尼姉

黒ねこさまと白うさぎさま

 むかしむかし、あるところに、黒ねこの晴久さまと、白うさぎの頼綱さまという、ふたりの神子さまがいました。ふたりはそれは見目麗しく、また徳に篤い王でした。
 晴久さまは西のくに、頼綱さまは東のくにをそれぞれ治めていましたが、あるとき晴久さまはふと思い立ち、東のくにを訪ねてみることにしました。音に聞くかのくにの神子さまとは、いまだ見えたことがなかったのです。
「東のくには、森のくにだという。俺のくには、一面、砂の世界だからな。緑といういろがどんなものなのかも、ついでに見てきてやろう」
 晴久さまは、家臣にわけを話すと、紅萩いろの衣装に身を包み、ひとりとことこと出かけてゆきました。
 さて、東のくにへと辿り着いた晴久さまは、まっすぐに森のほうを目指しました。なるほど、話に聞いていたとおり、じぶんのくにでは見られない、背の高い植物がいっぱいに生えています。
 ふと、目の端をなにかが横切ったような気がして、晴久さまは首を振りました。すると、おや、ちょうどその森の入り口のところへ、白いものがひょこりと動いているではありませんか。晴久さまは、そろりそろりと近寄って、ある一本の木のうしろを覗き込みました。そうして思わず、こくりと息を呑みました。
 うさぎです。
 焦茶いろの髪の毛を掻き分けて、ふしぎな長い耳が生えています。纏った衣装は、森の木の葉と同じ、深いいろ。それは、うさぎの神子さまでした。さっき木の陰から見えたのは、まっ白い毛に覆われた、このお耳だったのです。
 うさぎの神子さまは、黒く透きとおった目をまんまるにして、こちらを見つめています。晴久さまははっとして、言いました。
「驚かせて、わるかった。俺は、西の砂のくにからきた、黒ねこの晴久だ」
頼綱さまのくちびるが、ほろりと解かれました。そうしてそこから零れ出たのは、えもいわれぬ、深く落ち着いた声でした。
「はるひさ……」
「そう。お前は、このくにの神子か?」
「ああ、私が、白うさぎの頼綱だ」
 やっぱり。晴久さまは静かに目を輝かせました。
「お前はなにをしに、この森へきた」
 くにの守りびととしての厳かな問いかけへ、晴久さまはきっぱりとこたえます。
「お前に会いにきたんだよ」
「私に……なぜ」
「なんでもさ」
 口早にそう言ってしまうと、晴久さまはなにやら、ちら、と頼綱さまから視線を外しました。それから、
「なあ、ちょっと、いいか」
 と、もううずうずとしてしまった様子で切り出しました。そうして、わけも分からず首を傾げた頼綱さまの、まっ白なお耳へ、そっと手でふれたのです。
 刹那、ふるりと震えたのは、いったいどちらの肌だったでしょう。
 晴久さまだって、はじめは、驚かせてしまった負い目もあり、相手の言うことを慎ましく聞いて、お行儀よくしているつもりだったのです。けれども、どうにも我慢ができませんでした。なにせ、ほんもののうさぎをこの目で見たのは、生まれてはじめてのことだったのです。想像していたよりもずっと、ふしぎな姿。故郷にはない森ももちろん、めずらしかったのですが、頼綱さまを一目見てしまうともう、晴久さまは、ただただその長いお耳のことが気になってしかたがなくなってしまったのでした。
 わたのような、いや、絹のような、やさしい毛並みを、指先で撫でてていねいにたしかめます。そうして、耳の内側、血のいろが薄く桜いろに透けているそこへと、かろく指を伸ばしました。
 その瞬間。
 ぱしん。
 晴久さまの腕は。我に返った頼綱さまの手に弾き落とされていました。どうやら先ほどまで、晴久さまの突然の振る舞いに茫然としていたらしい頼綱さまは、いまは少し力を籠めた目で、晴久さまを見ています。責められている。そう感じた晴久さまは、すぐに心からあやまりました。
「わるい。いやだったか」
