つきがかけてきた、と呟く声がした。
細い肩に口づけていた顔を上げる。恋人は、もう片方の腕を僅か、持ち上げて、障子の向こうへと指を指した。薄い貝殻のようにひかる、人さし指の爪の先から、すうらと華奢な、肘の先、ふっくらと少し筋肉がついて、腋の微か手前まで。恋人の腕へ滑らかな曲線を描き出して、月光が降る。
それにぼうっと見惚れてから、ようよう、晴久は、その指し示す先へと目を遣った。慎ましく開けた障子戸の外は、夜の青、深い蒼、小さな庭の底へひっそりと沈んだ草木が、限りなく澄んで、ただただ、息をしている。
「……ああ」
その、ほんの少し上だった。見れば、空に浮かぶ丸い月が、下部を僅かに食い破られている。今宵は一段と冴え冴えとして見えた筈の月だった。――月が欠けてきた、と、頼綱は言ったのか。
「……帰りたかったか」
囁くような声で訊ねながら、視線を恋人へと戻す。頼綱は畳に寝たままぼんやりと外を見遣っていたが、晴久のその問い掛けと、指先に与えられた口づけの感触に、引き摺り起こされたような顔で彼を見上げた。
「……帰る……なぜ」
「全部陰って帰り道が閉ざされちまう前に、そうしたいのかと思ってさ」
晴久は右手で掬い上げた頼綱の左手に、絶え間なく口づけを落とした。先ほど月を指したほうではない、陰になって、ずっと光が当たらなかったほうの。その左手にくちびるを添わせた。静かに。静かに。
「……それは」
頼綱の声がささやかに風を生む。それが、知らず低く項垂れるように彼の首元へ寄せてしまっていた、晴久の髪を揺らした。
「それは。そんなふうには、思わない」
少し重たい、衣擦れが響いた。
ぎゅ、と、頼綱の両腕が背中に回されて、抱き締められていた。そこであるべき素肌の感覚が遠かったので初めて、晴久は、恋人ばかりを脱がせてしまって、自分のほうはまださほど着崩れていなかったことに気が付いた。
「私が在りたいと思うのは、お前の傍だけだ。――今は、もう」
頼綱のともすれば穏やかに聞こえる声の中へ、細く溶けている切ない響きを、今ではもう、晴久はだいぶ感じ取ることができるようになっている。
そっと、首を動かす。頼綱もこちらを見てくれて、泣きだしそうな瞳と目が合った。月のひかりの乗った睫毛。あたたかな星のかけらのような海を湛えた眼。指一本分で触れる距離に、花よりも雪よりもうつくしいものがある。
「……俺はね」
「ん、」
目を見詰めたまま口を開くと、頼綱は、少し身を竦めた。頬に息が掛かって、耳へ直に声が吹き込まれる格好になるから、くすぐったかったのかもしれない。
蒼い夜が目の端に掛かる姿勢で寝そべって、恋人の髪を撫でるように、囁く。
「お前が帰るって言うなら、そうすればいいと思う。行きたいってもし言うのなら、どこへでも行って、俺はそれを引き留めたりなんかはしねえから」
「……そう、か」
「引き留めねえ代わりに、俺もついて行くからな」
「っ……そうか」
「俺はね、どこだっていいよ、お前といられるなら、……俺も。何処だっていいから、お前といたい」
「そう、か……」
くらくらした。
想いを告げる毎にやわらかくなるような、恋人の頬。途方に暮れたような眉根が、安らかに綻んでゆくさまも。
「……晴久」
「ん」
背中に回されていた手が、するすると滑って、ちいさく、衿へ指を引っ掛けた。触れそうで、触れない素肌。熱だけが微かにじわりと滲みて、頭の奥をじくじくと締めつけた。思わず、期待に茹だった目を向けてしまう。けれども、遠慮がちに見上げてきた頼綱の目も、晴久のそれとおなじくらい、火照っていたのだ。
「……私も、触れたい」
はにかんだか細い囁き。果たしてそれを聞き届けた途端、もう耐えきれなくて、晴久は慕わしくて敵わない目許へと思いきり口づけた。
その、衝撃に耐えられなかったのか。咄嗟にぎゅうと閉じられた頼綱の眦を、透明な蜜が、薄く、ひかりながら、流れて落ちた。
月へおかえり。
