瞼を上げても、辺りはやっぱりまだ暗い。
そっと、ベッドを抜け出した。
取り敢えずトイレへ寄ってみたり水を飲んだりしてみて、けれどもそのあとにやることもなくて、ぼんやりとリビングのソファへ座り込んだ。いや、やることなんてなくて正しいのだ、ただ、ねむりたいだけなのだから。
時計を見るのもなんとなく怖いようでもあり、見なければ見ないでそこはかとない不安に襲われるようでもある。結局そろりと壁時計を見上げた。短針は二と三のあいだ、長針は四と五のあいだ。布団にもぐって三時間ちょっと、けれども意識が浮上してねむり直せないまま目を閉じていたのはどれほどの時間だったのだろう。かんがえて分かることではないので、かんがえない。分かったところで何にもならない。
つかれた。……つかれていた。なんとなく頭の奥のほうもふらふらとするし、足許も心なしか覚束ない。思考の回路もふっつりと静かに落ちているようで、だからほんとうに、いたずらに目だけが冴えていた。
宛てもなく窓のほうへ目を遣る。カーテンが引かれて、外は見えない。閉じられた夜。ねむれない。
ふう、と深く息を吐こうとして、肺の中身が足りていないことに気がついた。ため息を吐くのも億劫だった。ほら、やっぱり、ねむたいのだろう。からだはねむりたいのだ。
耳を澄ましたわけではないが、ひとりの部屋で口を閉じていれば、自然、安アパートの静寂が鼓膜についた。冷蔵庫の音、秒針の打つ音。他の住人の活動音は聞こえなかった。
そうして、暫く、身じろぎもせずにソファへ座っていた。
――かたり。
にわかにそれまでと異質な音がして、はっとした。いや、はっと、というほどの覇気はない、けれどもそれに準じるくらいには意識を取り戻して、寝室に繋がるドアのほうを見た。
「……また、眠れねえのか」
ドアの向こうから顔を覗けて、晴久が、喉に引っかかる寝起きの声で問いかけてきた。
やってしまった。起こしてしまった。
彼はゆるゆるした足取りで歩いてくると、そ、っと、視線を合わせるようにソファの前へ屈み込んだ。
「……頼綱」
彼の声音はやはり少しねむたそうだけれども、気遣わしげで、やさしい。名前を呼ばれて、瞳を覗き込まれて、髪を撫でられて、頼綱は申し訳なさとあと何かよく分からない甘辛さとが胸に込み上げてくるので、いっそ潰れてしまいたくなった。
ちょっとだけ待ってろな、と起き抜けの目をしばしばとさせながら言い聞かせて、晴久は立ち上がる。狭い台所へ立った彼は、暫くしてほかほかしたマグカップをふたつ、持って戻ってきてくれた。はい、とひとつを手渡される。両手で、ぎこちなく受け取ると、入れ替わりにカップから離れたてのひらが、ぐ、と頼綱の手の甲に包み込むように添えられた。あたたかい。その頼もしさに涙が溢れそうになる。くちびるを噛んで耐える。
その手はやがて静かに離れて、晴久は頼綱の隣へ腰を下ろした。狭いソファがやわらかく歪んで、その感触にまた泣きたくなった。晴久がカップに口をつけたのを目の端にみとめて、頼綱も自分のぶんへ視線を落とす。白い湯気のなかに、白いミルク。はちみつの入った、ホットミルクだった。息を吹きかけつつ、ゆっくりと啜る。口のなかへ少し含んで、飲み下すと、はちみつの香りが鼻へ抜けて、頭の奥が、ふしぎに心地よく、じん、と痺れた。お腹のなかがあたたかい。指さきもじわじわと内からの熱を取り戻してゆく。
こくり、こくり、と嚥下する。ほわほわと、ゆるやかで、けれどもたしかな温度が、全身に沁み渡る。
