとぎれに漏れ出て、みっともない。かろうじて、殆ど考えることはなく首を横へと振った。猶もこちらの頬へ当てられていた晴久の手が、僅かにずれて、耳の傍で髪をそっと弄った。擽ったくて、でももっとそうやって触っていてほしい。ねえ、行かないで。
「……ご所望はこれじゃなかったか」
ぽつん、と晴久が呟いた。無念に独りごちたようにも、疲れ果ててぼやいたようにも、単純に問い掛けてきたようにも聞こえて、いよいよ窮してしまう。目を、上げなくてはいけないか。のろのろと顔を起こし、彼の瞳をおずおず、見据えた。晴久は、秀麗な眉目の端を共に下げて、何か、とても心許なさげな表情をしていた。それと彼の言葉とを、照らして、真意を読みたい。分からない。何と答えればいいのかも、だから分からないままなのだ。心細いままに、じっと、瞳を見合わせている。
「やっぱり、むつかしいな」
晴久の声で空気がささやかに波立つのを、唇が感じる。その距離で、じっと見詰めている。
分からない。
「――かぐや姫の仰せ言は」
……まだ、分からない。ゆっくりと、首を傾げた。それを認めた晴久は息をやにわに潜めて、けれども気を悪くしたふうには見えない。よかった。
と、
「……頼綱」
一瞬。名前を呼ばれた、その鼓膜の振動が、勢いそのままに涙腺をも叩いたかのように、ぶわっと眼に水が張って目元が熱くなったのが自分で分かった。弾かれたように視線も外れて、宛てなんてまるでなく泳がせる他はなくなる。その動きにつられて顔まで背けることは、しかし叶わなかった。両頬をすっぽりと包み込まれたのだ。じわ、と肌が融け合いそうなほどにきつくそこと触れ合った、晴久の両てのひらが、ぬるく感じられてしまうほどに、
「――熱い」
彼が囁いた。
「、や、……――」
やめろ、と続く筈だった声はしかし中途で消えて、口の動きを追いかけて来はしなかった。たった三文字の語尾が掠れて、気恥ずかしさが嵩を増す。
晴久はしっかりとこちらの頬を挟んだまま、親指で頬骨の辺りを柔くえどって、「熱い、な」とまたしみじみと確かめるようにそう言った。そんなことは自分で分かっているのだから、そうやって苛めないでほしいのだ。けれども彼の瞳がどうにも真摯なように見えて、揶揄われているわけではないのかもしれないと思い直す。
晴久が、また唇をほどく。
「嫌じゃねえ、よな? ――こうしてるの」
少し、引っ掛かった。草の棘へ衣を掠めたような、少し振り返りたいような、けれども降り向かうまでのその間がもどかしく咄嗟に正直に頷いた。首肯では分かりにくいかもしれない。背へ微かに、手を添えて浅く抱き返した。晴久はすう、と目を細めて、絶えず柔らかく降り掛かる月光に愛されたその睫毛がきらきらと光る。手をまたひとつ、ふたつ、頬を撫でるように動かしてくれて、この答えには満足したようだった。「じゃあ」彼は続ける。
「……嫌だったか、口付けは」
から、と音を立てて、こんどはもっと確かに引っ掛かる。なんだ。なんだ。胸の上辺りがきりきりと急くけれども、期待をしてはいけないのだ。分かっている。必死に押し殺したそれから、ぱちぱちと甘酸っぱい火花が散る。罷り間違って涙腺にでも引火してしまわないように、もっとぎゅっと胸の底のほうまで沈めて、そうしてからゆっくりと、頭を振った――ああ、だからそれだけでは伝わらないのだ、
「いや……じゃ、なかった」
誤解のないように付け足し付け足し、そう告げる。嫌じゃない。嫌なわけがない、だって自分から望んだのだ。彼に、いつもの彼のしかたで口付けてほしかった。そして、彼はそうしてくれた。