 頼綱さまはなにも言わず、少しそっぽを向きました。それをこちらへ振り向かせようと、晴久さまが、こんどは緑の衣をかけた肩へと手を伸ばしたときです。
「……帰れ」
 その手が届くよりも前に、うさぎの神子さまは一言投げ置くやいなや、ぴょこぴょこと森の奥へ逃げ入ってしまったのでした。あわてて追いかけようとしましたが、彼の姿はあっという間に木々に隠れてしまって、もう見えません。晴久さまは残念に思いました。けれども、じぶんが探しにいったところで、慣れない森に迷ってしまうだけだろうことも分かっていたので、後を追うのは渋々諦めました。
 その場で二、三度、頼綱さまのなまえを呼んでみましたが、返事はありませんでした。しかたがないので晴久さまは、この日はもうくにへ帰ることにしました。
「またくるから」
 そう言って、しばらく耳をすませてみましたが、やっぱり返事はありません。ねこの神子さまは、長いしっぽの先を少ししゅんとさせて、森のくにを後にしました。
その夜、砂漠の上を渡ってくる風を感じながら、晴久さまは、うさぎの神子さまのことをかんがえていました。あれはいったい、どれほどの時間だったのでしょうか。もしかしたら、ほんの瞬きのあいだもなかったのかもしれません。そんな、ごくささやかなあいだだけふれていた、あのふわふわとした手ざわりを思いだしました。
 けれども、そうしてやさしい気分に浸れるのも、束の間。次に浮かんでくるのはどうしても、最後に少しじぶんを睨むようにした、あの目なのです。晴久さまの御心は、一転、悲しみに包まれました。
嫌われてしまったのかも、しれません。――でも、待てよ、と、晴久さまは顔を上げました。
 〝またくるから〟と言ったとき、頼綱さまはこたえてはくれませんでした。けれどもそれは、はっきりとは拒まれなかったということでもあるのです。そうだ、いいほうへかんがえよう。もう一度、会いにいって、そうしたらこんどはちゃんと仲良くなるんだ。晴久さまは紫紺の空を仰いで、そう決心しました。
 数日後、晴久さまはいつもと同じ、紅萩いろの衣装を纏って、白縹の空の下を出かけてゆきました。
 頼綱さまは、果たしてじぶんと会ってくれるだろうか。どきどきしながら、森のくにへ足を踏み入れます。村里を抜け、山の麓へとやってきました。
 あの日と同じ、森の入り口。きょろきょろと探すと、ああ。緑のなかから、あのまっ白なお耳が覗いているのが目に飛びこんできました。
頼綱さまです。その姿を認めとたん、晴久さまはおなかの底からむくむく湧き上がってくるうれしさに押されて、跳び上がるようにそちらへ駆けてゆきました。
「頼綱!」
 肌理の粗い木の幹へ華奢な手指を添えて、うさぎの神子さまは立っていました。目の覚めるような深い萌葱いろの袖から、覗く腕が、ほっそりときれいなのに、はじめて気がつきました。それに、黒水晶の瞳にはまつげが濃く影を落として、それがかえって、瞳の潤んだ光をちらちらとまばゆく見せているのでした。
「……晴久」
 薄いくちびるがかすかにひらいて、深い声がなまえを紡ぎます。憶えていてくれたんだ。晴久さまは思わず口許を緩めました。
「こんどは何をしにきたんだ」
「お前に会いに、きたんだよ」
「……お前は、このあいだもそう言って――」
 言いかけて、ひゃっと跳び上がりました。晴久さまの手が、またうさぎのお耳を捉えたからです。頼綱さまはそのまま数歩飛びすさって、じぶんのお耳をかばうように上へ手をやりました。
「なにをするんだ!」
「あ。え、……えっと」
 晴久さまは、実は、そうして咎められてはじめて、じぶんがまったく無意識に頼綱さまのお耳へさわってしまっていたことに、気づいたのでした。
「わるかった」
「……」
「わるかったよ」
 じぶんのなかでも混乱したまま、それでも根が素直な晴久さまはあやまったのですが、頼綱さまはしばらく黙ったままに、相手の目を見据えていました。
