尼子晴久という男は、偶にこうして新聞部室を訪れる。彼の、校内新聞へ不定期に寄稿されるボエムはその実一部に熱心な支持層を持つ。紙面上の隠れ家的名店とでもいうべきコーナーの執筆者に対する、新聞部員の処遇はけっしてなおざりなものではないのである。こと今日にかぎっては、諜報要員の佐助が取材のため他出、風魔に関しては彼が部室の椅子に腰を落ち着けているところをクラブメイトでさえ見たことがない――よって、残る唯一の部員であるかすがが、常には若干一名を除く部員自身の多弁さに加えなんやかやと多い来客のために騒がしいかの部室においては、はなはだ珍しく、ごくごく穏やかに、晴久をあるじもうけしたのだった。
「今日はやけに静かだなあ」
「詩人が賑やかなほうを好むのだとはな」
「まさか。偶にこんなふうに凪ぐのがいいさ」
「……。そのとおり偶の静寂だ。せっかくだ、茶でも呑んでいけ」
こう言って、校舎の角部屋に当たるここまでわざわざ原稿を寄せにやってきた彼を、そのまま部室のなかへと招いた。
「文化部の部室って割となんでも揃ってるよな」
かすがの手元の電気ポットとティーセット一式を見ながら彼が言う。かすがは肩を竦めた。羨ましいだろう、と訊けば羨ましいな、と返る。
「何が羨ましいって、そうして〝羨ましいか〟って訊けることそれ自体がいちばん羨ましいな」
「ああ、そうだろうな。私もいちばん優越感を感じたのはそこだ」
こぽこぽと熱い湯気が生まれて霞む。へにゃりとした言葉が文にならない文を紡いで会話とよべない会話を編む。
ひとつ笑う晴久の前にことんと湯呑みを置いた。緑茶。以前取材か何かで世話になった誰かからの差し入れだったか、はたまた身内の持ち込みだったか、分からなくなるくらいの量と種類のお茶っ葉が、後付けの棚のなかでごっちゃになっている。
その、茶葉と茶道具をしまっているのとは、反対側の戸を開ける。そこにはやっぱり差し入れなんだか持ち込みなんだか分からない多種多様な菓子、菓子、菓子。コンビニブランドの安いの、定番メーカーのポテチ、どこかのお土産であるご当地品、なにやら上等な箱入りのクッキー。かすがは迷って、小洒落たクッキーアソートの缶を手に取った。
「少し作業をするが気にしなくていい」
おう、と低音の了承がある。
急須にティーバッグで淹れた湯呑みの緑茶、上質なクッキー、年季の入った木と鉄パイプの机の上に、ざら紙を広げてメタルチャーム付きのサーモンピンクなシャーペンを取り上げた。
陽を斜にざっくりと切って寄越す透明な窓へは、階下の校庭から運動部の掛け声が駆け昇ってくる。しかし昇ってくるだけだ。この部屋のなかには確かに固有の沈黙が満たしていて、外の喧騒は聞こえはすれどここの空気そのものの心奥を侵しにくることはけしてできないのだった。
晴久は、かすがの言葉に甘えて彼女の向かいに座したまま茶を啜り、プレッツェルのような捻り模様のバタークッキーを齧った。ドレンチェリーの載ったクッキーは、なんとなく眼前の彼女に譲るつもりで避けた。かすがは自分も茶を喫しつつ、次号の新聞のレイアウトを組んだり、今までに上がっている記事のメモを整理したりした。晴久はそれを眺めながら、手伝いまがいの茶々入れを時々やった。かすがもそれを邪に付すでもなく真面目に云々と応じた。一分三十六秒遅れの壁時計はかっちんかっちんと進んだ。お茶のおかわりを淹れた。かすがはドレンチェリーのクッキーを食べた。
部室と掲げた空き教室の、がらんどうの空気のどまんなかで、みっつずつの机と椅子とで惜しげもなく、陣地を取って、そのうちひとつの机の上には延長コードを繋いだポットとクッキー缶を祀って。向かい合わせに引っ付けたあとふたつの机の上では、安い紙と消しカスと作業から脱線した落書きとが散乱して、それらにうずもれるように頬杖と軽口とがゆるやかに転がる。
