「……」
あ、また見上げているな、と思った。足を止めて振り向くと案の定だった。
「……」
自分の少し後ろをついて歩いていた筈の晴久が、その歩んでいたときのよりも大きく開いた距離の先で、ただ佇んで空を仰いでいる。頼綱は少しく彼の晒された顎を見詰めた。晴久は気付かない。それを咎めるような気を固より持たない頼綱も、やがて彼の視線を追ってゆっくりと顔を仰向けた。
広い。広い、空である。梢に覆われた大きな籠のような、広い空間がそこにある。
「……」
「……」
頼綱は木漏れ日に目を細めた。それから、いっときそこへ留めた視線をまた晴久のほうへ戻した。――ふと、その彼が、何やら思いあぐねているような貌をしているふうに頼綱には感ぜられる。先程、この山道への這入り口の辺りでも、やはり晴久は同じように上を見遣っていた。けれどもそのときの、ほんとうにただぼんやりと見上げているといった風体と引き比べると、此度の彼の面持ちは、まるで自分の上空に何か不可解なものでも見つけて、その正体をを解明しようとでもしているかのように熱心なのだった。
「……」
「……」
頼綱は、そんな晴久のかんばせを再び見詰めては、彼の真意が分からないので、自分のほうこそ首を僅かに傾げつつ、また仕方なしに上空を見上げた。
梢。
橘。灰の木。豆蔦?
――あ。
「……椿、だな」
「……え」
晴久の視線が頼綱の顎に当たった。その衝撃をたしかに手応えとして受け止めて、頼綱はほっと視線を下ろす。
晴久の目と合う。
「あの赤いのは、椿の花だ」
「ああ、椿」
晴久がまたそれを見上げる。頼綱も今度は自ら見上げる。
高い常緑の梢の狭間に、ぽつり、ぽつりと親指の爪ほどに赤が混じる。それらは二月の日を透かして、ちろちろとえもいわれぬ光量に煌めいている。
「随分高いところへ咲くんだな」
「ああ……人が切らねばあれほど育つ。……いいだろう」
「ああ、いい。……いいな」
静かに、けれども間を置かずに呈された同感に、頼綱は素朴に、嬉しくなる。
だって、いいだろう、なんて、常にはぜったいに人へ渡さない言葉なのだ。
「……手の届かぬ感じが、また、いいだろう」
「そうだなあ。高嶺の花は摘まれちゃ面白くねえからな」
頼綱は飽かず椿を見上げる。薄いびいどろを慎重に割って丁寧に嵌め込んだようだ。黄色い日が柔く目の奥を刺して、景色がぼやけるように、眩む。
「……」
顔を下げて目許をぐしぐしと拭った。妙なことが起こるものだ。まだ半ばぼんやりとした頭でそんな感想を浮かべていると、晴久がさくんさくんとだいぶ慣れてきたらしい足取りで開いた距離を埋めた。
「……」
「……」
涙を拭いた袖を外して目を上げると、拳ひとつ分も離れぬようなところへ晴久の顔がある。少々面食らいながら、瞬きひとつ挟んで彼と目を合わす。
このとき、彼の表情、というものを、頼綱は把握していなかった。ただ彼がそこにいるなという真実をだけ、じっと見詰めていたのだった。
「……」
「……」
けれども、暫しの沈黙の後、彼が微かに笑った気がしたのだけは、はっとするような鮮やかな感覚として頼綱の思惟へ食い付いた。
「――悪い」
「……、いや」
「行くか」
「ああ」