「……お前は、ほんとうは、なんのためにやってきたんだ」
「ほんとうに、お前に会うためさ」
 引け目を感じながらも、その言葉に嘘はないので、晴久さまはしっかりと言い切ります。けれどもそのあとで、ほんの少し、照れたように口調を潜めて続けました。
「ただ、俺は……うさぎを見るのが、はじめてだったんだ。だから、めずらしくて」
「……この耳が?」
「そう」
 頼綱さまは、瞳の奥をを窺うように、じっと晴久さまを見つめていましたが、やがて、
「……そうか」
 とつぶやくと、そろそろとこちらへ歩み寄ってきてくれました。
「さわっていいの」
 晴久さまの語調がかすかに跳ねます。けれども、
「それはだめだ」
 と、頼綱さまは、とたんに足をとめてぴょんと後じさってしまいました。
「分かってくれたんじゃねえのかよ」
「それとこれとは、別の話だ」
 むくれると、きっぱりと堅い声が返ってきたので、晴久さまは浮かしかけていた右手を、しずしずと戻しました。頼綱さまはほっと息を吐いてとことこと戻ってきてくれましたが、晴久さまは、なんとなく釈然としないままでした。
「なあ、そんなに、いやなのか」
 どうぞさわってと言わんばかりの大きな耳なのに、と晴久さまは理不尽なことを考えて、むずかしそうに首を傾げます。そうして、
「ふわ……っ!」
 隙を突いて、やっぱりふたたび、白い毛並みに指をふれてしまったのです。油断していた頼綱さまは、小さく悲鳴を上げました。けれどもその、少しとろけたように甘い匂いのする声は、まるで飴のように、晴久さまの心をなんとなくそわそわさせたのです。
 頼綱さまは晴久さまの手を振り払いました。
「や、だめだと、言ったのに……っ」
「けど、やっぱり、おもしろいったら」
「おもしろくなんてない……やめろっ」
 なおも伸ばされようとした腕を、頼綱さまはかいぐってしまいました。
 晴久さまは、むっとしました。こうまでして、あきらかな理由もなしに拒まれると、かえって、意地でもさわってやりたくなってしまいます。こんどはゆっくりと、手を伸ばしてみましたが、案の定ぱっと飛び退かれてしまいました。
 頼綱さまは、警戒のいろを濃くしています。けれども晴久さまは、じぶんの喉がいよいよむずむずしてくるのを感じていました。逃げるものを追いかけたくなるのは、なにを隠そう、ねこの習性なのです。
 そろりそろりとにじり寄ると、頼綱さまもそろりそろりと後ずさります。たっと走り寄ると、頼綱さまもたっと駆け出しました。膝ほどの高さまである草の上を、そのふたつを何度となく繰り返しながら、ぴょんぴょんとふたりは駆け回ります。
 ややあって、頼綱さまはぱたぱたと、大きなの木の後ろへ駆け入りました。晴久さまはそれに合わせて、にわかに足を止め、ちょんっ、としっぽの先をわずか上にむけて揺らしました。そうっと、歩を進めます。足許では草の音がかさかさと静かに鳴りました。
 次の瞬間、晴久さまは一気に駆け出しました。木の、向かって右側から回り込むように、足音が大きくなるのもいとわず全速力です。ぴいんと長いお耳を立てたかと思うと、頼綱さまも、その反対側、向かって左から、間を置いてぱっと飛び出しました。
 けれども、晴久さまから頼綱さまに至る視界はひらけていて、じゃまになるのは足に絡まる草々だけです。森のなかを迷路のように使われては敵いませんが、速さだけなら、ねこもうさぎに負けてはいませんでした。
 晴久さまは勢いを保ったまま器用に方向転換すると、ぴょこぴょこと跳ねるように駆けっていく頼綱さまへの距離をあっという間に詰めました。
