「う、あ、……やっ……だ、め、はる、あ、あぁ、」
幼気なようで、艶かしいような、そんな声だ。低い声。穏やかでやわらかくて、深い声。名は体を表すという。頼みの綱。確かにそうだと思う。けれどもそれは名に限ったことではなくて、どうやら彼の声もまた持ち主の気性をつまびらかにする。
だからそれは、容易には変節しなかった。たとえ熱に上擦っていても、恥じらいに震えていても、戸惑いに掠れていても。それは確かに大半の時分には聞かれないようなものなのだけれども、だからといって、今俺の身体の下でわなないている頼綱の喘ぎが、その大半の彼とまったくかけ離れているのかというと、けしてそうではないのだ。
「だめ?」
「っ……ぅ」
返事に困らせてしまうだろうことは分かっているから、問う形をとりつつも、相手の言葉は待たずに肌へ噛み付いた。左の耳の付け根辺り。頼綱がちいさく息を詰めて震えた。赤茶けたような色の、やわらかな髪がこそばゆい。もっとも、今は互いの肌以外の色は、総じて夜闇へ沈んでしまっているのだけれども。
軽く吸って、僅かに唇を離した。そのときだ。ぎゅう、と抱き着かれて面食らった。崩れたじぶんの浴衣やらを所在なさげに握ったりしていた筈の両手が、俺が強いてこの身体を割り込まさせた筈の左腿が、俺が呆けているあいだにしっかとこの身へ絡み付いたのだ。
咄嗟に顔を上げたが、頼綱は俺の左肩へ額を埋めてしまっていて、表情を見ることはできない。
少し浮く形になっている頭の後ろへ、片手を差し入れて支えるように抱き留めた。頼綱が呻くような声を漏らしながら、俺の背中へ爪を立てるように力を籠める。
頼綱、と呼んだ。彼はまた小さく唸った。俺の肩へ半端に引っ掛かった衣越しにくぐもる。その音が何を求めているのか、或いは訴えているのか、分からない。
もういちど、呼んでみた。何の言葉も成さない呻き声の、けれども確かに切ない響きを、なぜだかどうしても放っておけなくなっているのだ。ぜんぶ掬い上げたいと思ってしまう。詩には余白が必要だ。余韻が肝心だ。世界のすべてもそうだと思っていた、俺はそれを愛していた。だのに、こいつには。このひとのすべてを、彼がじぶん自身では見落として掴まえあぐねてしまいそうなものを、すべてつぶさに見、捕らえ、抱き締めておかねばならないと、俺は思ってしまっている。
「……頼綱」
「……」
「好きだよ」
口が吸えないから、手近な耳を唇で食んだ。やわらかい。彼はここが好きなのだ。俺も好きだけど。ほら、今も、こうして震える彼がかわいくて、愛らしくてしかたがないから。
頼綱は再三呻いた。かと思うと、はるひさ、と、今度こそきちんと意味を持った言葉を紡いだ。俺の名だ。それだけのことが嬉しくて、いそいそと耳を傾ける。いや、いっそそばだてると言ったほうがいいような綿密さだ。我ながら少しおかしい。頼綱とふたりきりで過ごせるとなると、大抵いつもおかしい。
「晴久、」
「ああ。何」
「いやだ」
「……へ」
ああいやだ。とんだ間抜けな声が出た。いやだ、いやだ。俺もいやだが、お前は一体何がいやなのか。何が、のその要の部分を何も聞いていないのに、おもむろに放たれたその一言には妙な重みが感ぜられて、頭蓋の内が白みかける。
そんな俺の内面などまさに知ったこっちゃないのだろう。頼綱は、慣れぬ駄々を捏ねる優しい子のように、僅かに引き攣れた声音で続けた。
「いやだ、いやだ、」
「……何が嫌?」
結局訊くしかなかった。
「いやなものはいやだ」
