砂礫飆風(官+晴)

地祇

 月の海だ。
 黄色い光が十六夜のまろやかな輪郭へ満ちて、それが砂岩を少しずつ削ったようにさよさよと、天から地上へ注いでいる。乾いた水。それはいったいにどれほどの年月を費やして降り積もったというのか。数年前まではこうも広くはなかったような気のする砂原を、ひとり歩みながら思う。とり留めもない、朧な記憶だ。或いは自分は〝どこかの穴蔵〟で道を間違えたのかもしれなかった。よしそうであったにせよ、今の自分にこの道をわざわざ引き返す理由も、そうするつもりもないのだが。
 躊躇うのは今宵の月の出だけで十分なのだ。
 砂面へずるずると、鉄球を引き摺るによってできた航跡を、仔細に燦めかす、心からよい月だった。まるで暗っぽい、自分の身の上にはそぐわないほどの。あまりにも自然にそんな考えを浮かべるのは、彼が不遇の人生を行くに当たって得た習い性だ。たとえば、今日のような良夜には、――そう、あのお月さんがこちらへ向かって墜っこちてきやしないだろうか。
 しかしそれは覚えたところでどうしようのない不安でもあった。そのことも亦、彼は酸い人生の中で分かっていたから、兎にも角にも今宵の寄る辺と定めたところへ舳先を向け続けるのだ。
 不意に、それまでどおり踏み出した右足が、それまでとは文字どおり段違いにぐっと沈み込んだ。かと思えば、急速にざらざらと、周囲の砂が流れ出す。まるでこの右足を中心に吸い寄せられるように動き出した地面は、見る間に擂鉢状に落ち窪み、愈々まるっと彼の身体を呑み込んだ。

「何故じゃ……」
 岩の感触が背に冷たい。呟いた声は洞窟へ小さく反響した。
 今や月明かりは遥かに遠い。高い天井へまばらに開いて見える小さな風穴、そこから細々と射し込んでいるだけだ。さらにそこから、あまりにも慎ましやかな光芒と絡まってぱら、ぱらと降ってくる地上の砂粒の軽やかなこと。
 月は墜ちずともツキは自分もろとも堕っこちたのだった。岩盤へ仰臥したまま見上げる光景。
――ここは尼子の隠し陣によく似ている。
 ふと思ってから、自分は頭を打ったかなと官兵衛は考えた。まさに今これから、縁を結びに行こうという相手の話なのだ。仮にその手の内、腹の深奥まで既にこちらが知っているのならば、わざわざ偽りの握手をしに行くまでもない。……或いはそんな道を、〝いつか〟は通ったことがあったのかもしれないが。
 つうと、ささ風がひとつ、頬を撫でた。寝起きに顔を洗うような温度。
「土竜が空から降ってくるとは」
 静かな声がした。それでいて琳琅と大気を鳴らすその音は、無論自分のものではなく、官兵衛は大儀に視線のみ巡らす。風下の方。薄ぼんやりと人影らしきものがたしかに見える。顔までは分からなかったが、官兵衛にはなんとなく同類に喚起せられる勘のようなものがあった。
「寧ろ蟻地獄にかけられた蟻の気分だよ。神社の軒下か、ここは」
「流石慧眼の主殿」
 転寝の口から出たのは気怠い厭味だった。しかしその何が琴線に触れてしまったというのか、目の前の男は気を凛と張るとまるで朗々と詠じ始めたのである。
「そう。まさにこの地こそが、神の杜」
「……森ってなァ」
「いや、なんだその目は。――お前は地下水脈の流れを知らねえな。このくにには民という草々、兵という囃子、それで十分なのさ」
 鼻梁へ皺の寄るのは諦めて、官兵衛は息を吐いた。「……そんならそういうことにしておくよ」居住まいを正しがてらに話題を改める。
「時に、その杜を治ろしめす王様へ、ひとつお話をお持ちしたのだがね」
「葦ほど易くは靡かねえ」
「いやいや、お前さんを――勝つ日の山の主と見込んでの頼みさ」
「……ほう」
 たしかに軽く浮いた嘆詞の隙へ官兵衛はするりと足を差し込んだ。慣れぬ諂いも偶には功を奏したらしい。
 要は、天つ下に日を負うて坐します神々を畏れながら捕って食ろうてやろうというお話だ。しかし語れば短くはないそれを、月山の主は終いまで黙って聴いていた。そうして、官兵衛が口を閉じるや「日の神を平らげるに月の神を頼ろうってのは、目の付け所は悪くねえな」と、静かに話者を褒めさえした。
 しかし、そこからは官兵衛の予期、いや覚悟していなかったことだった。――何せこの洞窟へ落ちてきたこと自体が計算外だったのだ――その見知らぬ地下へひとり置いてけ堀を食らう羽目になることへ対する、具体的な用意などある筈もない。
「なら、――少々〝見させて貰う〟とするか」
 勝日山の王はそう声音ばかりは明瞭に宣言すると、落着させて久しかった肢体をやにわに衣もろとも翻した。張りのあるがかつ艶美とも十分に見えるその動きから生み出された風は、裾風の範疇を優に超え、岩窟の中を大きく吹き荒んだ。そしてその一陣がぐるりと天井まで巻いたあと――風の主の姿は、もうまったく消えていた。

