ざ。
ずずずずず。
引いて、それから迫るように、遠く海鳴りが聞こえる。波が鳴るので、そこへ海があるのだと知れる。暗くて何も臨めないのに、彼は晴久をここへ引っ張ってきた。展望塔ってなんだっけ。さりとて地の利と言わざるを得ない、下から大きく包み上げるような白南風に目を細めながら言うと、それでも、一人でここから眺めた朝昼晩春夏秋冬のどの景色よりも、今見ているこの海がずっとずっと綺麗なんだと、きっぱり返された。
年を経るごとに――世を、経るごとに、そういう気障な台詞を臆面なく寄越すようになった気がする、この男は。晴久はそれに、しかし胆の強さが追いつけないままだ。今だって、見事に胸の真ん中に食らってしまったその言葉を、上手く流せなくて、持て余してしまう。そうしてまごついているうちに、彼の指に髪の毛を囚われてしまった。
指の腹で頭を撫でるように、やわらかく、つむじの辺りを梳かれる。彼が地肌へ触れたところから、じわじわと、喉許のほうへ甘い痺れが下りてきて、居た堪れなさに思わず半歩、身体を離した。中空へ取り残された彼の指は、束の間、幾筋か髪を絡めたままそこにあったが、やがてすんなりと身を引いた。二つの身体の隙間に、潮風が鳴る。濤声はちょうど引きの折で、ざ――、という音に連れられて、足許が遠く抜けていってしまうように思われた。そっと、目の前の手摺にしがみついた。
なあ、と、ややあって彼が寄越した。平生どおりの声だった。晴久は、やはりそれが少し悔しくなる。けれどもさも平静なふうで、先を促す。今はまだそれしかできない。いや、それすらも、実際にはちゃんと熟せているのだろうか。
「お前さん、昨日の夜小生に言ったことを覚えてるか」
「昨夜……?」
はたと記憶を巡らせる。昨日、二人でいたのは、せいぜい西の山際が染まる頃からだ。広くもない部屋で、別段珍しさもない食事を摂って、それから酒を飲んで、何ごともなく、眠った。その中で記憶に特別引っ掛かるようなことといえば、
「お前が情けないくらい泥酔してたことしか覚えがねえな」
そう、テーブルに噛りつくようにして眠ってしまった彼を、一応は叩き起こして、ベッドまで引き摺っていってやったのだ。むにゃむにゃとくだを巻くばかりで、毛ほども自立独歩しようとしない独活に焼かされた手を思い起こしながら、ここぞとばかりに皮肉るが、しかし彼からはおざなりな詫びも、気まずそうな弁解すらも聞かれなかった。それどころか、非難を躱して返されたのは、予想外に真面目な声だった。
「愛してる。結婚してくれ」
……。
晴久の世界は動きを止めた。
自分の中の記憶が、外の世界で再生されて、それらから成る幻影を自分は見ているのかと疑った。そうであるのならば狼狽えてはいけない。なぜなら、現実の彼は今も平然とした顔をしてそこにいる筈なのだから。もしそうでなくても、狼狽えてはいけない。なぜなら、なぜなら、……本気のわけがない。そんなわけが、ないのだから。
狼狽えないこと。狼狽える素振りを見せないこと。その一点に躍起になる晴久は、目下のところ身動きを取れないのだった。そんな彼を置き去りにして、外の世界では、時間が進む。
「お前さん言ったよな。素面で、目を見て言えってよ」
「そ、……」
慥かに――慥かに言った、酔いで記憶が混濁していたのでなければ。そして、今、彼は、やはり今の晴久が自分で作り出した妄想を観賞しているのでないのならば、慥かに、そのときの口約束どおりにこちらの目をしっかと見つめていたのだ。目許を隠すように、ずっと伸ばしている前髪の上からでも、月と星の明かりしか届かないような、夜の中ででも、その視線をずっと与えられてきた晴久には、それはもう間違いようなく分かってしまうことだった。
「――真に受けるような馬鹿だとは思わなかったんだよ……そんなの。いくらなんでも」
やっとのことで絞り出した本音は、しかし光量に左右される筈もない音の重さに打ち伏せられる。
波の音を聞いて落ち着きたくて、けれども彼の声の質量が、晴久の意識を、狂おしいまでに、引き留めて已まなかったのだ。
「この際、馬鹿だろうと何だろうと構わんさ。――晴久。小生と一緒になってくれるか」
塔の上に静寂が落ちて、初めて、波の音が戻ってきた。
寧ろ無音であってくれればよかった。潮騒が、声を失った自分を責めているように思われた。
なんで。
憶えているなんて、いや、そもそもあのとき聞こえていたなんて、思っていなかった。……願っては、いた。でもそれは殆ど祈りに近いもので、ただ、淡い感傷のようなくだらないものだったのに。
……なんで。
彼は急かさない。じっと、手も触れずに晴久の目を見つめていた。その代わりに、波の音がただ、蚊帳の外から晴久を急き立てていた。
彼の結い髪がさらりと風に靡くのを見て、はっと、そこで時間の流れが止まっていないことに初めて気づいたように我に返った。彼は、待ってくれている。駆けずり回って見つけ出して、手を掴んで、引っ張り上げて、そうまでして、最後の最後、ただ、じっと待っている。
晴久はいちどだけ、瞼を伏せた。そうして、風の音をようやくきちんと聞いた。松籟に微かに乗ってくる、彼の息遣いを、闇の中で聴いた。
「――……」
そして、静寂を破る、たったひとつのパントマイムを。
――晴久の首肯を見留めるや否や、彼はがばりとこちらを抱き締めた。正面から躊躇なく、待てを解かれた犬のように飛びついて、そのままこのけして小さくはない身体をいかにも軽々と抱え上げた。
いわゆるお姫様抱っこ。そのままぐるぐると、彼は塔の上で踊るように回る。かつて、〝いつか〟見たような情景が、ぶわりと目の前に滲んで、重なって、弾けて、そうして今に還った。いつかの幻想が、今の彼の体温へと慥かに繋がって、もう揺るがない。晴久は彼に丁重に抱き上げられて、彼の悦びが奏でるままに、夜の紫の中、二人でぐるぐると踊っていた。
「晴久、――……絶対に、後悔なんぞさせんからな。小生の持てる限りのすべての幸運を注ぎ込んで、小生と一緒になってよかったと、心の底から思わせてやる!」
いつだって叩いている大口と、感情を隠すには狡さの足りない声とが、肝心なときばかり逞しい腕の中へきらきらと惜しみなく注がれる。やっぱり悔しくて、けれどももう何より恥ずかしくて、殆ど体質として染みついてしまった口の悪さを利用しながら、詰まりそうになる息を必死に吐き出した。
……それなのに、あっさりとそれを砕きにかかる否定すらも、意気揚々と弾んでいるものだから。これから聞くどんなに笑ってしまうような彼の台詞だって、晴久にはもう、嗤うことができなくなってしまっているのだ。
「……へえ。そのなけなしの運で、か。大した自信だな?」
「違うぞ!」
「今このときのために――今から始まる、これからのために、ずっと幸運を溜めておいたんだよっ!」