「……」
そうだな。
「何もない」
「……」
いやなことが〝ある〟からいやだって言うんだろう。違うのか。
「いやだ」
「……」
「いやなことは何もない」
「……嫌じゃねえの?」
「いやだ」
やめてくれ、頼むから、そんな煙に巻くような物言いは。常の俺ならきっとそれを楽しんだ、けれども今の俺はその〝常〟ではないのだ。おかしいんだ。お前といられて、ふたりきりで寄り添って、あまつさえこんなふうに情を交わせて。なんど通っても夢路かと見紛う、甘く滴るような逢瀬。その中にいて、溺れてしまっているのだから、余裕も何もあったもんじゃないんだ。
「頼綱……」
「いやだ。晴久、私のになってくれないといやだ」
「……へぁ?」
「私、だけのに、なってくれないといやだ」
「へ……」
もう、いやだ、いやだって。なんでこんなになんども間抜け極まる声を上げなきゃならないのか。よりにもよって想い人の前で。
「いやだ」
……。
「いやだあ……」
ぐずるように俺にしがみ付く頼綱は、そればかりを繰り返して、きっとその言葉自体には字義どおりの意味はあまり込められていないのだとようよう察せられた。さっきまでの呻きをそのまま、取り敢えず言葉のような形に鋳直しただけなのだ。重要なのは、声が出せるというその一点だったのか。
「よりつなぁ」
「……んん」
じぶんの耳で聞いても呆れてしまうほどに、甘ったるい声が出た。それは、相手を甘やかすためというよりも、こちらが不遜なほど甘えにかかっているということを、全力で相手に知らせるための。
けれどもだめだ。そんな甘ったれた俺の声に応える頼綱のそれだって、もう甘酒のようにとろけてしまっている。
「俺はとっくにそのつもりだったよ。もうずっと、お前のものだった。
けど、お前は受け取ってくれてなかったんだな?」
最後だけ、わざと茶化すように囁いた。うう、と頼綱が、俺の首元でばつの悪そうに呻く。頭を抱いていた手の力を緩めると、促すままに、彼はぽすりと褥の上へそのやわらかな髪を散らした。
あらためて、ぼうっと見惚れてしまった。なめらかな頬。僅かな明かりを拾ってきらめく、深く綺麗な瞳。お互いに汗を掻いていたし、吐息も濡れていたので今まで気づけなかったが、彼は少し泣いていたようだった。
「……すまない」
頼綱がこちらを見据えて口を開いた。先ほどの茶化しに対する返答か。やや憮然として聞こえるのが、どうにも慕わしい。
「ならさ。今、受け取ってくれよ。ちゃんとな」
うつくしいかんばせを真正面から見詰めて、そう持ち掛ける。浮かれきった声に呆れることもなく、頼綱は寧ろはにかんだようにくちびるを噛み締めてから、「わかった」と頷いてくれた。思わず頭を垂れて、頬に鼻先に瞼に口づけてしまう。かわいい。慕わしい。愛おしい。くすぐったそうに身を竦める頼綱の肩をぎゅうと抱き締めた。
「なあ、……あのさ」
「……なんだ?」
言いかけて、俺は少し口籠もった。頼綱がきょときょとと睫毛を瞬く。このひとといられる時の俺は大概おかしいのだ、言葉を言い淀むというのも、そのひとつの事例にすぎない。
ややあって、ほわりと、右の頬にやわらかな熱が触れた。俺の背中へ回していた腕を、片方、解いて、頼綱がてのひらで包み込んでくれたのだ。この手の感触が好きだ。見るのも、触るのも、触られるのも大好きだ。
俺はその手を大切に取ると、甲へそっと唇を寄せた。
「頼綱も、俺のになってほしい。俺だけのに、なってくれよ」