 ぎゅうっと横から飛びついて、後ろ向きに腕のなかへ閉じ籠めてしまうと、身動きのできなくなった頼綱さまがあわてるのが伝わってきます。晴久さまはそれを他所に、彼の耳の付け根へそっと、塞がった両手の代わりで、くちびるを寄せました。そのまま舌を出して、ふわふわした毛並みを、毛づくろいの要領でぺろぺろと舐めます。そのたびにぴくりと頼綱さまの肩が跳ねるのに、胸の底あたりがなんだかきゅうっとします。おまけに頼綱さまの肌からは、草はらのような、果実のような、とってもいい匂いがしていたものですから、晴久さまは、酔ったようにいい気分に揺蕩っていました。
 けれども、頼綱さまが突然、弾かれたように腕のなかで暴れだしたのです。
「あ、だめだって! こらっ」
「いやだっ、放せ……」
「あっ」
 心地よさについつい力を緩めてしまっていた腕の隙間をこじ開けるようにして、頼綱さまはそのなかから抜け出してしまいました。
 彼は、こちらをじっと見つめながら、はあ、はあ、と肩で息をしています。そこで、晴久さまはふと、じぶんも息を切らしていることに気がついたのでした。さっきは、頼綱さまをようやくつかまえることができた満足で、そんなことは気にする余裕もなかったのです。
 晴久さまは、ここで追いかけっこが終わるとは、思ってはいませんでした。ですから、お互いの呼吸があらかた落ち着くのを見計らってから、頼綱さまのほうへ一歩、踏み出すのに、なんのためらいもなかったのです。
 しかし、頼綱さまのほうでは違ったようでした。
「帰れっ」
「あっ……」
 晴久さまが近づこうと動いた刹那、頼綱さまは身を翻し、森の奥へ逃げ入ってしまったのです。まるで先ほどまでの比ではなく、無情なまでの巧みさで、彼はあっという間に姿をくらましてしまいました。
 晴久さまの胸は、悔しさに押し潰されそうになりました。しばらく、未練の載った瞳を、じっとそちらへ投げていましたが、ようよう、あきらめて、姿の見えない神子さまへ一言だけ声をかけました。
「またくるよ」
 あの日と同じで、やっぱり返事はありませんでした。
 晴久さまは、森を後にしました。
 数日が過ぎ、晴久さまはまた、めげずに森を訪れていました。その入り口へ覗いた白いお耳に、目を輝かせて駆けよります。けれども案の定、頼綱さまは、お耳へふれられそうになると、ぴょんぴょんと躱してしまいました。ふたりはまたあの日のように、ぐるぐると追いかけっこをはじめました。お耳に跳びついては摺り抜けられ、甘く噛みついては振り払われ、そんなことを何度か繰り返したのち、やっぱり最後は「帰れ」という言葉とともに、晴久さまはひとり取り残されてしまったのでした。
 その後も、ねこの神子さまは足繁く東のくにへと通っては、うさぎの神子さまのお耳を追いかけ続けました。そうしてそうするのと同じ数だけ、〝かえれ〟の三文字を食らいました。
けれども、何度逃げてしまっても頼綱さまは、晴久さまが訪ねてゆくたびに、初めて出会ったあの場所でかならず待ってくれていたのです。ですから晴久さまは、嫌われているわけではないのだと思って、深く安心していました。
 そんなふうにして、ひとつふたつ、季節が過ぎた頃のことです。晴久さまが頼綱さまの許を訪れない日が、しばらく続きました。というのも、西のくにではまつりごとが立て込む時期に差しかかっていましたので、にわかに忙しくなり、神子さまがくにを離れることができなくなっていたのです。
 あたたかく蒸し上がった空気が薄れ、肌にかかる風が少しく軽くなった時分、ようやく、ひととおりの占いやお祈りが終わりました。晴久さまは、ほっと息をつくと、からだを休めるのもそこそこに、東のくにへ赴きました。
 久しぶりに訪れた森では、果たして、頼綱さまがいつもの場所でお耳を覗かして待っていてくれました。けれども、近寄ってその表情をはっきりと目にすると、晴久さまは首を捻らずにはいられませんでした。木の陰に佇む頼綱さまが、いつもとは違って、どことなく、思いつめた顔をしているように思われたのです。――なにかあったんだろうか。晴久さまは心配になりました。彼のこんな表情ははじめて見たものでしたから、とにかく、この翳りを晴らしてやりたい、そう思って肩に手を伸ばしたときでした。