陽はそれなりに黄色い。床は踏み汚され続けた深い濃茶で、それらを内包して沈黙の空間は広く白い。校庭の喧騒、その外の車のいななき、遠く響く工事の音、出どころの分からない蝉の遠吠え、閉めた戸の向こうで廊下に時折反響する足音、別校舎で鳴る管楽器の何重ものチューニング。それらを取り込んで、やわく突き放して、飄々とした体でそっぽを向いて見せるその空間は、やはり白かった。
一分三十六秒実は遅れている時計は、正確に計ったことがないので誰もその事実を知らない。その律儀にいつまでも一分三十六秒若い時を示し続ける秒針は、かっちんこ、かっちんこと、しかし傍目には気紛れに変わるように見える速さで今も文字盤上をゆるゆると歩んでいる。その軌道を覆うガラス板に、窓から入った陽光がてろてろ反射して延びる。時節は秋口に差し掛かったが、けれどもまだ夏の残影は色濃くて、日は角度を着実に増せど依然として辺りは昼間に準ずる明るさなのである。運動部の声も吹奏楽部の音も、天の明度とあるいはこの時季が恵む他の何かをも味方につけてまだまだ佳境なのだった。そんな外界を、二面に渡った窓の高みからふんだんに取り入れるかの部室では、しかしおっとりとお開きの頃合いが入り口をノックしていた。
そもそも、月一刊行の新聞を一週間と少し前に発行したばかりなので、現時点では机上で捌ける作業がそれほどないのだ。号外を出すような特ダネの匂いもしない今は、 専ら佐助や風魔のように外でネタを仕入れてくるのこそが主な仕事だった。かすが自身だっていつでも部室の番人なわけではなく、この時期には足で情報を獲ってくるのが常だ。しかしそれでも、ごく予定の詰まっているとき以外は、みっちり連勤であくせくしている必要なんてちっともなかった。だからこんなふうにして、偶に、部員二人が――風魔は先に言ったとおり、部室にはネタを納めにくる程度でほぼ居座らないので――交代に、稀には同時に、あるいは紙面企画での対談相手や各コーナーでの部外の協力者やらと共に、花形である吹奏楽部の陰へ小さく咲く諸々の文化部が必ず秘する伝家の宝刀、〝部室の住民〟たる権利を駆使してそれを謳歌しているというだけの話なのだ。つまり今日ここへ彼女が顔を出していたのは、まさになんとはなしに放課後の時間を潰すために他ならない。そうして、晴久が今日ここへやってきたのは、まったくの偶々だったのだ。タイミングが悪ければ、訪問者が部員全員の出払った部屋の施錠された扉に足労を無下にされることだってざらなのである。それを知らない晴久ではなかったが、ちょうど自らが所属する部の活動が急遽中止になったこの日、まあそれならと気紛れでもってこちらへ足を向けたのだった。
そんなわけでいとも純粋な気紛れのいくつか絡み合った末に、たわいなく産み落とされた今日のこの時間だった。終わりの時の訪れたのも、かの翁の気紛れにきっと依る。不在の部員は今日はこちらへ帰ってくるのか、くるとしてそれがいつ頃になるのかも分からない。白い空間の底辺のほうからゆるりと渦巻いた成り行きに足を載せて、とろとろと帰り支度を済ませたふたりは戸締りした部室を後にした。
昇降口まで降りてくると、放課直後のラッシュと部活終わりの目安時刻との合間であるため、そこらに人影は閑散として、校舎内外のノイズが混ざって低密度に散っているだけだった。
掃除時間が終わってからこっそりと這い出てきた綿ぼこりが、開襟シャツの汗をすうと冷やしていくのとおなじ風に吹かれてころころと舞っていく。かすがは背中を伸ばして、靴箱のいちばん上のスペースからローファーを取り出した。晴久とは同学年でこそあるがクラスは違っているから、位置のわりあい離れているお互いの靴箱へ向かうときに、当たり前に靴の持ち主どうしも別れた。加えてこれから裏門へ抜けるのが家へ近い晴久と、正門から駅へ向かうかすがとである。じゃあ、ああ、なんて短く交わして、ひらひらと肩の高さに持ち上げた手を、背を向ける間際に振って見せたりして。