頼綱、と堪らずにもういちど呟いた。身の内でぐるぐると回る熱を、その二言ではどうにも吐き出しきれなくて、火照りで喉が詰まりそうだったのだ。
頼綱は俺の眼下で微かに目を見張った。つぎに、それをゆっくりと閉じる。そうして、ふうと浅く息を吐き出した。
その間が、やけに長々しく俺に伸し掛かってくる。
あれ、と思った。何か、なにかまずかっただろうか。何か読み間違えたのだろうか。自信がなかったわけじゃあない、けれどもそれは傲慢だったのだろうか。あれ。あれ……? 沈黙。見えない視線。頼綱の思いが分からない。分からないのだ。頼綱。何とか言ってくれ、なあ、頼綱、
「……何をそんなに情けない顔をしているんだ」
俄かに目の前の夜が明るくなったような感覚に覆われた。呆然として見ると、瞼を上げた頼綱が、少し困ったように、優しく微笑んでいた。
「……よりつな」
「それこそ、とうにこちらはそのつもりだったのに、何を今さらと、呆れていただけだ」
「……あきれられた……」
「だから、情けない声を出すな。どうしてそこに食い付くんだ」
叱るような言葉ながら、彼の声音はどこまでもやわらかく、可笑しげな笑みはいっそう綻んで、俺を見詰める瞳は優しい。
「私はもうずっと、お前の、お前だけのものであったつもりだった。
けれど、お前には受け取られていなかったんだな?」
いたずらっぽくちらちらと輝く頼綱の声が、常と同じで、常とは違って、ああ、そうだ、確かにお前は俺だけのお前だった。
「……いま、受け取っていいか」
「ああ、貰ってくれ」
頼綱がゆるりと首へ抱き着いてきた。浮いた背を空いた手で抱き留める。髪へ鼻先を埋める。そのまま指で背筋をじっくりとなぞり上げると、びくりと痩躯が跳ねた。布越しの愛撫なのが惜しい。
指で来た道を帰りながら、歯で耳殻をやわく噛む。あ、と耳許で艶めいた声が上がって、俺は単純に喜んだ。甘噛みを繰り返す、俺の荒い吐息がかかる度に頼綱は大げさなほど身を震わせる。押し殺そうとするような呼吸が聞こえているのが、いじらしくて堪らない。べろりと内側から舐め上げると、とうとう必死な様子で繕っていた呼吸が破れた。
「んあぁ、ふ、ぅ、ああ……っ」
それを確かめてから、肩やら腕をさするように辿っていた手をついと動かし、肋の辺りから脇腹へと下ろした。
「っああんっ、ん、っ……、」
頼綱は咄嗟に、たぶん袖を噛もうとしたのだと思う。けれどもそれはさっき俺がさすりながら彼の腕から抜いてしまったものだから、彼はじぶんのその綺麗な肌へじかに、真珠のような歯を立てた。
「なあ、声聞かれるのって、そんなに恥ずかしいの」
「……っ、く」
「出すのが嫌なの」
「、ふ、っ」
俺は愛撫を止めた。それには相当な忍耐を要したけれども、お陰で頼綱が話してくれるようになった。
「……そう、という、より」
「んん」
「……みみざわり、だろう」
「……えー」
ひどい。少し遠慮していたのに。お前が嫌なら聴かないでおこうと。いや、今思えば遠慮のしかたおかしいだろ、俺。どうして気づかなかったのか。声を抑えようとがんばる恋人もそそるとかちょっと思っていたのか。ちょっとどころじゃなく思ってた。お陰で今までの数回分聴けた筈の嬌声がぱあだ。その代わりいじらしい姿を堪能できたわけだけど、っていやいやそうじゃなくって。
「水音とか、衣擦れとか、肌がぶつかる音だけ聞いてたいってこと?」
「……。ばか」
「あ。息遣いだ」
「もう知らない……」