「二度とこの森を訪れるな!」
 頼綱さまが、にわかに、今まで聞いたことのない高い声で言い放ったのです。晴久さまのからだは、いろんな衝撃のためにびくりと跳ね上がりました。けれどもふしぎと、驚いただとか、悲しいだとか、そんな感情はひとつたりとも、心のなかへ浮かんではきませんでした。ただただ、一瞬で目の前がまっ暗になってしまったようで、その後のことは、もうよく覚えていません。気がつくと、晴久さまはじぶんのお社へ帰ってきていました。晴さま、と、一の家臣が心配そうに声をかけるのに、頷いて見せるだけの元気もありませんでした。
 晴久さまは、よろよろと塗籠の内へ入ると、妻戸をぴちりと閉めきってしまいました。
 今日、頼綱さまが暗い顔をしていたのは、じぶんにまたちょっかいをかけられると思ったからに違いない。晴久さまはまっ暗な部屋のなかで、重い頭を巡らしました。しばらく顔を出さなかったので、もう会うこともないだろうと、せいせいしていたのかもしれない。だのに、そこへ、じぶんがのこのことやってきたものだから……。
 内心うんざりしていた頼綱さまは、今日こそ晴久さまにはっきりとそのことを伝えようと思って、あそこにいたのかもしれません。いつも待っていてくれたのは、晴久さまのわがままを受け入れていたからではなく、頼綱さまの底なしの優しさゆえだったのでしょう。そんなことにも、今の今まで、じぶんは気がつけなかった……。溜め息をつく気力すらなく、吐いた息は細く震えました。ねこの神子さまは、うさぎの神子さまのことを想って、その夜、はじめて泣きました。
 それからというもの、晴久さまの御心は、深く沈んだままでした。青空のもとでは顔を曇らせ、月のある夜には面を臥せる、そんな日々が続きました。
 何日もなんにちも思い悩んで、ある日、晴久さまは、しかしゆらゆらと顔を上げました。
頼綱さまとお話がしたい、と思いました。これっきりで、ずっとお別れしなければならなくなるなんてことは、やっぱりいやだと、そう思ったのです。それに、元来晴久さまは勝気な性格でしたので、わけも分からずに相手に突き放されたままでいることに、少しずつ、すこしずつ、我慢ならないという感情も戻ってきたのでした。
 ゆっくりと、晴久さまは心を整えはじめました。胸のなかで散らかった想いをひとつずつ、言葉でていねいに包んでゆきます。頼綱さまに、きちんと手渡すために。
 こうしてしばらくの時間を、支度に費やした晴久さまは、ようよう意を決して、もう一度森のくにを訪ねることにしたのでした。
 とはいえ、晴久さまの顔は道すがら、ずっと浮かないままでした。頼綱さまは、こんどこそ、待っていてはくれないでしょう。いえ、それどころか、森へ入る前に彼の家臣たちにでも追い返されてしまうかもしれません。なにせ、もう二度とくるなと、彼ははっきりと言ったのです。晴久さまは重たいままの足で、東のくにの土を踏みました。
 あの山の麓までどうにかやってきて、そろりと辺りを見渡します。
 晴久さまは目を見張りました。
 そう、あの、森の入り口に! 頼綱さまの白いお耳が、ひょっこり覗いていたのです。晴久さまの胸からはそれまでの憂いが刹那に吹き飛んで、ただただよろこびが満ち溢れました。彼の許へ一瞬で飛んでいってしまえない自分の脚がもどかしく、それでも懸命に走りだしました。
「頼綱!」
 すると、声に気がついたのでしょう、晴久さまの視線の先で、長い耳が少し動きました。そうして次の瞬間、ぽっと見えなくなってしまったのです。
 晴久さまは、ひやりとしました。走って掻くのとは別の汗が、背中にじわりと滲むのを感じました。