だから靴箱の峡谷を抜けて出口をくぐりかけたとき、そこで晴久が佇んでいたのに少し面食らった。彼は詩人らしく屋根の下から空を見やってちょっと目を細めていたが、かすがに気がつくと、彼女が歩み寄るまでそちらへ面を向けて動かなかったので、どうやらそのひとを待っていたらしい。
かすがは内心でわずかに首を傾げながら彼へ近づいた。何か用でも思い出したか、そう問う前に彼のほうの唇がほどける。
「かすが、いちごパフェ食べに行こう」
きょとんと、かすがはするにはしたのだ。けれどもその一方でまるで、これ以上なく腑に落ちもしていた。
だから彼女の歩みはわずかにも止まりはしなかったのだ。ごく当たり前のように「ああ、そうだな」と同じながら、彼の横を通り抜けて、晴久もやはりそれが当たり前であるのを知っているように速い歩調で一拍分の距離を詰めた。ふたりは多少じぐざぐする相手との位置関係とゆるく手を繋ぎながら、かろうじて並んだふうには見える格好で、昇降口を外へ出た。
なんの脈絡もないけれども確かに、そのとき必要だったピースを埋めるための。さっきクッキー食べたけれど、それでもそんなことを考慮の外に、故意になるたけ見ぬようにせっせとふたりして追い出してしまうくらいにはいちごパフェだったので。
暫く経った。かすがは新聞部を辞めていた。今は新体操部に所属しているが、その顧問である謙信先生が数日前から怪我で短期入院している。顧問不在のその間、部は活動を休止していた。
顧問に一目惚れして入部を決めてしまうほど、彼女はかの先生に心酔しているため、その期待に全力で応えるべくこの期間にも朝と放課後に自主練習を欠かしてはいなかった。けれども、今日は、少しだけ違う。先生が入院してから何度目かになる、お見舞へ行く日と決めてあったのだ。そんなわけで朝のうちに一日ぶんたっぷりと身体を動かしておいたので、放課になると日直の仕事として職員室へ日誌を提出したあとはまっすぐ昇降口へ下った。――途中、廊下の壁へ据え付けられた姿見の前で一度立ち止まり、ほんの少し緊張した面持ちで念入りに鏡面を覗き込んだ。
放課後という時間の初めと終わりとの、ふたつのラッシュを迂回した刻限には、普通教室の入ったホームルーム棟の廊下から昇降口に掛けてが薄いマジックアワーの様相を纏う。壁を隔てて隣り合っている筈の外界からの遠い喧騒が、さらさらと砂子のような色と質感を持った粒子になって中空に舞い、授業時間帯とは比べものにならない奥行きを幻覚させる廊下は残らずくすんだ銀色に沈む。昇降口の靴箱の山並みにはそれが床に落とす影と開け放たれた入口から入り込む黄色い陽光とだけが動きのある生気を持つ。
上履きを履き替え、無人のそこを歩む。出口に向かって靴箱をいくつぶんか通り過ぎようとしたとき、ふと、視界の端が何かを引っ掛けた。髪の毛をゆるく引かれたように立ち止まる。頭を巡らす。
「……ん?」
ローファーを片手にこちらを振り放け見たのは晴久だった。
「よお。……久しぶりだな」
ああ、ほんとうに久しぶりだった。かすがが新聞部を辞めたことで、殆ど唯一といえたふたりの接点は消えていたし、学年がひとつ上がってもクラスはおなじにならなかったので。彼は相変わらずのわずかに浮世を離れたような切れ長の目許で、かすがを認めると淡く笑んだ。
「ああ、暫くだったな。――もう帰りか? 珍しいな」
「ああ。今日顧問の出張で部活が休みなんだよ。せっかくだから原稿渡しがてら、久々に新聞部に顔出してきたとこ」
「そうか」
相槌を打つかすが自身は退部してから一度も新聞部室へ寄っていないが、たいそう賑やかしく人好きな新入部員があったのだとは聞いていた。その彼は今日は在室だったのか、目の前のこの男にはそこの空気はどんな味だったのか。果たして。
