ざり、ざり、ざり、ざり。
座り込んでいる。茫洋とした、おそらくは茫洋とした砂漠である。おそらくというのは、ここらは、絶えず砂塵を孕んで揺蕩っている風共の所為で、地線はおろか数歩先を見通すことさえままならない地だからである。それでも、その見通しの利かない砂の帳の向こうに地平が遥かに続いているのだと思えるのは、官兵衛自身が既にその帳の向こう側を幾度も何里もこの脚で歩んだからだった。
砂の上に胡座を掻いて、そうして、数尺程先で同じようにして居る青年を見た。このけったいな地の主であるその男とは、何やら奇妙な縁があるらしく度々互いを引き合った。
此の度は共通の敵の鼻をひとつ、明かしてやろうという企みで落ち合ったのだった。ひと通り策について論じた後で、腐っても鯛、地下へ堕とされても軍師である官兵衛は、このくらいで消耗しよう筈はなかったのだが、この茫漠とした景色の所為なのか、今は身の内で何かいやに擦り減っていくものを感じていた。
ぼーっとしていると風に飲み込まれそうだ。それは風力の話ではなくて、寧ろそれに多分に含まれた砂粒にという意味である。
ざざざ、と微かに擦れ合いながら中空を乱れ舞う沙子の大群に、きっと自分は聴覚からじわじわと蝕まれていくのだ。
しかしながら、目の前の青年が一向に立ち上がろうともしないので、官兵衛も動けなかった。いくら何度となく通った地であるとはいえ、流石にこの砂漠を無事帰路へ繋ぐには案内人としての彼の先導は不可欠だった。
太陽すら砂塵に霞むこの土地で、しかし夜になれば月だけは異様に冴えざえと輝くことを、官兵衛は知っている。その様は確かにうつくしくはあるが、やはり異様なのだった。できればその空を拝むことになる前に帰りたかった。星さえも見えぬ地下の住処へ。あの空を眺めていると、大昔の貴族共が直に月を見るのを忌んだという、その意味がよく分かる気がする。
――けれども、何故か官兵衛の口は、青年を急かす言葉も責める台詞も紡ぐことはなかった。
青年は指先で傍の砂を掻き回していた。先ほどまで嵌めていた筈の手套が外れている。いつの間に。ともかくも当て所もないように、ただただ彼は砂を掻き回す。ともすれば指先で紋様を描くような細い軌道だったのが、徐々に面積を増し、大胆さを増し、指の腹、掌をいっぱいに使い始める。先ほどからふと口を閉ざしたままの彼が、そうするのは、何やら浮世を離れた秘薬でも調合している儀式のようにも見える。そしてこんな御伽噺じみた感想がぽろっと浮かんでしまう辺り、ああ小生はいよいよ砂に侵され始めたのかもしれんと、官兵衛はやはりぼんやりとしたままの頭で思った。
乾いた砂を只管掻き回す彼の手を、続かない会話の合間の単なる手慰みだろうと、官兵衛の理性は判じた。その手すさびを咎めることはやはりしない。わけもなくそうしている暇があるのなら早く自分を帰してくれと思う、けれども、その思いが言葉になって彼に向かって行かないのだった。ひどく億劫で、ただただ、彼の手許をまさに何の気なしに見遣ることしか今の自分の肉体には許されている気がしなかった。
つと、青年の手が動くのを止めた。かと思えば次の瞬きの後には、流れるような所作でもってその指が真砂を掬い上げた。
細く、しなやかなような、武骨なような指の縁から、さらさらとその幾粒かが、妖しげな光を纏いつつ地に落ちる。
そして、彼は手の上に残った一握の砂子を己の口へと運んだ。
官兵衛は、ふうと知らず目を見開いた。このときだけは、億劫さを忘れた。
彼は砂を口腔へ招き入れ、顎を動かす。耳を澄まさずとも聞こえてくる、ざり、ざり、という音に、確かに目の前の男が砂を咀嚼していることが知れた。
