官晴

いらいらしなさんな。ね。

 きりきりきりきりきりきりきりきり。
「……おい。なあ」
 堪らずに声を掛けてしまった官兵衛は悪くない。絶対に悪くない。
「ああ?」
 だから自分から数歩離れた場所から返ってきた声が、明らかに不機嫌そうな棘を含んだものであったからといって、怯むことはないのだ。小生は悪くないのだから。
「……。お前さん、さっきから何を苛立ってるんだ。小生何かしたっけか? ――いでっ」
 だがしかし悲しいかな世の中にはとばっちりというものが存在するのだった。この場この時に限ってはまったく無垢なる善人であった筈の官兵衛に、赤子の拳大の礫が飛んできたことでそれは実証される。顔面に向かってきたのを咄嗟に避けようとしたら思いっきり肩口に食らった。
「痛ぅぅ……っ」
「……」
 滲む視界に攻撃手の男を収めるが、彼は胡座を掻いた脚に頬杖を付いてつんとそっぽを向いていた。とぼけても無駄だ、ここには小生とお前さんとの二人しかいないだろうに。
「あのなぁっ、晴久、小生にだって我慢の限界ってもんがあるぞ!」
 声を荒げて、腰掛けた鉄球の上から、彼――晴久を見下ろした。暗がりへ申し訳程度に吊るした灯りに、ぼんやりと浮かび上がる繊細な装飾。それを施された装束を纏う青年は、凹凸に沿って陰影を多産する無骨な岩の地面にぺったりと座っていた。きりきり苛々とした空気を、先刻よりずっと放ったままで。
「自分の縄張りにまで入れてやったってのに、そこで訳も分からんまんまずっとそんな態度とられてちゃあな」
 一向にこちらを見ない後頭部に向かってぷりぷりと文句を投げつけてやる。いや、文句ではなくて抗議だ、だって言ってること我ながらとても正論だもの。
 しかし相手から返りはない。
「おい、聞いてんのか」
「……五月蝿ぇ、頭に響く」
「あぁああ?」
 流石にもう我慢しなくてもいいんじゃなかろうか。
 さっきから苛々した空気は垂れ流しだったものの、だんまりだったからまだ放っておけたのだ。それが、話をするためにここへ呼んだのに声すらまともに聞かないようでは困ると、ようよう説得を試みたらこれか。明らかにげんなりとした口調で、ひらひらと虫を追い払うような手振りまで付けられては、こっちは惨めにもほどがある。
「お前さんほんっっとうにいい加減にしろ!」
「うるせえっつってんだろ」
 今まで横向きの姿勢で首だけ背けていた晴久が、完全に体ごと背中を向けてしまった。ガキじゃあるまいしなんなんだその頑なさは、と詰ろうとして、しかし官兵衛ははたと声を引っ込めた。
 なんだろう。何か今、一瞬、違和感を見た気がしたのだ。
 首を傾げて少し考えた後、ずっと体重を預けていた鉄球から立ち上がった。じゃりじゃりと鎖を引き擦って晴久の傍まで歩く。一旦彼の後ろで立ち止まると、僅かにその背が長めの息を吐き出しているように見えた。
 もう一歩踏んで、彼の真横に座り込む。彼は拒みも逃げもしなかったが、案の定官兵衛がいるのと反対側へと顔を逸らした。
 また拝むことになった後ろ頭へ、官兵衛は先程よりも落ち着いた声で投げ掛ける。
「……なあ、お前さん、ひょっとして体調悪いのか」
「……」
 割と確信に近かった問いは、無言のまま晴久から見舞われた裏拳によって確信そのものへと昇格した。官兵衛の顔面に奔った激痛を代償として。
「っだあぁあああ! ……ぅう……いちいち暴力で語ろうとするな、頼むから会話をしてくれ会話を……」
「しない」
 晴久の返答はにべもない。しかし官兵衛には、そのぶすっとした小さな声が、既に同情せざるをえない幼気な悲鳴に聞こえてならなくなっていた。
「そ……そういうなよ。お前さんのこと心配してやってるんじゃないか、小生は。これでも」
 使い慣れない猫撫で声なんぞ恐る恐る出してみながら、そっぽ向いた晴久の顔を覗き込もうとする。晴久は動かない。けれどもそれ以上の拒否の表示もない。
 官兵衛は内心、いや、傍目にも明らかなほどひどくおろおろしていた。先の言葉以上に掛けるべき上手い文句も見当たらず、実のない声をひたすら不器量に紡ぎながら持て余す。
「病気のとこ小生が無理に引っ張って来ちまったか? だからそんなに怒ってんのか? それならそう言ってくれりゃよかったのによ、話なら書状で済むし、ひどいなら休むか、狭いが横になれるくらいの寝床はあるぞ、と言っても藁布団だが、ああいやそれともお前さんの屋敷まで送らせたほうがいいか、なあ、」
 ふと、晴久の蒼い目がこちらを見た。
 あ、と思わず間抜けな声を零してしまう。けれどもそのことに対する不満などを晴久が表してくることはなかった。
 彼の頬杖がするすると外れる。なんとなく上体が傾いで、薄墨色の髪が一房ほつれ、徐に、その身がこちらへ寄り掛かってきた。
「……」
 唐突な展開に官兵衛は思わずぽかんとする。そんな彼の肩に頭を凭れさせて、晴久はぽそりと言った。
「いい、ここで」
 ……送り届けなくてもいい、ここで暫く休むと、そういうことか。