 *

 霜黒葛来るや来るやに、河船のもそろもそろに……。
 舌先へ昇りかける巫山戯た節を奥歯でがっと噛み消した。先日、この地で胡乱な言説を聞かされた所為だろう。それを吹聴した香具師へ今日は文句のひとつも携えてきたつもりだったのだが、来がけに目にしたやはり珍妙な光景への興味で、その憤慨の、官兵衛の腹の中における居所の大半は奪われてしまっていた。官兵衛の怒りは持続しない。どころか、またしても眼前に現れたこれまた奇怪な光景に、先の気がかりすらも埋もれてしまったのだった。
 鮮やかな着物が地面に張り付くごとく屈み込んで、素手でもって乾いた大地を大きく掻き分けている。
 その傍には、月光を固めたような透きとおる刃が横たえられていた。
「――何してるんだ」
「月待ち」
 嘘を吐け。白々しく答えた青年は、明らかに地面と直向きに向き合って、空なんぞ見ちゃいなかった。
「居ても臥しても待てねえ月は、故人偲びつつ忍び待つに限るのさ」
 「……墓か」からりとした声に対して自分の声が妙に湿っぽく落ちた。
「別にどこでもいいんだけどな」
 この地全てが墓のようなものだから、と、乾いた声が砂を潤す隙もなく、さらさらと後腐れない地を青年の手はざくざく掘り進めている。
「――このくにの砂は、命に等しい。たくさんの、途方もないくらいたくさんの、人の骨と、獣の爪と、虫の甲と……じっくり時間をかけて、ゆっくり砂になってった。
 みんなみんな、この地で生きて命を散らしたものはみんな、最後、砂に還ってくのさ」
 官兵衛は考えた。彼があのとき語った〝神〟というのは、ひょっとすると神話伝承の登場人物などではなく、この土地そのもの、或いはそれへ対する〝人間の信頼〟を表しているのではなかろうか。そしてその神力を吸い上げ、砂漠の真中に立ってあるこの――。
 青年はやがて、傍に置いていた――察するに遺品、を砂の底へ沈めると、砂の山を手際よく切り崩してあっという間に墓穴を塞いでしまった。
 「今日見たことは忘れろよ」と、彼はこちらを見ぬまま言った。
「行きずりの他人に死後の影を晒すなんざ恥でしかねえ」
 しかしその言葉は、果たしてほんとうに自分の兵を思い遣ってのものなのか、はたまた彼自身が殊勝な弔いを見られてしまったことへの気まずさからきたものなのか、官兵衛には分からない。
「……ところで、ここへ来る途中、真っ白い獣の大群を見たんだよ」
「ああ、因幡の白兎さ」
「……」
「鮫もいただろう。……何、遭わなかった? ならお前、運がよかったよ」
 前言を撤回したい。やはりこいつは多分に頭がおかしくて、そのうち自分は神の末裔だとか言い出しそうだ。
「……それはそうと、こないだの話だよ」
「こないだ、というと」
「とぼけるな。見知らぬ穴道へ置いてけ堀にされただけの甲斐を、小生は得られるんだろうな」
 本題を忘れかけた自分のことは言わねば知られることはないので棚に上げる。問い詰める体で肯定を催促するが、されている側の青年は何やら、んん、と口を濁した。
「……どうだろうな」
「どうだろうなて」
「ああ、今ではもはや臥し待ちの月さえも昇ってしまったことだ。件の答えは今宵の夢にでも祈ぐとしよう」
「あ、……おい、待て、って! こら!」
 官兵衛の喚声を聞き届けることもなく、青年の身体は、数日前の終いと同じように出雲の風へ溶け消えた。
 ――何が夢占だ。
 こちらを見定めるなどと宣うてはいるが、あれはきっと人を弄んで楽しんでいるだけなのに違いないのだ。……自分は彼の性根を知らないのだから、そういう予感がするだけで、実際のところは分からないけれども。
 ――そもそも月待ちだとか言っていただろうに。寝るのかよ。