靴の爪先をとんとんと床へ打ち付けると晴久はかすがの横へ歩み寄った。今から急ぎの用があるということでもないらしい。なんとなくそのまま立ち話の体勢をとって、彼は「上杉先生の具合どうなんだ」と円い声音で訊いた。かすがはころりと小さな飴玉のような息をそっと胸のなかで転がすに至る。彼が彼の顧問のことを口にしたときに、もしかしたら自分の顔は少し翳ったかもしれないとは思った。案の定だったのか、それとも彼には別に思うところがあったのか知れない。
「――……元々そんなに複雑な怪我でなかったから、順調に回復しておられる。あと一週間もせずに退院されるだろう」
「そうか、よかった。大事にならなくて。……庇った相手のほうもそれなら、まあ、少しは安心するな」
「そうだな……。あの子と母親は、よく見舞に来るんだ。ケーキを持って、謝罪と、礼と。気に病んでいるのを見るのは居た堪れなくなるような、善い親子で……」
謙信先生の怪我の理由は、常より早かった時刻に徒歩で帰宅中、近所の子供が道路の曲がり角へ飛び出して車と鉢合わせそうになったのを、咄嗟に身を呈して庇ったことだった。流石謙信先生、怪我の原因まで物語に描いたように美しいのだとは、晴久の言うとおり大事に至らなかったからこそ、そしてかのひとの入院を聞いた直後の自分自身の激しい動揺が落ち着いてきたからこそ言えるようになった言葉だ。それでもまだ消え失せたわけではない心配からくる心のさざ波を、宥めるために自分に言い聞かせるまじないのようなものだった。
「――それで、それを知ってるってことは、やっぱりよく行ってるんだな、お前」
「あ、ああ、当たり前だ、あの方は私たちの部の顧問であられるから」
うん、と頷く晴久からは、その言い訳めいた件がまったく不必要だったとでも言うように、からかいじみた空気は一切香ってこなかった。そういう機微の分からない人間ではけしてない筈なのだが、同時に鈍くもないということなのか。いや、そうか、それよりも、単純に優しいのかもしれなかった。
「次行くときにさ、よろしく言っといてくれよ。俺も美術選択でお世話になってるから、心配してたんだ」
是と頷きかけて、ほんのり、かすがは珍しく、首を傾げたのだった。晴久はそれを円いふうわりとした目で見ていた。
「……よかったら一緒に行かないか。ちょうど今からお見舞にいくつもりだったんだ」
「……いいのか?」
ああ、やっぱり、彼は語尾を上げた。確かめるように若しくは気遣うように訊いてくる。
「うん、謙信先生もきっと、お前の顔を直接ご覧になったほうが喜ばれる筈だ」
野暮はなし。そう、野暮はなしだ。かすがはなんだかふわふわとした。風が吹いたけれども、二人の間には何かがやわらかくそれを阻んだらしかった。きっと心地好いのは、ただその感触そのものの所為だろうと思うことにした。
なら、と晴久の首が縦に動いた。かすがもそれをしかと目で確かめてから、歩みをほどいた。どちらからともなく昇降口を抜ける。日差しはやわらかい。秋が終わりそうだ。
ふ、と、デジャヴュが香る。季節をぐるりと一周戻して刹那に眼前へ降りたそれは、鼻腔から記憶中枢をかりりと引っ掻いて後頭部へ抜けてゆく。かすがは再び足を止めた。
晴久が少し振り返る。その動きがひどく緩慢に映る。過ぎ去った筈の夏が置き忘れた陽炎に投影されたように、彼の横顔がゆがむ。そうして彼が振り向ききるまえに、彼女は思い出したのだ。「それから、帰りしなに――」答えはまるでたわいなく口から滑り落ちる。
「――晴久、いちごパフェを食べよう」
言い終わるとき、ちょうど晴久の瞳が完全にこちらを向いた。目は合った。そうだな、と晴久は軽く同意して、何ごともなかったかのようにまた向き直って歩き始める。かすがも何の気もないように足を進めた。
澄んだ空気がひなびた街路の方々でちらちらとかがやいて、まるでたわいないだいじなピースをそのとおりたわいなく在らせるために、ふたりで並んで歩き出した。