こんなふうに拗ねて見せる頼綱は、俺だけの頼綱だ。たぶん。
「それか、自惚れるなら、」
「なんだ、言ってみろ」
「俺がお前の声煩がるだろってこと?」
「そうだ、そのとおりだ」
すっかり淡々としてしまった頼綱の言葉へ、そんなこと言うなよ、と返しながら肩に口づけた。
「俺は、お前の声好きなんだよ。幾らでも聴きたい。だから、抑えなくていい」
「……でも、こんな……っあ」
「抑えんな」
再び脇腹を撫でられて啼いた頼綱の手首を、それが口許へ当てがわれる前に捕らえてしまう。
「私は……綺麗に鳴けない……っ」
「いいよ」
「愛らしくも、鳴けない、」
「いいよ」
胸元の果実をやわく噛んだ。
「ひゃんっ、……ぅう……」
なおも頼綱はくちびるを引き結ぼうとする。
「お前にとってどうであったって、俺にとっては頼綱の悦がる声とか恥じらう声とかが、綺麗だしかわいいし聴きたい声なんだよ」
口に含めた果実を舌で転がす。だんだんと意固地なくちびるが解けて、嘆息のような声が漏れ始める。果実のほうは逆に硬さを増して、熟れあがった。頼綱が声の震えを殺して問うてくる。
「……五月蝿くない?」
「五月蝿くない」
「萎えない?」
「萎えない。興奮する」
「……そういうのを、はっきり言ってしまうのはどうなんだ……」
「だって、言わねえと分かんないみてえだから……」
「……むぅ」
ふたりして、弱ったような困ったような声を言葉にした。お茶を濁すように彼のこめかみを撫でさすると、頼綱は俺を見て、はにかんだようにふわりと笑んだ。俺の口許もつられて緩む。愛おしくて、両脚を抱え上げると、頼綱はびっくりしたように目を見開いた。
「は、はるひさ、」
「だいじょうぶ、いきなり這入ったりしねえから」
「あ、あ、あたりまえだっ……」
はだけていた裾が、ぐっと乱れて、太腿、すわやその奥まで露わになりかける。
「お前、ほんとに肌がきれい」
「や、」
「気持ちいい」
「あ……!」
なめらかな腿を、てのひらをいっぱいに使って、なんども撫でる。堪らずに頬を摺り寄せて、ついでに口で吸い付いた。翌朝のひかりの中で、内腿に散った朱が映えるのを想像して、にやけてしまう。
外側から腿を辿った手で、その根元、引き締まった尻に触れる。手の平側には肌の手触り、甲側には布地の感触。未だ秘められた聖所を侵しているような感覚が、悩ましく背骨を這い上る。はるひさ、はるひさと、なんどめかでようやく呼ばれていることに気がついた。
「なに……」
訊ねながら、肩へ抱えた脚の付け根、その内側に爪を緩く走らせる。や、と啼く頼綱は、もう嬌声を隠さない。かわいいよ、と告げれば彼は眉を下げ、濡れた目を少し細めた。けれどもまた、はるひさ、と、何か訴え掛けるように呼んでくる。俺の肩に残った襟を、密やかな仕草で引く。
引かれるままに顔を寄せた。つらいだろうから脚はいちど降ろす。俺の腋の下辺りに、それは絡んだ。
じ、と見る。深い瞳。僅かな明かりを拾ってきらめく瞳。きっと明かりの所為だけではない、慕わしげなひかりを宿す瞳。そのひかりが俺を呼ぶ。じ、と見る。見詰め合ったまま、俺たちは唇を重ねた。
頼綱の飴のような瞳がとろけて、俺の頬を濡らす。絡めた舌へ一緒に染み込んで、口内の蜜がくらりと濃くなる。
もっと、もっと奥へ。もっと甘く。無茶なほどの口づけを繰り返しながら想い人の帯を解くと、こちらの腰回りを危うげに彷徨った彼の手も、俺のそれをおなじように解いた。
あとはもう、ぐつぐつと。夜の底ふたりで甘く煮えるだけ。