 *

 ざああ。
 水、水。水。
 肉色の朝焼けの端っこへ、露草の汁を擦り込んだような空。それを背景に細かな水晶の飛沫が無数に飛びしきる。黒い巌が高々と聳えて、その岩壁をしとどに滝が滑り落ちている。
「これこそが、青垣山の礎」
 官兵衛は声を見上げた。水流の頂、そこへ坐します花を見た。
「砂漠に咲く草莽の糧たる水流だ」
 ――たしかに、花だ。
 あれは萩だった。草莽の青幡が成す杜の真中へ、その力を地下水脈に溶かし思うさま吸い上げて咲く、彼はたしかにそういう花らしかった。民草が青垣巡らして守らんとする華にして、荒地を最初に切り拓き、己が身をもって潤し肥やさんとする草。
「また逢ったんだ、白兎。あれはその都度いる場所が違うのか」
「いや、因幡のは氣多の前から動かねえ筈さ。……そういや、もうじき八月十五夜だな。そろそろ降りてきなさったんだろう」
「月の、兎だってのか」
「まあ、偶にな」
 酒でも噛んで醸そうか、しかしあれは故郷の餅を恋しがるんで、団子を供えたほうがいいかもしれない。独り言のように語る青年の姿は、しかし突飛な台詞に反して、妙に素朴に見えた。
「あまり兎について惚気ていると鹿が鳴くぞ」
「……自分から話し種を蒔いておいてよく言うよな」
 すとんと素直に呆れたような彼は、言葉の内容に関しては否定するつもりはないらしい。こちらへまともに取り合うのを、面倒がっているだけなのかもしれないが。
「お前さん、――」
 ばしゃあん。
 うつくしい、見事な、絢爛な飛沫が上がった。官兵衛の見る先に、人影はもうなかった。
 澄んだ水を盛大に引っ被って雫を垂らす官兵衛の背中から、こんどはごうと風が吹き上がる。振り向いた視界にぶわりと紅萩の花弁が咲いた。
 自ら滝壺を潜った青年の身体は、しかし清らな風に干されて、もうすっかり乾いていた。
「――先達ての〝うけひ〟の結果はいかがか。ここまで焦らしたんだ、さぞいいご神託を得られたのだろうね」
「……そうだな」
 漸く。漸く相手からまともな返りがある。
「――これも〝何かの縁〟だろう」
 それだけの返事だが、官兵衛には十分な収穫だった。
 青年は静かに天を仰いだ。山際からうっすらと朝日が射し始めているが、彼の目の先にあるのはおそらく、間もなく東へ昇ってくる月のほうなのだろうと、なんとはなしに思われた。彼はそっとその両手を合わせる。瞼を伏せた王の朴訥な祈りに倣って、官兵衛も少し、神妙になってみようという気が起こる。神頼みはいつも裏切られてばかりだけれど、まあ、偶には。
 東の月へ向き直って、無骨な手枷板の先でかろうじて指先を合わせた。
 日の陰からじっと地を見守る三日月と、その隠れた秋月の下で揺るがぬ一輪萩。その傍らで、
 ――あれが堕ちてきませんように。
 煩悩を洗うように流れた初秋の風に濡れ髪を冷やされて、官兵衛は堪らずひとつくしゃみをした。

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