単なる手すさびだと高を括って見下ろしていた一連の所作が、意外な場所へ行き着いたのを目にして、この夢のような茫漠の世界にありながらようやく僅かでも浮世の感覚が自分に戻ってくるのを官兵衛は感じていた。
「……何してるんだい、お前さん」
ざり、ざり、ざり。
「砂を、食ってる」
未だに覇気の戻りかねた声で尋ねると、当然というような淡々とした返りが寄越された。気が触れているわけではないのだろうか。彼の目に宿る光は常と同じ強さをもっている。けれども、咀嚼を続けながら紡がれた筈の青年の言葉は、妙なほどに明瞭に響いたのだった。
「それは、見りゃ分かるが……どういう、意味なんだ、その行為は。何の為に。何故そうしてる?」
浮世に即した理性が、夢の地に囚われたままの肉体を通して拙い言葉になる。
ざり、ざり、ざり、ざり、青年は砂を噛みながら、官兵衛の問いに、存外穏やかに答えた。
「砂は、な。――この国の砂は、命に等しい」
「命……」
「そう」
青年の手が、さら、とまた手近の砂を掬う。それは口へ放り込まれることなく、すぐにするすると指の間から地表へと還された。
「分かるか。
たくさんの、途方もないくらいたくさんの、ひとの骨と、獣の爪と、虫の甲と……じっくり時間をかけて、ゆっくり砂になってった。みんなみんな、この地で生きて命を散らしたものは、みんな、最後、砂に還ってくのさ」
青年は、己の指から零れ落ちた砂の行方にじっと目を落としている。官兵衛は、絶句した。命。彼の言う命。このおそらくは茫洋たる砂漠の土地、遥かなそのすべてが。今自分が、彼が、座り込んでいるこの地面が、すべて、すべて、幾世も積み重ねられただれかの骸の粉――咄嗟に脳裡を襲ったその想像にぞっとした。
「それを――食らうのは、まあ、単なる俺の気休めというか。自己満足みてえなもんだが」
自嘲するように小さく笑んで、彼は少ない言葉を語り終えた。あの、ざりざりとした咀嚼音に埋もれない、顎の動きに阻まれない、妙にはっきりと聞こえる声で。
呆然とする官兵衛の視線の先で、彼は少しずつ砂を飲み下した。咀嚼を続けながら、ごく自然な流れで、ごくり、ごくりと喉が動く。
嚥下を終えた彼は、剥き出しの手の甲で口許を拭った。
「……なあ」
「うん?」
「それ、美味いのか」
官兵衛自身にとってもあまり意味のない質問をしてしまったのは、会話をしなければいけないと、ただそう思ったからかもしれなかった。わけの分からぬ場所に置き去りにされないように、咄嗟にそんな勘が働いたのかもしれなかった。
「味は、……そうだな、強いて言えば塩っ辛い」
「そ、そうなのか」
「海の水も辛いよな。思うに、命の味は大体塩っ辛いんじゃねえかな」
軽やかな声で推察を述べると、次に彼は神妙な顔で官兵衛を見た。
「お前は食うなよ。腹壊すぞ」
「食わんわ! 勧められても遠慮するね!」
官兵衛の突っ込みは端から聞く気がなかったようで、喚く相手を余所に彼は長いこと座していた砂上から既に腰を上げていた。
慌てる官兵衛を数歩進んだ先から振り返り、彼は飄々とのたまう。
「もう帰るんだろ? 砂の夢に独り迷いたくなきゃ、さっさとついてきな」
その高飛車な台詞に、呆れたような、救われたような心地を抱きながら、官兵衛も溜息と共に立ち上がった。
それを確かめてから、青年は向き直る。官兵衛から見える彼の背中に、この地ではありえない透明な風が一陣、侍って、くすんだ色の真砂がぱっと散った。柔らかくはらはらと落ちゆくそれを、下方へ新たに生まれ出でた風がそっと掬い取って、そのまま彼の足許を寄り添うように一瞬、取り巻いた。踏み出す彼の足が蹴散らす砂は、彼の意思ひとつで、彼の姿を引き隠す砦にも、彼の手足のごとく舞う刃にもなろう。自分も過去に何度も目の当たりにしたその光景の、意味を。しかし初めて、官兵衛は理解した。
砂に慕われ、砂を慕う、砂漠の国の主。
――尼子晴久。