――。
熱い。
「……」
その男、鉄杭のごとく砂の丘へうち立っている。
広大な生成りの原が鈍風に細波立ち、神妙な流紋を浩々と延べる最中、その取り巻く心中、恒河沙の沙子を統べるごとく、紅萩の花弁色がひとつ突として生える。
一望千里の指標、三千暗夜の埋み火を、晩夏死に損ないの蛍とも云わば云えよう。
もどかしい光だ。
ほんの小さな、たったあのひとひらきりの萩色が、闇雲を分き、明けるとも限らぬ夜の明ける目を、彼を取り巻く砂の膨大な一粒一粒にまで見せようとして、泥中を藻掻く。
中空を停滞する砂塵に霞まず、ただその色がぽつねんとして――。
「……」
不意にその男の纏う沈黙がその質を変えた。それは遠目にも判然と察せられたので、それほどの、重要な、何らかの異変を彼は瞬時に嗅ぎ取ったものと思われる。
しかし、それは私も同じだった。寧ろこちらでは、彼の変化に気付くよりも一刹那早く、出雲の空気の漠然たる異変を捉えていた。
ざああ――。
感じ取った違和が言葉になる前に、出し抜けに、砂漠へ雨が降りだした。
一面の砂原へ注いで、ざあざあと音が鳴るほどである。よっぽどの雨であった。ひっきりない雨脚の白さに、萩の赤は一瞬で攫われた。
私は茫然としながらも、おずおずと足をひとつ踏み出してみた。砂の玉がきゅるきゅると沈んで、地表から流れ込んだ水がじわりと草鞋へ吸い付く。徐にその一歩を泥から引き抜いて、またひとつ踏み入れた。
萩の花弁に擬えられた浅紅は、今や人の大きさになって私の目の前に在る。ただ、ただ、空を仰いでいた晴久は、ようよう私に気付いて振り返った。
「お前の仕業か」
第一声がそれだった。
いや、けして責めたり詰問したりするような口調ではないのだが、かと言って冗談としてもあまり上手くいったとは言えないような、どこか覇気の入り損ねた声だった。
「仕業など……」
領主がこの自失振りなのである。外から来た私には無論、彼と同等、いやそれ以上の困惑を抱えているというのに。
「寧ろ私のほうが驚いている……やはり珍しいことなのか、これは」
「珍しいも何も……。俺が物心付いてからの記憶にこんな天候は一度もねえし、それ以前の話を年寄りから聞いた中にだって、なかったさ……」
晴天下のこの距離で、穏やかに語らうには、先ず出さないであろう声量を互いに張らねばならない。流石に鬱蒼とした木々の葉へ、雨粒が打ち当たる音よりは、一音一音はいくらか円やかなのだけれども。いかんせんその一音一音の数が膨大なのだ。見ると、見事な紋様を描き出していた砂の海原は、どろどろと蟻地獄のごとあちらこちらで溶け出していた。
「……すげえな」
あまり聞かれない、単調な言葉がぽつりと彼の口から落ちた。
「すごい雨だな」
私は意図を掴みあぐねたので少し迷ったが、決めて、そう返した。
「お前から見ても、やっぱ〝すごい〟方に入るのか、これ」
合っていたのだろうか。
「そうだな。車軸を流す……とまではいかないかもしれないが……もう一歩激しければ、そうも形容されそうな大雨だ」
「そうか……」
たしかに人の脚なら十分流されそうだ、と云って一歩、晴久が足を泥から引き抜いて、後ろへ退いた。足型に窪んだ砂地へ濁水がざらざらと流れ込んだ。
「――そんな大雨が、雨すら珍しい砂漠にいきなり降ってきたんだよ。そりゃあ咄嗟に原因を考えるだろ。常と違うことがそれじゃないかと目星を付けるだろ。……お前しかいねえだろ」
「わ、私はただ遊びに来ただけだ、そもそもお前が呼んだのだろう」
「そりゃそうだけどな」
さっき自分で空けた穴を腕を組んで見詰めたまま嘯く晴久に、そうと分かりつつもまともに取り合ってしまって、案の定ただけろりと返される。