半分ほどカップの中身を減らしたとき、ほう――、と、自分が息を吐けたことに、頼綱は気がついた。試しに息を、長めに吸ってみる。そして、深く吐いてみる。……できた。苦しくも、なかった。それどころか、ふわりと気分が白い湯気に溶け込んだように軽くなって、ふと、瞼が重くなったのだ。
その僅かに、弛緩した雰囲気を感じ取ったのか、晴久の片腕がやわらかく、頼綱の背中へ回される。もう片方の手は、危なっかしくなりはじめた手許からそっとマグカップを取り上げて、テーブルへ置いた。
そうして、――頼綱のからだは、晴久の両腕でもってぎゅうと抱きしめられた。
夢まぼろしではないと信じられる力強さでありながら、果てしなくおだやかな、やわらかな、抱擁。そんなものにくるまれて、自分のうちで甘い感情が悲鳴を上げるのを聞きながらも、頼綱の意識は、うとうとと、微睡んでゆく。
「頼綱……」
耳許で、愛おしい声が囁いた。
それだけでもくすぐったいのに、ああ、そこにくちびるをつけないで、耳が弱いの、知っているくせに……けれども、どうして、今日はひどく落ち着いてその感触を甘受できるのだ。耳のふちを滑って、こめかみから、頬へ、それから瞼へ、顔中にちゅ、ちゅ、と贈られるキスは、弱々しい新芽に降り注ぐ春雨のようで、なごやかに、なぐさめるように、そのひとつひとつが、一歩一歩、頼綱をねむりの淵へといざなってくれる。
「すきだよ」
とろけるような瞳をあわせて、額を押しつけるようにくっつけて、告げられた。その密やかな音量と裏腹の、たしかな、誠実な響き。
それを聴かされて、胸の奥で知らず張りつめていた神経質な弦がふつりと、切れた。
「……はる、ひさ」
「うん」
――なかから溢れ出したのは、莫大な、激しい、うずもれそうなほどの、安堵だった。堰が切れ、表へ流れ出たことで、ようやくはじめて頼綱自身に認識されることのできた、それ。
ああ……――。
「すきだよ、頼綱、あいしてる、……お前を」
なんども、ひとことひとこと、一音一音をていねいに呼びかけながら、頬をやさしくすり寄せられる。
もう声が出なくて、頼綱は弛んだ手で弱く晴久にしがみついた。それに応えるように背を抱きしめる力が強くなって、髪をくしゅりと掻き撫でるように指を挿し入れられると、またキスの雨が降ってくる。
あたたかなくちびるで忠実やかに触れながら、すきだよ、大切だよと飽かずに言い含められる。これを、ああ……、なんと言うのだろう。とにかく、どうしようもないほどに、やわらかくて、くすぐったくて、あたたかくて、ここにいていいのだと思った。
溢れた安堵は、からだのうちだけにはとても抑え込めきれずに、眼を裏からぎゅうぎゅうと圧してくる。それは痛くて、でもうれしくて、頼綱はようよう、そっと、瞼を閉じた。
言葉を潜めてから、それでも暫く落とし続けていたくちづけを、額へ贈った少し長めのを最後に、そっと終わらせる。くちびるへキスするとお姫さまは目覚めてしまうような気がして、少しだけ心残りだったけれどもこらえた。それは朝日が昇ったあとに、取っておけばいい。
指さきで髪を撫でて、頼綱の寝顔を覗き込む。きれいな睫毛が少し濡れて、左の目尻からひと筋、涙の跡が流れていた。思わずひやりとしたが、あらためて見つめてみても、眉間は平らか、寝息は安らかで、どうやらおだやかに眠れているようだ。ほ、と息を吐く。
自分の袖で、慎重にそれを拭ってやった。それから晴久は、ふわ、とあくびをひとつ、愛しい恋人を姫抱きに抱え上げると、やさしく足音を忍ばせて、寝室のなかへもぐっていった。
明かりの落とされたリビング。テーブルの上に取り残されたマグカップがふたつだけ、並んで静かに朝を待つ。