「けど、さっき、……」
珍しく晴久がもごもごと言い淀む。かり、かり。歯切れの悪い声の狭間の断片的な沈黙へ共鳴するように、小さくちいさく、最前彼の舌を伝わして飲み込んだ銀の蜜が、腑の内を引っ掻いている音が玲瓏と響く。ああ、これは。これは。
「……逃げようとしたじゃねえか、お前」
ぱちん、と一際大きく胸底が爆ぜた。火花が飛んで喉が焼けて、そのきゅんと疼く痛みが返す声を絶え絶えにさせる。
「に、げよう、と……なんて」
「……違うの?」
ああ、そうか、そうだ、第一さっきからずっと、贈ってくれる声がいちいち甘ったるいのだ。今だってほら、そうやって、眉尻を下げて不安げな貌を隠さずに。
期待がぱちぱち、熱を上げ続けて、しかしそれを押さえ付けている手をすっかり離してしまうには、まだ何か少し足りない。片恋の小火に彼を巻き込んでしまうようなのは、気の毒だし、それにそうして自分が負った傷は後で膿むような気こそすれ癒せる気は到底しなかった。怖いのだ。けれども彼の心許なげな顔を見詰めるほどに、どうにもこちらが甘やかされているような気持ちになってしまう。……手を離しても、いいものか。
「……しつこかったかな、俺」語気を伏せるように丁寧に問うてくる声へ答える代わりに、ようよう、訊ねた。
「お前は……嫌、では、なかったのか……私に、口付けるのは」
表情を取り零してしまわぬように、視線は外さずに。それでも顎は怯えて逃げたので、少し上目加減になってしまったのだけれども。
「俺が?」
仄かに眉を上げて晴久が返す。そして次に眉根をぎゅっと寄せた。
「嫌ならしねえさ。気のない形だけの所行なんざ、空しいだけで好かねえからな」
いつもの強気な口調を覗かせてそう吐いてしまうと、こんどはその顰めた表情をほろりとほどく。ころりころりとよく移ろうそれがとても綺麗だと、思う。少し見惚れてしまう。彼のほうでも静かに、こちらを見返した。
す、と、薄い玻璃色を纏って、清らな間が空く。
ふ。と晴久が零した音吐がその薄絹のような静寂を柔らかく破った。穏やかな面差しに、頭の奥がじわ、と、酸い果汁を染みさせられているように、痺れる。
「なあ、……、いや……――」
彼は、ゆうるりゆうるり、巡らせつつというふうに呟いて、それから、「そうか」とただ一言訊ねた。「そのような」と返せば、「、そうか、……そうか」。
「――……俺もだよ」
彼の艶めいた薄い唇が、ふわりと笑みを載せる。どきんと耳の奥が鳴って、もはや耐えられずに彼の肩へことんと額を預けた。押さえ付けた火種を力なく放す。あんなに切なく爆ぜていたというのに、それは彼からにわかに注がれた穏やかでまろやかな空気へ浸されて、火花のひとつひとつが白いざらめ糖の粒に変わってちらちらと心地よく舞い募る。
彼の手が再三、頭を撫でた。なんだ、そうか、そうかと笑みを含んで繰り返される呟きが、こちらの胸中へ共鳴して、反響して、嬉しくて潰れてしまいそうだ。なんて、なんて律儀で真面目なひとなのだろう。そしてこんなにも、こんなにも――。
ぎゅう、と抱き締められる。触れたところから甘い痛みがじくじくといっぱいに広がって、ああ、今はこれ以外にいらない。降り掛かる月光さえも野暮ったく、けれどもそれがあるから、愛しいひとの髪先へ掛かるきらめきがかぐわしい。
ことこと、鳴く熱を、布を隔てた肌と肌とのあいだへ優しく抱え込む。
宛てられる情の深さに震えた吐息がすかさず晴久の唇に食らわれた。
恋は思案の外
