学習するAIには成長の限界があった。
最先端の技術はそれ自体が最先端であるがゆえにその向かう先は未知だった。超高性能人工知能の行く末は、未だ事例として人類の手に存在しなかったのだ。
キャパシティを超えた動作を強要された回路は少しずつ壊れ始める。
キーボの記憶はゆっくりと、しかし確実に剥がれ落ちてきていた。
「最原クン、」
夜に丸ごと呑み込まれた部屋で、キーボくんが声を発した。今日一日、彼の調子はよくて、時計の針が二本揃って天頂を通り過ぎた今も、ちゃんと僕の名前を、僕に向けて呼んでくれる。
なあに、キーボくん。僕も慥かめるように、彼の名前を彼に向けて返す。
夜のとろりとした紫色がキーボくんの身体の表面を少し光らせた。
「ボクを壊してください」
静かに放たれた言葉に吃驚する。彼の顔をさらにまじまじと見た。……僕が涙腺なんか付けなくていいと言ったから、真に受けて付けないままにしてしまったのだ。ほんとうに泣いたら、あの大きな目が今度こそ溶けてしまうと思ったから。それでも今の彼は、慥かに、泣いていた。
やっぱり付けて貰えばよかったんだ。今になって、今までにないほどの後悔が押し寄せる。こんな大きなものを外に流し出すことができないなんて、酷以外の何物でもないように思えた。
「ボクは。嫌だ。忘れたくないんです。憶えていたいんです。嫌だ、みなさんを、最原クンのことだけは、忘れてしまいたくなんかない、ちゃんと、憶えたままで、最原クンを、ちゃんと大好きなままで終わりたい」
キーボくんの青い目がとぅるとぅる光っているのを、僕は見つめていた。言葉が出てこなかった。
「忘れる前に死にたいです。最原クンに、壊してほしい。ボクを壊してください。最原クンの手で終わらせて貰えたら」
喉に引っかかっているのは、言葉になる以前の夾雑だった。どれを伝えて許されるのが分からなくて震える腕でキーボくんを抱きしめた。すぐに背中に彼の腕が縋りついてきて、それだけで酷い安堵感が足許を襲う。その感覚は同時に昨日の恐怖を思い起こさせるものだった。竟に僕の顔を眺めて、首を傾いだ彼の目、僕の名前を馴染まないもののように転がした彼の舌。
あの途方もない恐怖が、首筋から手を差し入れ僕の脳髄を鷲掴みにする。
僕も泣いてしまった。彼の頭をぎゅっと抱き寄せる。最原クン、とくぐもった声が耳に滲みる。壊してください、と頻りに頼んでいる……彼は本気で言っている、んだ。
「……で、も、……」
やっと開いた僕の口からは情けない、歪んだ音しか出なかった。駄々を捏ねてはいけないのだ。それは彼の言葉を軽んじることに、彼の涙を否定することになるから、でも、でも、でも……。
「最原クン」
「ご、めん、違、うんだ。で、でも、」
「最原クンに壊してほしいんです。最原クン、最原クンに……」
「でも、さ。一時的に記憶の在り処が分からなくなったって、今日みたいにまた戻るかもしれないじゃないか。前だって二人してよくやったでしょ、部屋の鍵がなくなっても、仕事の書類さえ失くしちゃっても、結局またちゃんと見つかったみたいにさ。だから」
「いつ見つけられなくなるか分からないんです」
「……」
努めてなんでもないことのように捲し立てる僕を、遮った声はいやに落ち着いていた。否定されることを待っている声では、なかった。
「……ちゃんと憶えている状態が、慥かに保証されているうちに、死にたいんです」
「死にたい、なんて、言うなよ……」
「……では、言い方を換えますか」
悪足掻きというよりは素朴な嫌悪……いや、淋しさの発露だった。それでもキーボくんの望みに対立する発言であるには変わりない。彼はやっぱり冷徹に、僕を説得にかかっていた。
「――〝大切にしたいものを大切だと思えなくなってまで生きていたくない〟んです。最原クンとの思い出を失くして、最原クンを大好きなこの気持ちを忘れて、そんな、そんなのは……もう、ボクじゃない。少なくとも、それは〝ボク〟にとっての幸せでは、ありません」
キーボくんはそう換言した。涙が勢いを増して止まらなくなった。キーボくんの肩に垂れて彼の身体の表面をただ流れていくのが悲しい。僕の肩も濡らしてほしかった。
そうすれば二人分の涙で、せめて、この藍紫の箱の中に二人の体温以外何も見えないまま、溺れ死んでしまえる気がしたから。