「――っ、おい」
驚いて、いや、どちらかというとわけが分からなくて、徐に男を見上げた。なんの前触れもなく、自分の身体を押し倒してきた男を。
「なんだ、やめろよ」
「あ……? あれ、あ、すまん」
行為を咎める意味と、もうひとつは純粋に意図を問う意味で晴久が言うと、なんだか官兵衛は自分でもよく分かっていないみたいな間抜けな声で詫びつつあっさり身を退けた。
「なんなんだよ」
晴久は、身体を起こして今一度、かつてはそのまま肌を合わせたこともあったようななかったような気のする相手を見遣る。もう、そういった逢いかたはとっくに止めにした筈なのだけれども。
「……癖がついたとか言うんじゃねえだろうな」
苦虫を噛み潰したような顔で訊いてしまう。すると、
「こんな妙な癖ついて堪るか!」
官兵衛は心外だとでも言うように声を高くした。
「ただ、なんと言うんだか……」
しかしそのあとすぐに、うろうろと言葉を探すようにそれが淀む。
「そう、つい」
「ついって」
逡巡の末、我が意を得たとばかりにはっきりと言い切った相手へ、思わず呆れるような声を返す。しかしあまりに自信ありげな彼の様子に、それがどうやらなおざりな言い訳ではないのだと汲んだ。
「惰性ってことじゃなく?」
「ことじゃなく。――というか、お前さんが誘ったんじゃないのか」
「なんで語尾上がってんだよ、なんで疑問形なんだよ……俺はそんなことしてねえ」
「んん……ああ、そうだろうな。今のお前さんはあいつに一途だから」
「そう。想う相手がいるのはお前だって一緒だろ」
「ああ、勿論だ。……けど、いや……ううん」
自分の言に迷いがあろう筈のないことは、晴久自身が一番よく知っていた。己ほどではないにせよ、官兵衛もまたそれを知っているだろうことも。そして、晴久の問いに頷いた官兵衛の力強さに、一切の偽りもないことも。
けれども、その官兵衛が言葉尻を、またもや何故か濁すのだ。顔が近い。いつの間にか肩に彼の指が絡んでいる。
「――なあ、お前さん、いっつもそんな目をしてたか」
目……? なんのことだか分からない。覗き込まれる。近い。
「そんな、……そんな、美味そうな目を。えらく美味そうな目をしてるんだ今、お前さん」
長い前髪の奥の眼光が、隠されようもなく露わに見えるほど。近い。
何。
何……なに、どういうこと。
どういう意味だ。
「……お前……お前のほうこそなんだ。そんな、食らいつきそうな、目」
「そりゃ目の前にこんな美味そうな果実があって、どうぞ食べてと言わんばかりに誘いかけてくるんなら、そうなるだろうな」
静かにまくし立てる官兵衛はなんだかもう、半分以上気をうっちゃってしまってるんじゃなかろうか。相変わらず近い位置でじっと見詰めてくる瞳が、僅かにも揺らいでいない。
「やめろ、見るな。――つーか誘ってねえし」
「だが美味そうな匂いさせるってことは食ってほしいってことなんだろ。そういうもんなんだろ」
肩を掴んだまま身を乗り出すように畳み掛けてくるので、殆どまた押し倒されたような格好になっている。
なんなんだ。なんなんだほんとうに。
……その、余裕のなさは。
晴久は思わず、ふうと溜息を零した。呆れてしまって、官兵衛の切迫詰まった貌を睨め上げた。
「……お前こそ、好みだから食いたいんだって、素直に吐けば」
「ああ……!? 素直になるのはどう考えたってお前さんのほうだろうよ!」
「自分の食欲をそこにあるだけの果物の所為にばっかしてんじゃねえよ。……それとも、腹が空きすぎて食えりゃなんでもいいか?」
ちょっと試すような言いかたをして、冷たく見詰めたのは、挑発のつもりではない。そのくらい認めてくれなくては、いろいろと腑に落ちないし、正直このままでは彼は見るに堪えないから。
ひゅ、と少し彼の息が詰まる音がした。刹那、ぬぬぬ……と狭まる喉から絞り上げるような低い唸りがする。ああ、飛ばした気が多少戻ってきたなと思った。
「ちくしょおおおお分かったよ!! お前さんがいいお前さんが食いたい、勿論小生はあいつが大事だ、けどやっぱお前さんのこともどっか別のとこで恋しいと思ってる! だから食いたい今食いたい、食わせろ!!」
としん、とついに背中が畳についた。
ぜえ、ぜえ、と頭上で切れる息。肩に食い込む熱い指。
……やれやれ。
「……そこまで熱烈に来ると思ってなかったというか……正直引くというか……」
「ぎゃあああああ五月蝿いよ自分でも既に後悔しとるわ言わなきゃよかった!!」
官兵衛は喚くと、片手を晴久から離して顔を覆ってしまう。
けれども、もう片方の手のひらは相変わらず晴久の肩を畳へ縫い止めているし、腿へ乗り上げた身体は先ほどとは違って少しも退こうとはしないのだ。
……やれやれ。
「――なんで。別にいいぜ、そのくらい言ってくれたほうが、寧ろ」
鬱陶しく落ち込んでいる男を宥めるように、柔らかい前髪に手を伸ばす。すると、本気で泣き出しそうにも見えていた彼はその一瞬でがばっと顔を上げた。そうして何をするのかと思えば、やはり若干泣きそうな声で、自分が今まさに組み敷いている存在であるところの男を詰ってくるのである。
「お前さんなあ……!! 言ってることがめちゃくちゃだぞ! どっちを信じればいいんだよ、っていうか信じていいのか!? お前さんのことはっ」
「今更何だよ、信じたくなきゃ別に勝手にすればいいさ。幾ら俺がお前にああいうふうに言われて悪くないと思っていたところで、お前が信じなきゃそれまでなんだからな。……あとお前さっきから単純に声が五月蝿ぇんだが」
地味な不満を付け足したところで、ようやく晴久の台詞の意味を呑み込んだのか、官兵衛の発する空気がぴしりと固まった。その硬度を肌で感じながら、晴久は二度目の溜息を吐いた。
「……晴久」
ぐ、と大胆に顔を寄せられて、不覚にも幽かに脈が跳ねた。瞬きの間にあの情けない空気を引っ込めた官兵衛の、低い声が、その真摯な響きが、吐息と絡まって、注いで、熱い。
「食いたい」
声が落ちてくる。こちらの頬にまで前髪が掛かってくるから、邪魔だ。邪魔だから。腕を伸ばして、震えそうになる指でそっと、生えぎわの辺りから彼の髪を掻き上げた。食らいつくような瞳だった。――俺を、美味い果実だと言う瞳。
「――ああ」
その目を見詰めて離さぬまま、晴久は、声だけで頷いた。
俺を食らえと言う馨しい瞳で、その目を見詰めたまま、頷いた。