なるほど、……噂に聞いていた、まさにそのとおりだとしか言いようのない、光景。
吹き交う砂嵐のためにまったく視界が判然としないのだ。これは困った。困った困ったと思いながらも相手方の防衛網をぱきぱき壊してくぐり抜けつつ砂漠の上を大分進んできた家康である。方角も何もあったものじゃないというような中で、しかし彼は己の勘が強く指し示すほうへと迷いなく進んでいた。……そうするよりほかないので、取り敢えず。
しかし一向に埒が明かないなという気も微かにしてきてはいた。ようやく少し心許なくなって、ううん、もう少しこのまま進んでみようか、と弱く眉を下げる。そうしてそのとき、――仄かに、鼻先へかかる砂混じりの風が清明さを増した気がした。
はっと顔を上げる。
……渦を巻くように割れた砂風の向こう、純度を増し透明になった風をくるりと纏って、一人の人影が立っていた。
家康の顔がぱっと輝く。
「お前が、尼子晴久か……!」
生成りの茫漠とした背景に凛と映える紅萩色の装束。淀みのない強かな気魄。間違いなかろう。
進行方向と定めていた方角からようやく現れた探し人に、家康は素直に相好を崩した。
「会えて嬉しいよ!」
拳をほどき、それを真っ直ぐ相手へと差し伸べる。
「ワシは徳川家康。お前と話をしにきた」
気の強そうな眼が、その手を一瞥する。
そして。
「――ふん」
ごう、と何よりも早く意識へ異変を届けたのは聴覚だった。次いで、無意識に顔を庇っていた腕と、反射的に閉じていた瞼、咄嗟に踏ん張った脚を意識が拾ってゆく。なんとか薄く目を開けて眼前の男を見ると、彼は涼しげな様相で佇んだままだったが、その手は自身が帯びた刀を抜いていた。
俄かに荒ぶった風に阻まれた握手は、どうやら尼子自身にはっきりとした意志をもって拒まれたものでもあるようだ。家康は暴風の所為ではなく、耳の奥がちりと痛むのをぼんやりと感じていた。
「東照権現――」
尼子が、呟く。
彼が風を遣うからだろうか。彼自身の声は、辺りを吹きありく風に載って直接こちらの耳に届けられているように感じられる。試すような声。その奥に籠もる強い気概が、厚い気流の向こうでばちりばちりと爆ぜ飛ぶ。
「悪ぃが、日輪には散々厭な目を見せられてるんでな」
ぐるりと尼子が刀を振るう。神事の儀式染みたその所作から、忠実な大蛇のように派生した風がうねりながら敵を襲いにかかってくる。
「そんなっ……」
気の塊を躱しながら家康は少なからないとばっちりに瞳を翳らした。
「ワシは、お前と絆を結びたいと思っているんだ!」
切実に、叫ぶ。彼と、その因縁の相手との話は大筋ならば聞き及んでいるが、彼の言い分は、その言葉のままならば、家康を拒絶する理由にはならない筈だ。
そんな意味を込めた家康の語調に思うところがあったのか、尼子が不意に問いを寄越した。
「――お前もあいつを知ってんのか」
そこで彼の声が、ふむ、と心なしか相槌を打つような柔さを帯びた、気がした。会話が成り立つような伏線が張られた気がした。家康は、お、と少し期待する。このまま上手く紡げれば。
自らを日輪の申し子と自負する山陽の覇者、その名を頷いて口にしようとしたとき、しかしまたもや強まった風が肌を容赦なく叩いた。砂を食いそうになって、やむなく家康は口を閉じる。その耳に、滔々とした節回しが届いていた。
「分かるさ、お前とあいつが違うことくらいは、な。だが用心しない理由もねえだろう? お前があいつとは違う、という保証もねえ限り」
……家康は応える言葉を考えあぐねた。未だ砂風が荒ぶのを言い訳にして、暫し口を閉じていた。
或いは、もはや、彼は砂の帳の内に心を閉ざしてしまっているのかもしれない。頭を過ぎったつらい推測を振り払うように、弱まった風間に口を開いた。
「なら、直ぐにでなくていい。ゆっくりでいい。ワシを、信じてほしい」
噛んで含めるような声。瞳に力を載せて言う。白刃が閃いたのを認めたときにはすでに避けられず、咄嗟に手甲で受けるよう構えるのがやっとだった。
刹那後には目の前、指一本分もないほどの距離に相手の眼光があった。刀身が引き連れてきた清風が、澄んでいるがゆえのきんとした鋭さをもって家康の躰を縛る。
「分からねえか」
低い声。先程までの高らかさがまるで幻であったかのような。
そんな声で尼子は、家康の目を睨めて、家康に告げる。
「――邪魔なんだ、お前は。ここには、要らねえんだよ」
自分の横で砂に突き立てられていた刀がざくりと甚大な音を立て瞬息に引き抜かれる。素早く後ろへ飛び退こうとした足を案の定風に掬われて――家康は躰ごと吹き飛ばされた。
「あっはっは、手ひどくやられてしまったなあ」
なんて嘯く。かなりの距離を飛ばされた。気がついたら尼子領の外で倒れていたんだから、流石は風の国の王というべきか、それともあの国の風が彼に懐いているからこそ発揮される力なのだろうか。まあともかくも、
「嫌われてしまったな」
地面にぺたんと座り込んだまま、握手を拒まれたてのひらを見下ろして呟いた。けれどもこれは完全な空言だ。
ふふ、と堪えきれずに家康は笑う。尼子はこちらの話に聞く耳持たず刀を抜いた。だがその切っ先はけして、こちらへ向けられることはなかったのだ。
たしかに、あれだけ風を自分の手足のごとく操れるのならばわざわざ武器でもって斬りつける必要はないのかもしれない。ひょっとしたら、それだけのことかもしれない。けれどもならばなぜ、それほど自由にできるその風でもって家康を傷つけなかった。こんなところまで律儀に送り届けてくれた理由はなんだ。
「……憎まれてはいない、というところかな?」
少し違うような気もするが、機微はおいおい確かめてゆけばいい。そう思った。
「よ、っと」
明るく弾みをつけて立ち上がる。
「取り敢えず、ワシの――他人の言葉を、もうお前は聞き届けたくないんじゃあないかと……一瞬でも疑ってしまったことを、謝らせてくれ」
次に来るときには、と呟いて、踵を返した。
歩き出しながら見上げた空は、なるほど、遥かに晴れ渡っている。