 木々のなかへ駆け込むと、あわてて頼綱さまがいたはずの辺りを見回しましたが、そこには彼の影すら見当たりません。鼓動がいやに高鳴ります。ふらついてしまいそうになるからだを叱咤すると、晴久さまはためらわずに、森の奥へ分け入ってゆきました。
 今まで、逃げる頼綱さまを見送るばかりで、晴久さま自身は足を踏み入れたことのなかった、森の秘奥です。以前じぶんで直感したとおり、そこは案の定、進むにつけても方角を見分けるにつけても、厄介なところでした。また、頼綱さまと駆け回った場所のようには、森の入り口から差し込む光も届かないので、辺りは等しく薄暗くもありました。
晴久さまは慣れない森のなかで藪を漕ぎ、泥を跳ね、必死に探し続けました。喉が渇くのもいとわずに、幾度もなまえを呼びました。それでも、一向に、頼綱さまの気配にすら辿り着くことはできません。
 どこをどう進んできたのかも、とうに分からなくなりました。ほんとうに森に迷ってしまっていたのです。けれどもそんなことは、今の晴久さまにはもう少しも気にするべきことではありませんでした。どうせ、頼綱さまを見つけだすまで、帰るつもりはないのです。
 もう幾刻、草木の狭間を彷徨ったのでしょう。だんだんと日が暮れてきたのか、気がつくと、辺りの景色はいっそう青味を増しているのでした。
 ねこの目に、闇は大した障害にはなりません。それでも、夜の帳が見せつける時間の経過は、晴久さまの心をじくじくと刺しました。頼綱さまはもう、じぶんのお社へ帰ってしまっているのでしょうか。晴久さまのことなど、いまいましい客人のことなど、放って――。
 黒い闇に引き摺られ、晴久さまの足がもつれ、鼻の奥がちとりと痛みを訴えかけた、そのときでした。
 目の端に何かがちらと引っかかったような気がして、晴久さまははっと息を詰めました。目線を振って探すと、向かって左、わずか前方。親指ほどの大きさに見えて、けれども薄暗がりにはっきりと浮かび上がっていたのは、まごうかたなき、うさぎのお耳。
 頼綱さまでした。
 白い毛並みは、陽光の残滓を残らず吸い込んだかのように、うつくしく輝いて見えました。
「頼綱!」
 表情は分かりませんが、なまえを呼ぶと少し肩が跳ねたようでした。頼綱さまは、やはりこちらへ背を向けて、また逃げだそうとします。もちろん、それを見逃す晴久さまではありません。
「頼綱っ、頼綱!」
 この距離で、あの大きな耳でもって、聞こえていないはずがないのに。ふたたび走り出してしまった頼綱さまは、立ち止まってはくれません。顔を振り向けてもくれません。それでも晴久さまは、必死で彼を追いかけました。
 ――もう、逃がすものか、ぜったいに。
 晴久さまは、頼綱さまにどうしたって渡さなければならないものを、両腕に抱えきれないくらい、携えてきていました。あやまらなければならないこと、ようやく見つけた伝えたい気持ち、聞かせてほしいことだって、たくさんたくさんあるのです。それはどれもこれも、頼綱さまだけに、受け取ってほしい想いでした。
 森のくにのあるじである頼綱さまは、足場のわるい道なき道を、器用な身のこなしでどんどんと進んでゆきます。晴久さまはがむしゃらに草を踏み分け、根に足をとられ、張り出す枝をかいぐりながら、その後ろ姿を見失うまいと息を切らしました。
 どれほどそうしていたのでしょう。それは突然の、暁光のような光景でした。
目の前がさあっと明るくなったかと思うと、にわかにぐんと頼綱さまとの距離が縮まったのです。晴久さまは迷わず、身を投げ出すように大きく足を踏み出しながら、腕をいっぱいに伸ばしました。指先へ、かすかにふれた感触を、ためらわず掴んで引き寄せました。
 ついに、つかまえたのです。
 ふたりが飛び出した、そこはちょうど、ぽっかりと草木のひらけた場所でした。頭上の梢が少し割れているので、今までのところよりも明るくなったのでしょう。