「……原因を追及する前に、目下の対処法を考えるのが得策なのではないのか」
ささやかに意趣返しを兼ねて指摘すれば、しかしこの男は飄然たる語気のまま「いやあ、こうなっちまったらもう。どうしようもねーだろ」と言い切った。
なんだかほっとして、微笑うと、水煙に阻まれぬ距離の先で晴久の口許も薄く弧を描くのが見えた。
そのかんばせは、雨を吸って重たげな衣を翻した体躯とともに、しなやかに半回転して、泥土と化した砂漠へと向き合う。萩の花色の軌跡が、降りしきる水の内でも、どうして、うつくしく見事に映えた。
彼の濡れた肩越しに、私も其処を眺める。
砂丘の麓がなだらかに伸び遣り、大地へ不規則に雨が黒々と影を作っている。その窪みから立ち昇る靄は、中空へ満ちる大気の澄明さに希釈され、薄銀色になって雨の大元へと駆け上ってゆく。そしてその隙間を一縷も見逃さぬと云うように、青白色の雨脚がしとどに降りしきる。
「――帰るか」
ややあって、晴久が振り向きざま、言った。
だいぶ遠くまで雲がかかってるだろうな、城のほうでは慌てふためいてるかもしれねえな。そう続ける彼の横顔に不思議な寂寞を感じて――それは彼の貌に浮かんでいたものなのか、それとも、他ならぬ、私自身が、心の内に浮かべたものだったのか――感じて、感じた私は、ここへ留まりたかった。
「……このまま暫く待っていれば、案外すぐに止むかもしれないぞ」
そんなふうに口を衝いて出た。
「……そうか。俺より詳しい筈のお前がそう言うんなら、そうなるのかもしれねえな」
けれども、静かにそう報いた晴久が、たとえば、濡れたまま雨止みを見たところで結局すぐに帰って着物を干さねばならぬだろうとか、止もうが止むまいが現に降ってしまった雨の被害は確認せねばなるまいとか云って、いくらでもこちらを反駁し、帰途へ就けば就けたことを、そのときの私は思い付きもしなかったのだ。
「ああ、そうなるかもしれない。そうなるだろう」
「そうか、そうなるだろうかな」
だから、それから私は勢い付いて、自分にしてはもうほんとうに稀な空音を吐いて、そうして易々と流されたような返り事をした彼のそのさまを、しかし自分が今まさにしているのと同じようなことを行っているのかもしれないとは少しも疑えなかったのだった。
必死。そうだったのだろうかと思う。何にそんなに必死になっていたのか、そして何処にそんなに必死になる由縁が、私が、必死になる所以があったのか、それは、私があのとき必死だったのだと気付いてからも、ずっと分からない。
ただひとつ、分かっていたのは――覚えているのは、洋々たる砂漠の中の一粒の沙子の震えをも聞き拾うような聡い彼が、なぜかこのときは私のくだらぬ虚言にまったく気付いた様子を見せずに、ただ、その必死さを知らぬ顔で掬ってくれたということだった。
「……」
口を噤んだ彼が、無言で一歩、こちらへ――私が歩いてきたほうへ、つまり、彼もここへ来るのにそちらの途を使ったのだろうと推される方角へ、踏み出した。私は動揺した。
しかし彼が踏んだのはまさしくその一歩のみであった。常より僅かに大きかったような、その一歩のみであった。
待つか、と彼は言った。そうして、片足を軸にくるりとまた私に背を向けた。私の必死さは、そのとき彼に掬われた。
彼の髪から散った雫の触感が、微かにこちらの頬へもかかった気がした。
驟雨天下、飛ぶ鳥があったならば、私たちはひょっとすると、広い砂漠に、二人で肩を並べているように見えたかもしれない。その実私は彼の数歩後ろに留まっているのに。
さっきよりも少しく、近くなった背中を見ていた。
雨に搗かれて、砂の匂いが甘苦く立ち上る。大気へ充満したその匂いに蒸されながら、茫洋と霞む砂原を背景にくっきりと佇むその背中を、私は見ていた。