 官兵衛のよく回る頭がその一言を解釈するのに少し時間を費やしたのは、勿論彼の突拍子のない行動に面食らった所為もあるが、それを告げた声そのものが、先程までのつっけんどんな響きを一切籠めない、柔らかいものへ変わったことに戸惑った所為もあった。
「……少し横になるかい」
「ここでいいって、言ったろ」
 戸惑いつつも取り敢えず会話を試みると、相手から返ってきたのは柔らかいどころか弱々しい声だった。
「〝ここ〟ってまさに〝ここ〟のことかよ……」
「うん」
 なんだ、〝うん〟って。そう儚げにされては、どうにも庇護してやらなくてはならないような気が掻き立てられてしまう。官兵衛は辟易としながら、やんわりとひとつだけ提案した。
「この体勢でいるのは別に構わんが、せめて小生を壁に凭れさせてくれんかね。そしたらお前さんは好きなだけこっちに体重預けてきていいから」
「……ん」
 一度、少しだけ晴久の体温が離れた。溜息をひとつ吐きながら、鎖を鳴らして壁際に移動する。もとより畳にして八畳あるかないかの掘りかけの岩窟なので膝を少し擦る程度の移動距離だ。
「……ほれ」
 むず痒くて少しぶっきらぼうに呼んでやると、晴久はもはや身体の怠さを隠さない所作でずるずると這ってきて、
「……」
「……何してんだ、お前さん」
 胡座の上に正面から乗り上げてきた。慌てて脚を崩すと、彼はそのままその脚の間に後ろ向きに身体を収めて、手枷のために輪っかになった官兵衛の腕を持ち上げ、それを頭からのろのろと被った。
「鎖の音、頭に響くから、もう動くな」
 そして挙句の果てにそんなことをのたまう。
「……はいはい」
 なんで小生がお前さんを抱き締めにゃならんのだとは、高飛車な指示の直後に漏らした吐息がつらそうだったので、うっかり突っ込み損ねてしまった。
「……なあ。お前さんなんで今日ここへ来たんだ」
 なんとなく聞いてみた。
 どうやら頭痛がするらしいので声量は抑えてやる。「無理に出かけて怒りをぶつけるくらいなら屋敷で大人しくしてりゃいいものを」
「いたくないから出てきたんだよ」
「……なんだって?」
「城にいたくねえから。俺が苛々してると皆扱いにくそうにしてくるから」
「……」
 さっきからずいぶんと幼気な声で喋ると思っていたが、声だけじゃなく言うことまで子供っぽい。思わず好奇心に負けてその言の主の顔を覗き込んだ。眉は少し顰められていたが、こちらをゆるく見詰め返してしぱしぱと瞬いた目は、やはり、なんというか幼く見えた。
「お前さん、ひょっとして体調悪いといっつもあんなふうなのか」
「……隠してるつもりなんだよ……けど、上手く、いかなくて」
 いよいよ心許なさげなその声に応える官兵衛の声も、もはや意識せずとも柔らかく溶けていた。
「病を圧すことで苛々するんなら、いっそ休んでろよ」
「いやだ」
「なんで」
「弱ったとこ見せたら、舐められる」
「ほう。小生には見せていいのかよ」
「お前は、別に敵じゃねえし」
「それどういう意味? ……しかし、なんだ、じゃあお前さんの家臣たちは敵だとでも言うのかい」
「……敵ではねえけど。でも舐められる。舐められたら、終わる」
 それまで浅いせせらぎのように緩やかに流れていた会話のなかへ、晴久の少し固い声が、小石のようにぽとんと落ちた。
 けれども、それは水を堰き止めるほどの力は持たないので。
「……なぁ、晴久」
「……ん」
「すると、つまりそのぅ……小生は甘えられてるってことで、いいのか」
 何故か照れまくって、しかし照れながらもど真ん中を突くつもりで聞いてみる。なんだかちょっとそわそわする。……頼られるのって、なんか、こう、むずむずする。
 けれども晴久から返ってきたのは、割と底のほうから呆れたような声音だった。
「はあ……俺が甘えてんのか? お前が甘いだけじゃねえのか」
「なっ……。それもしかしなくても小生のこと貶してる?」
 いろいろと裏切られた感じがして、切なさに脱力しながら彼の肩へ額を預ける。
 しかし、晴久はふうわりと笑った。
「いいや、ただの感想。……なあ、少し休んでいいか」
「! ……ん、ああ。すまんかったな、いろいろ話し掛けて」
「いや」
 柔らかい笑みにどぎまぎしながら慌てて詫びると、晴久は静かにそれを受け取った。それから彼は片手を自分の腹の上へ、もう片方の手を、少しふらつかせながら、自分の身体に回る官兵衛の片腕へそっと載せた。
「……何かありゃあ起こすから。眠っちまっていいぞ」
 この体勢で寝付けるもんならな、とやっぱり照れながら、囁いてやる。晴久は目を閉じながら、それに応えるように僅かに口の端を上げた。

 自由にならない両腕をもたげて、自分より小さな体躯を抱き締めるように、ほんの少しだけ、力を強めた。
 じゃら、と枷から伸びる鎖が微かに音を立ててしまう。けれども晴久は既に眠りに落ちてしまったのか、その口から咎める言葉を聞くことはなかった。

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