 晴久さまは、後ろから右手で、頼綱さまの右手首を掴んでいました。足を止めた頼綱さまは、半身だけを、こちらに向けて立っていました。顔は俯いていて、視線が合いません。ふたりはしばらくそのまま、弾んだ息をそれぞれでなだめていました。
「頼綱、ごめん」
 ややあって、晴久さまの大きくはない声が、それでも周りを取り囲う木々に反射して、響きました。頼綱さまはこたえません。晴久さまの胸を寂しい風が吹き抜けます。それでも懸命に、頼綱さまへじぶんの想いを伝えようとしました。
「わるかった。お前のいやがるようなことを、してしまって」
 返事はやっぱり、ありません。
「俺は、お前と仲良くなりたかったんだよ……」
 どうか、伝わってほしい。嘘のない言葉を必死に送りながら、晴久さまはただただそう願っていました。
「お前は、俺を待ってくれてるんだと思ってた。許されてると思ってたんだ。いつも、あの場所にいてくれるから……」
「……私は、あそこで、毎日見張りの仕事をしているだけだ」
ようやく返ってきた頼綱さまの言葉は、しかし、晴久さまの胸をがこんと撞くと、そのまま心にころがり落ちて、ひじょうな重りのようになりました。
「……そう、なのか」
 そのとき、とうとう、晴久さまのきれいな三角のお耳は低く垂れ、必死な胸の内を表してぴんぴん跳ねていたしっぽも、力を失くしてしまったのです。
 けれども晴久さまは、頼綱さまの細い手首を掴んだ右手だけは、けして放そうとしませんでした。
 ごめんな、と晴久さまは呟きました。そして、
「……それでも」
 と、これが最後だという覚悟を固めると、もう一度だけ顔を上げました。
「これだけ、言わせてくれよ。おねがいだ」
 先ほどまでより幾分か落ち着いた声音に、頼綱さまの長いお耳が、ぴくりと動いて、ほんの少しだけこちらを向きました。晴久さまはもうそれだけで、泣き出してしまいたいほどにうれしかったのです。けれども、じぶんが今から言うことを聞いてしまったら、頼綱さまはすぐに耳を背けてしまって、じぶんを突き放して、こんどこそ二度とは会ってくれないかもしれない。そう思うと、胸の底のほうがさっと冷えてゆくような心地がします。
 それでも、今日、すべて伝えてしまうと決めたのです。ほかのだれでもない、頼綱さまだけに伝えたい想いを。
 晴久さまは、すっと、息を吸い込みました。
「俺はたぶん、きっと――お前に、恋をしたんだ」
 さわ、とふたりのあいだへひとつ、風が吹き抜けます。
 びくんと、頼綱さまのからだが震えました。
 そう、最初に晴久さまの心を擽ったのは、見慣れないうさぎのお耳の、ものめずらしさだったのです。そうして、逃げる頼綱さまを追いかけ続けるその理由だって、晴久さまは、じぶんでもずっと、ねこの本能のためなんだと思っていました。けれども、毎晩のように砂漠の風を受けながら頼綱さまのことをかんがえるうち、どうやらそれだけではなくなっているということに気がついたのです。
 いつしか、その毛並みのやわらかな感触、ふれた瞬間に跳ねる肩、やさしげな目許、淡く染まる頬、落ち着いた言葉遣い、深い声、華奢な手、それらすべてが愛おしくてたまらなくなっていたのでした。今ではとっくに、逃げるものを捕らえたいねこの本能よりも、愛しいひととじゃれあっていたい欲望のほうが、ずっと大きくなっていたのです。
 顔を逸らして俯いたままの、頼綱さまを、晴久さまは見つめました。長いお耳は、時折ぴくりぴくりと動きながら、なおもこちらに向けてそばだてられています。聴いてくれて、いるのです。やさしい頼綱さま。そのやさしさに甘えて、晴久さまは、もう一言だけ、告げました。
「この想いを、受け取ってくれねえか」
 頼綱さまは、ややあって、ゆっくりと、顔をこちらへ振り向けました。その表情は凪いでいて、感情を読み取ることはできません。頼綱さまはしばらく静かに晴久さまの目を見つめていましたが、やがてかすかに、声を落としました。
