官晴

ひとツ、傘

「濡れ鼠」
 ばさ、と質量が声とともに落ちてきて、晴久が自分の視界を塞いだその一端を下から持ち上げてみると、見知った男の顔があった。
 頭の上からすっぽりと己の身体を覆った〝それ〟は、ごわごわとした布のようだった。
「雨宿るべき寄る辺もあるまい」
 男が大きな背を縮めて、トタンの下へ潜り込んでくる。その皮肉濃い声はほんに楽しげな笑いの形をする。
「にべもないことを」
 晴久が目を見ずに返した言葉へ、彼、官兵衛は答えなかった。
 ベンチの、自分の右隣にあたる部分が軋むのを肌だけで感じながら、晴久は視線を落とした。自分の手にある〝それ〟は、濡れそぼったコートだった。
 と、つとそれが攫われる。思わず右をちらと見た。ぞんざいに取り上げられようとしたコートは、まだ半ば自分の頭と肩に引き掛かっていて、そしてそのまま留められた。まるでその状態において行為の目的が達せられたというように、コートを引く官兵衛の腕はぴったりとそこで止まっていた。
 額に垂れた袖の向こうへ、彼の顔を見遣る。ぐっしょりとしたコートをそこまで纏ってきたのだろう男は、自身のほうこそ濡れ鼠の体であった。
「何してんだ、ほれ、ちゃんと被れ」
 前髪からとめどなく雫を流しながら、あまつさえ彼は、そんなことを言って寄越した。
 〝これ〟とは。やはりコートだろうか。
 意図を呑み込みかねる晴久に、痺れを切らしたようで、こちらからそれを奪ったときと同じくらい雑破な手つきでもって、官兵衛は晴久の頭へ布を掛け直した。そして、手へはその袖を握らせた。
「……」
「よし」
 なんて言いながら、晴久の背を抱くように身を寄せてベンチから立ち上がる。当然つられて立ち上がり、晴久は彼を見上げた。
 官兵衛は、こちらに被せたコートの、残りの半分のその面積へ、むりやり自分の体躯を押し込ませているのだった。こちらから見えはしないが、きっと反対側の肩は吹き曝しに違いない。たぶん、背中に至ってはまるまる。
「何、行くのか」
 困惑しつつも問えば、
「だってお前さん、こんなとこにじっと座ってたって寒いだけだよ」
 当然というように、官兵衛は言い切った。
 たしかに、晴久が振り返った先、青い古びたベンチには、穴だらけのトタンから漏った、錆混じりの水が、ぽたぽたと雨音を鳴らして余念ない。
「――な。帰ろう」
 ぎゅ、と、官兵衛の手が、晴久の背なにあって、さも自然なふうな力を籠める。それが、その実自然だろうと、人為であろうと、晴久にはどっちだってよかった。自然じみていたことそれだけが、ただひとつのうれしさだった。
 晴久は、同じコートの、少し暗い、狭いなかで、彼の顔をまた、見上げた。
 ふいに唇に熱が点る。背なから刹那に滑った彼の左手は、今、晴久のしなった髪をくしゃりと撫でた。
 こんなに間近にある筈の、彼の表情が、晴久には分からなかった。目の奥あたりが何やら、茹だったようになって、視覚の機能をぜんぶ、持っていってしまったらしかった。
 ざあざあ。
 ざあざあと、白い雨脚が空と固形土とを無数に繋いでいる。
 錆び付いたトタンの下から、一歩、官兵衛がそちらへと踏み出した。途端、強くなる雨音に紛れるから、それを言い訳にしようとでもしているのか、ぶっきらぼうな口調で、彼は言ったのだった。
「ずぶ濡れの鼠をきっちり乾かして、しっかりあっためて、そうしたら、思いっきり猫っかわいがりしてやるんだからな」
 コートの下で、官兵衛の左腕が、元のように晴久の背をぎゅうと抱き寄せる。晴久は、その力が促してくれるままに、彼について一歩、あめの下へ這い出した。
 返事にならぬ吐息を、緩い弧に引いた唇から、薄く零した。

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