「……ひとの心は、うつろう」
 頼綱さまが、どういうつもりでそれを言ったのか――そのときの晴久さまには、まったく分かりませんでした。ですので、ただただ誠実に、正直に、頼綱さまの言葉にこたえようとしました。
「俺はねこだから」
「ねこでも、なんでもだ。生きていれば、なんでも。かならず……」
「だけど、」
「お前もそのうち、私のことは忘れる。それが、当たり前だ。それでいいんだ」
「でも、」
「もう、私に構うな」
「……」
 頼綱さまは口を閉ざして、静かな表情のまま、また晴久さまを見つめました。
――変わらない、なんて、だれが言えるでしょう。晴久さまは思います。先のことなんてだれにも、じぶんの心の行方さえ、ほんとうはじぶん自身にだって分からないのです。だからこそ、彼には……ほんとうに愛している頼綱さまには、心にもない甘言で取り繕ったような、無責任な返事はぜったいにしたくない。そう、強く思いました。
 だから、晴久さまは、そっと一歩、頼綱さまへ近づくと、その目を深く見つめ返して、囁きました。
「俺の心は、たしかに変わるよ。少し前までは、お前のことを知りもしなかったのに、今ではこんなに、いとおしいと思うから」
「……」
 息を呑む音が、しました。頼綱さまの表情が、ほんのわずかに動いたのです。笑ってほしいなと、ふと思いました。じぶんのことをうたぐってほしくないなと、思いました。頼綱さまはどんなにやわらかく、やさしい笑いかたをするのでしょう。晴久さまはまだ見ぬその表情を、にわかに知りたくてたまらなくなりました。やっぱり、どうしたって、お前がほしい。そうしてじぶんの内からせり上がってくるどうしようもない熱を、そのまま声にしたのです。
「……うさぎの心も、うつろうんだろ? ……なあ、俺のこと、好きになってくれよ」
「……」
「……いや、好きに、させてみせるさ」
 晴久さまは、今はもう、食らいつくような熱さで、頼綱さまの瞳を見つめていました。頼綱さまはたじろいだように、視線を外してしまいます。けれどもその頬はすももの実のように愛らしく染まり上がっていましたから、彼がじぶんを嫌っているのではないことなんて、晴久さまにはもうありありと分かってしまったのです。
 晴久さまは、顔まで背けてしまおうとする頼綱さまの手首を左手で引いて、あいた右手で彼の頬をやわく捉えました。そうして、こんどはきちんと瞳を合わせて、告げたのです。
「好きだよ、頼綱」
 ――とうとう、頼綱さまは、なにかが彼のなかでふつんと切れてしまったように、緩く目を細めると、晴久さまの胸へことんと身を委ねました。
 あたたかい。
 うれしい。いとおしい。
 晴久さまは、そのからだをたいせつに、たいせつに、抱き締めました。
 不意に、まろやかな光が天上から注ぎました。暮れきってしまったと思っていた日は、流れてきた大きな雲によって隠されていただけだったのです。甘い蜜柑いろの陽光が、二人をやわらかく包み込みます。晴久さまは、じぶんの肩に凭れている焦茶いろの髪の毛を、ゆうるりと掻き混ぜると、ほんの少しだけ、身を離しました。覗き込めば、やさしく潤んだ黒水晶と視線がぶつかります。夕陽に細められた、頼綱さまの瞳と、少し濡れたまつ毛が、とてもきれいだと思いました。
 穏やかなぬくもりのなか、晴久さまは頼綱さまのほうへゆっくりと顔を寄せ、そうして、ふたり、どちらからともなくまどろむように瞼を下ろしました。
 やわらかく光の降る森のなか、ふたりの神子さまは、祈るように、捧げるように、ささやかなくちづけを交わしました。

 それからふたりは、いつまでもいつまでも、睦まじく寄り添い合い、しあわせに暮らしたということです。

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